第1章-第18節 『地獄の猫は三度鳴く⑥』
胸の奥で、燻る火種のようなものがじわじわと広がっていく。
リモメラは悪魔かもしれないけど、そんなのは所詮大昔に誰かが貼ったレッテルに過ぎない。
目の前のこいつは、確かにアルバのことを思っていたはずなんだ。
そこに天使だからとか、悪魔だからとか……そんなもの関係あるのか?
誰かにとっての天使が、別の誰かにとっては悪魔になり得るというのなら――
“悪魔”が誰かを救うことだって、あるんじゃないのか。
「……待ってくれ!」
気づけば、そう叫んでいた。
リモメラがゆっくりとこちらを振り返る。
俺を映した金色は怖いくらいに静かで、心臓が跳ねた。
けれども一度口から出てしまえば、それは堰を切ったように溢れ出す。
「お前のことを忘れて、全部なかったことにして……それで、本当に幸せになれるのかよ」
その声は、自分でも驚くくらいに震えていた。
俺の言葉が、目の前の青年の人生を左右するかもしれない。
そんな責任を負う覚悟が、俺にあるのだろうか。
俺は、アルバがカインに依頼をしたから、たまたまここに立っているだけだ。
彼らのこれまでなんて知らないような、言ってしまえば部外者の俺が、こんなことを言うのはおかしいかもしれない。
それでも――今ここで口を噤んでしまったら……アルバがリモメラのことを忘れてしまったら、彼が彼ではなくなるような、そんな気がしてならなかった。
「たとえ辛かったとしても、悲しかったとしても……そういうのも全部ひっくるめて、“その人”なんじゃないのか?」
静寂の中で、俺の声だけがやけに大きく響いたような気がした。
言葉に呼応するように、アルバの頭上を漂っていた白い靄が大きく揺らぎ、引き返すように彼の中へと戻っていく。
それがリモメラの意志なのか、アルバ自身の意志なのか、はたまた俺が介在した結果なのか――答えはわからない。
どちらにせよ、断ち切られるはずだった“繋がり”が結び直されたのは確かだった。
次の瞬間、伏せられていたアルバの瞼が震え、指先がぴくりと動く。
ゆっくりと開かれた目は迷うことなく、真っ直ぐに目の前の存在を捉えていた。
「――俺は……君のこと、忘れたくないよ」
その言葉に、リモメラの背が僅かに揺れる。
アルバの声は、まだ夢の底から引き上げられたばかりのように弱々しいものだった。
けれども、それは小さな焔のように、確かな熱と光を帯びている。
「……聞こえてたのか」
思わず漏れた俺の声に、小さく頷くと、アルバはゆっくりと言葉を紡いだ。
「……俺が本当に怖かったのは“ノアル”が居なくなることじゃなかったんだ。いつかその悲しみが少しずつ薄れて、あの子が居ないことが当たり前になって……俺だけが先に進んでしまうんじゃないかって……それが怖かったんだ」
それは、今まで誰にも見せなかった心の奥底を吐露するようなものだった。
彼は一度拳を強く握りしめて続ける。
「……でも、違うんだよな。俺が覚えている限り、ノアルはちゃんと俺の中に居て――置いていくんじゃなくて、一緒に進むんだ」
その瞳には、もう虚ろな光はない。
そこにあるのは、これからを自ら選び取ろうとする確かな意志だった。
「リモメラ、君と過ごした時間は……俺にとっては、ノアルと過ごした時間と同じくらい、大事なものだ。どっちも俺が俺であるために必要なんだよ」
アルバが深く息を吸い込む。
「――だからリモメラのこと、ちゃんと覚えておきたい」
真っ直ぐにそう告げたアルバを、金色の瞳はただ静かに見つめていた。
暫しの沈黙の後、リモメラがふっと息を漏らす。
「……悪魔にそんな優しいことを言うなんて……馬鹿だねぇ、お前は」
吐き捨てるような言葉とは裏腹に、その声音はどこか温かった。
「お前が私の名前を呼んでくれるなんて、想像もしていなかったよ……どうしてか懐かしい」
