第1章-第17節 『地獄の猫は三度鳴く⑤』
「アルバさん、何言って――」
俺が言い終わる前に、アルバが身を乗り出す。
勢いに押された椅子の脚が、床の上で不安定に軋んだ。
「ノアルは……ノアルはなんて言ってる? か、帰ってきてくれたんだよな? そうだよな? ……よかった……まだ、消えてなかったんだ……」
掠れた声は震え、理性よりも感情が先走っているのがわかる。
その必死さには、どこか狂気じみたものすら混じっていて、思わず息をのんだ。
返事を求めているのか、それとも自分に言い聞かせているのか。ただ忙しなく口だけが動いている。
――もしかして、アルバにはリモメラの“声”が届いていないのか?
そんな疑問が頭をよぎった矢先、ゆったりとした低音が空気を割った。
「坊やの思っている通りだよ。私の言葉が届くのは、強い業を抱えた者だけ――あの子には、ただ猫が鳴いているようにしか聞こえんだろうさ」
リモメラは淡々とそう言ったが、その声音にはどこか哀愁が滲んでいる気がした。
縋るような目でこちらを見るアルバに、カインがそっと口を開く。
「……大丈夫ですよ、アルバさん」
その柔らかく落ち着いた声には、不思議と人の心を宥めるような響きがあった。
「僕らが、あなたの代わりにちゃんと聞きます。だから……あなたは、あなたの心が感じたものを信じてください」
カインの言葉に、アルバは目を閉じて頷くと、大きく息を吸ってそれを細く吐き出した。
彼自身も自分が冷静さを欠いていることには気づいているのだろう。
その様子を見ていたリモメラが、ふん、と小さな鼻を鳴らす。
「やれやれ……手のかかる子だよ。まったく」
リモメラはそう言って目を細めると、音もなくアルバの膝の上に飛び乗り、彼の手の甲に頬をすり寄せた。
青年の肩から、静かに力が抜けていく。張りつめていた空気がほどけて、ようやくその顔に安堵の色が浮かんだ。
「私が紛い物だと知りながら、それでも夢を見るなんて……本当に愚かだねぇ、人間は」
アルバを見上げながら、リモメラがぽつりと呟いた。
「私にとっちゃ、ただの食糧でしかないってのに……本当に愚かで――可愛い子だ」
皮肉めいた言葉とは裏腹に、その目は慈しみに満ちているようだった。
“ただの食糧”なんて口では言っているが、きっとリモメラにとってもアルバは大切な存在なのだろう。
――アルバにとっての“ノアル”がそうであるように。
「お前が……本物のノアルじゃなかったとしてもさ」
胸の奥にじんわりと宿った熱が、押し出されるように口をついた。
「……それでもアルバさんにとっては、お前と過ごした時間は偽物じゃなかったはずだ。だから、お前と“契約”したんだろ」
顔を上げてそう言えば、視線の先のリモメラは驚いたような表情をしていた。
もしかすると、そう見せただけなのかもしれない。そう思うほどに一瞬の揺らぎ。
リモメラはそれをすぐに収めると、息を吐くように笑った。
「ふふ……はぁ、契約ねぇ……そんなもの、端からしちゃいないさ」
思いがけない言葉に、今度は俺が目を丸くする番だった。
「え……?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
どういうことだ? アルバは確かに“契約した”って――
俺の困惑をよそに、リモメラは尻尾をゆらりと揺らしながら続けた。
「……私には“首輪”なんてついちゃいない。この子がそう思い込んでいるだけのことさ……私はただ、勝手に居座っていたに過ぎないよ」
リモメラはため息を溢すと、再びアルバに視線を戻す。
「それなのに、この子はあんなに慌てて……契約した相手以外の記憶を喰ったら消えてしまう――なんて与太話、どこで聞きかじったのやら」
その言葉に、アルバの声がふと蘇る。
