第1章-第16節 『地獄の猫は三度鳴く④』
彼が“それ”を隠しているのは――いや、見ないようにしているのは、真実を認めるのを恐れているからだ。
それでも、本当のことを教えてくれなきゃ、俺たちは彼を、彼らを助けられない。
これがエゴだとしても、目の前の青年の心を放っておくことは俺にはできなかった。
「アルバさんさ……本当は、気づいてたんだろ?」
アルバは小さく肩を揺らすと、はっとした顔でこちらを見る。
「“ノアル”は、あんたの知ってるノアルじゃないってこと」
俺は、まっすぐに彼を見据えて続けた。
「俺もこいつも、あんたを責めようとか思ってないよ。ただ、救いたいんだ。だから――ちゃんと教えてほしい」
俺の言葉に、アルバは二、三度まばたきをすると、再び視線をテーブルの上に落とした。
強く握りしめられていた両手が、少しだけ緩む。
「……わかってたよ」
それは、今までのような無理に繕った丁寧な口調じゃなかった。依頼人という立場を取り払った、アルバ・ブランという一人の人間の言葉。
「ノアルが……帰ってくるわけないってことくらい……ずっとわかってた」
その声は、諦観とも哀惜ともつかない響きだった。
「……あの子が悪魔だってことも、気づいてたよ。それでもいいって……思ったんだ」
ひと呼吸置いて、深く息を吐き出すと、アルバは続けた。
「だから……契約したんだ。あの子が俺のそばから離れないように」
契約――悪魔と? それは、完全に俺の予想の外側にあった言葉だった。
フィクションで得た知識しかない俺でも、それが軽い約束ではないことくらいはわかる。
そこまでしてでも、繋がりを手放したくないと、孤独がそれほどまでに人を追い詰めるのかと、胸が苦しくなった。
その契約の条件はわからないが、きっと代償だって重いはずだ。
アルバの肩が微かに上下し、短い、ひきつれたような息が漏れる。
喉の奥でひゅっ、と細い空気の音をさせた後、彼は再び口を開いた。
「……俺の記憶なんて、全部なくなったっていい……俺は、あの子がいてくれるなら、それで……」
その言葉に、隣で小さく息を呑むのが聞こえた。
そっと横目でカインを見ると、彼はわずかに眉を寄せて、テーブルの端の方を見つめていた。
カインがそんな風に目を伏せるのを、俺は初めて見た気がする。
アルバの話に、彼も何か思うところがあったのだろうか。
記憶を全部差し出してでもそばにいてほしいというアルバの思いは、あまりにも切なく、一種の執着すら感じさせる。胸が締め付けられるのも当然だ。
――でも、カインの表情は、それだけじゃないように思える。
彼がどんな気持ちでその目を伏せたのか、今の俺にはまだわからなかった。
少しの沈黙の後、俯いたままのアルバが低く声を絞り出した。
「……あの子が……“ノアル”がいなくなったら、俺はまた一人になってしまう。そんなのは嫌だ……ッ! だから、俺は……!」
テーブルの上に、ぽたり、ぽたりと涙が落ちる。
――その時だった。
部屋の片隅から、猫の鳴き声が響く。
暗がりの中に、鋭く光る金色がふっと浮かび上がった。
その瞳がゆらりと動き、年寄りじみた達観と皮肉を帯びた声が空気を震わせる。
「……まったく、馬鹿な子だねぇ」
背中から、寒気が全身に広がった。
――この声……!
雰囲気が少し違うけれど、間違いない。商店で会った、あの“おばあちゃん”の声と同じだ。
ぼんやりとした暗闇に目を凝らすと、黒い影が床を滑るように伸びる。
まばたきをする間に、それは一匹の黒猫の姿となって目の前に現れた。
写真で見たノアルと瓜二つだが、妖しげな光を宿した金色の双眸だけが、それを否定していた。
「また会ったねぇ、坊や」
「おばあちゃ――なんで……声……お前が、リモメラ……?」
頭が混乱して、言葉が上手く出てこない。
思わず名前を口にすると、猫は尻尾をゆらりと揺らし、楽し気に口元を歪めた。
「おや、その名で呼ばれるのは久しいね。あの時はまだ気づいていなかったようだが……そっちの探偵の坊やの入れ知恵かい?」
リモメラは弓なりに目を細めて、カインを見やる。
「……やっぱり、ハジメさんが見たおばあさんというのは、あなただったんですね」
「カイン、お前気づいて……」
ここに来る前に言っていた「どちらも正しい」という言葉の意味をようやく理解した。
俺たちの言葉に耳をぴくりと動かしたリモメラが、匂いを嗅ぐように小さく鼻を鳴らす。
「……ああ、こっちの坊やはヨミガエリだったのか……どうりで似ているわけだ。縁というのは実に奇妙なものだねぇ」
リモメラは納得したように喉の奥でくつくつと笑うと、長い尾をゆっくりと揺らした。
――ヨミガエリ?
なんだ、それ……俺のことを言ってるのか?
不安に似た、形容しがたい感情が腹の奥からせり上がってきて、胸がざわつく。
すべてを見透かすような三日月の瞳に、喉の奥で声が詰まった。
「な、なんの話をしてるんだ……お前、なんか知ってるのか……!?」
「さぁねぇ……私の口からは何も。それに、そんな話をしに来たわけじゃない。わかるだろう?」
リモメラが視線をふいっと後ろに向ける。
椅子に座ったまま、アルバが目を白黒させながらこちらを見つめていた。
「ふ、二人とも……猫の言葉がわかる、のか?」
アルバに震える声でそう問われ、俺はカインと目を見合わせた。