リモメラの目が遠くを見るように細められる。
「夢を見ていたのは、私も同じだったのか……」
小さくこぼれた声は、静かに空気に溶けていった。
――もしかしたらリモメラも、アルバに誰かの面影を重ねていたのかもしれない。
やがて、リモメラはぐっと体を伸ばすと、もう一度アルバの手の甲に頬をすり寄せる。
「……さて、そろそろお別れだ。お前がちゃんと前を向けたのなら、私も安心して旅立てる」
そう言ってテーブルから飛び降りたリモメラは、ゆっくりと窓の方へ歩き出した。
その背中に向かって、アルバが声を上げる。
「リモメラ! また……また会いに来てくれよ! 今度は本当の君で」
リモメラは一瞬だけ足を止めると、振り返らないまま鼻を鳴らした。
「ふん……せいぜい私が聞きたくなるような面白い話の一つや二つ、作っておくんだね」
リモメラらしい“捨て台詞”に、アルバがふっと微笑む。
三度目の鳴き声の代わりに響いたそれは、もしかすると彼にも聞こえたのかもしれない。
小さな黒猫はどこか軽やかな足取りで、影となって夜の闇の中に消えていった。
***
アルバの家からの帰り道、夜風が妙に心地よく感じた。
ただの猫探しのはずが、まさかこんなことになるとは。
体はくたびれているはずなのに、不思議と心は清々しさで満ちている。
俺はずっと、流されるように生きてきた。その方が、傷つかないし、責任もないから。
でも、あのとき俺は確かに――自分の意志で流れに逆らった。
変な感じだった。
死んでるはずなのに、今までで一番“生きてる”って気がする。
「……探偵助手ってのも、案外悪くないのかもな」
ぽつりと漏らした言葉に、隣を歩いていたカインがぴくりと眉を上げた。
「おや? おやおや〜? あんなに拒否してたのに、どうしたんです?」
ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら、俺の顔を覗き込んでくる。
その顔があまりにもからかう気満々だったので、俺はむすっとして言い返した。
「うるせぇ、茶化すなよ。……あれだよ、こう、なんていうか……俺でも誰かの役に立てるんだなって……ちょっと、思っただけだ」
言い出したはいいものの、どんどん自分でも何を言ってるんだという気分になってくる。
気づけば声はどんどん小さくなっていて、語尾にかけてはほとんど聞き取れたか怪しいレベルだ。
絶対笑われる……いや、むしろ笑ってくれ。
「うん。いいじゃないですか、それ」
俺の予想を裏切って、カインは穏やかな声でそう言った。
馬鹿にするでもなく、当たり前のように肯定されて、なんだか胸がむず痒くなる。
カインは一度空を仰いでから、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「……今日のこと、ハジメさんが居なかったら結末が変わっていたかもしれません。僕一人じゃ、真実に辿り着いても、“心”までは救えなかった……君の意志が、彼らを導いたんです」
ちょっとは役に立てたかな、くらいにしか思っていなかったのに、まさかそんなことを言われるとは。
あのときは必死で、自分でも何を言ったのかなんてちゃんと覚えていない。
本気で言っているんだとしたら、俺のことを買いかぶりすぎじゃないだろうか。
「そんな大したもんじゃねぇよ。俺はただ、放っておけなかっただけで……」
「動機なんてそれで十分ですよ。誰かの未来を変えたことに違いはないでしょう?」
そう言って、カインはふっと目を細めた。
「地獄には、君みたいに……ただ真っ直ぐに手を伸ばせる人間が、必要なのかもしれませんね」
「そりゃ、無鉄砲って意味じゃないのか?」
「ふふ、まさか。“無垢な行動力”ですよ」
なんだそれ、と笑いながらも、心の奥がじんわりと熱を帯びる。
誰かに面と向かって“必要”なんて言われたのは初めてかもしれない。