「まだ間に合う」「消えてなかった」――あれはそういう意味だったのかと、ようやく合点がいった。
「……人間ってのは、自分の望みを叶えるために、都合のいいように物語を作り上げる。……縛られるのは自分自身だってのにねぇ」
まったく傍迷惑な生き物だ、とぼやきながらリモメラは尻尾で軽くアルバの膝を叩いた。
アルバはリモメラを見下ろして小さく微笑むと、その黒い毛並みをそっと撫でる。
言葉が通じないからこそ、この青年は“契約”という形に縋りたかったのかもしれない。
そうでもしなければ、この曖昧な繋がりが明日には消えてしまうんじゃないか――そんな恐怖を、彼が抱えていたとしたら。
たとえそれがどんなに細い糸だったとしても、彼はこの関係を“確かなもの”にしたくて、手を伸ばしたのかもしれない。
二人を見ていると、そんな考えが浮かぶ。
ふと、棘が抜けたような声でリモメラが口を開いた。
「でも……それは、私も同じなのかもしれないね。明日には、明日には、なんて思っているうちに、随分と長居してしまった」
その目はどこか遠くを見るように細められている。
「私は本来、渡り歩くのが性分でね。ひとところには留まれないのさ。……あんたたちも気付いているだろう? 私と長く居過ぎたせいで、この子の記憶は穴だらけになってしまった。このまま一緒に居たら……私は記憶を喰い尽くして、きっとこの子を壊してしまう」
確かに、依頼に来た時のアルバは日付の感覚すらなくなっていた。“ノアル”が居なくなったのが、いつのことだかも忘れてしまっていたのだ。
忘れることは、消えていくことに近い。
少しずつ自分がほどけていく感覚に、一体どれほどの不安を抱くだろう。
それはきっと、見知らぬ街で迷子になり、帰り道がわからないまま日が暮れて、やがて夜が来るような。
目の前すら見えず、音ひとつない闇の中に、一人きりで取り残されるような。そんな焦燥と恐怖。
リモメラの言う通り、このままでは彼は自分が何者なのかもわからなくなって、壊れてしまう。
そしてそれを誰よりも恐れているのは、他でもないリモメラ自身なのかもしれない。
「……所詮、悪魔はどこまで行っても悪魔なのさ。人間を救うことなんて出来やしない」
それは、諦めと自嘲の入り混じった声だった。
「だからせめて――」
リモメラはテーブルに飛び乗ると、アルバをそっと見上げる。
「私のことは、忘れておくれ」
そう言って金色の瞳をすっと細め、「にゃあ」とひとつ鳴いた。
瞬間、アルバの身体がふっと脱力する。椅子にもたれかかるように項垂れ、そのまま意識を失ったように見えた。
「アルバさん……!?」
俺が駆け寄ろうと一歩踏み出した瞬間、カインが俺の袖を軽く引いた。
それは引き止めるというより、“このままでいい”と伝えるような静かな制止だった。
「……大丈夫、眠っているだけです」
「眠ってるだけって……でも、このままじゃ……」
言いかけた言葉に被さるように、二度目の鳴き声が部屋に響く。
それと同時に、アルバの頭から、ふわりと白い靄のようなものが立ちのぼった。
形も定まらず、触れれば霧散してしまいそうな――あれが、記憶なのか。
きっともう一度鳴き声が聞こえれば、彼はリモメラのことをすっかり忘れてしまうのだろう。
「本当に、これでいいのかよ……」
そう呟いた俺の声は小さくて、ひどく掠れていた。
それでも、それが耳に届いたのか、カインが少しだけ目を伏せる。
「彼らは一緒には居られない。だったらせめて……リモメラのことを忘れて日常に戻る方が……その方が、全部を失うよりは……いいはずです」
「でも……!」
その先が、喉につっかえる。頭ではカインの言うことを理解できるからだ。それが正解なのかもってことも。
けれど、俺の腹の底の方では、何かが渦を巻いていた。