しばらく並んで歩いたあと、俺はふと思い立って口を開いた。
「……なぁ、カイン」
「なんでしょう?」
「お前はさ、なんで探偵やってんだ? いや、なんていうか……お前にも何か目的とか、理由があるのかなぁって」
ただ純粋に気になって、口にした言葉だった。
カインは暫し黙り込むと、小さく肩をすくめる。
「強いて言えば……自分のため、でしょうか」
「自分のため……?」
返ってきた言葉が意外で、俺は目を瞬かせた。
何かを考えるように、カインが胸元のループタイを指先で弄ぶ。
彼の瞳の色に似た青い石が、街灯の光を鈍く反射した。
「――僕は、僕が忘れてしまった“カイン・レイエル”という人間のことを知りたいんです」
「忘れ……は?」
「僕には、地獄に来る前の記憶がないんですよ」
言葉の重さとは正反対の、まるで天気の話でもしているような声音だった。
カインは眉尻を下げると、困ったように笑う。
「名前だけは覚えてたんですけどねぇ。それ以外はまるで……何を忘れてしまったのか、どうして忘れてしまったのか、皆目見当もつかずでして」
その言葉で、カインがリモメラのことを調べた“事情”も、アルバの家で見せたあの表情も……今日一日で感じていた違和感の理由が、やっとわかった気がした。
記憶を取り戻そうとするカインと、記憶を捨てて“ノアル”を求めようとしたアルバ。
なんだか皮肉な話だった。
目の前の男は、一体どんな気持ちであの青年と向かい合っていたのだろう。
口を開くタイミングを見失ったように黙り込んだ俺に、明朗な声が降ってくる。
「――でも、こうやって探偵を続けていれば、なにかわかるかもしれないって思うんです。それに……自分自身が“謎”だなんて、わくわくするじゃありませんか」
そう言っていたずらっぽく笑うカインは、やっぱり“探偵”だった。
その顔は心の底から楽しそうで、俺までつられて口元が緩む。
「……ふ、なんでそんな楽しそうなんだよ」
「だって、後ろ向きじゃ前には進めないでしょう? 人生楽しんだもの勝ちってやつですよ」
それがモットーとでも言わんばかりに、カインが得意げに胸を張る。
俺が思わず「もう死んでるけどな」なんて溢すと、彼はふっと微笑んで言った。
「生きていても、死んでいても、進もうと思った時がスタートです」
その声には、迷いなんて微塵もない。
カインの言葉が、俺の“何か”に火をつけた気がした。
ああ、こいつは――自分の過去も自分が何者なのかも知らずに、それでも前を見て歩こうとしてる。
それは誰かに与えられた使命じゃない。
ただ、知りたいから。単純にそれだけの理由で、暗闇の中を進んでるんだ。
動機なんてそれで十分だと、カインがそう言った意味が、今ならわかる。
案外、何かを始めるのに難しい理由なんていらないのかもしれない。
だったら俺も、ここからスタートしてみたい。
最初から、迷う必要なんてなかったんだ。
「……なぁ、前に言ってたよな。“一見バラバラに見えるものでも、どこかで繋がってるかもしれない”って」
ぴたりと立ち止まったカインが、意外そうな顔で俺を見る。
「ええ、言いましたね。探偵の信条みたいなものです」
「なら……お前の謎も俺の謎も、もしかしたらどっかで繋がってるかもしれねぇ」
俺は息を吸い込んで、ぐっと拳を突き出した。
「解いてやろうぜ、俺たちの謎」
カインは一瞬目を瞬かせたあと、にやりと口角を上げた。
「その言葉、待ってました」
俺の拳と、カインの拳がぶつかる。
始まりの合図が、地獄の夜に小さく響いた。
肩を並べることに、理由なんていらない。
ただ、同じ方向を見ている。それだけで、十分だ。
第一章、閉幕。
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ここから始まる冒険譚、第二章も引き続きお付き合いお願いいたします。




