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第1章-第15節 『地獄の猫は三度鳴く③』

「――猫なんて存在しない? それどういう意味だよ」


 俺は少し足を速めて、前を歩いていたカインの隣に並ぶ。


「言葉通りの意味ですよ。ハジメさんも、薄々勘付いているのでは?」


 カインの言う通り、確かに俺の中には違和感があった。

 ただ、それは作りかけのジグソーパズルのように、どこにはめるのかわからないピースが散らばっているに過ぎない。

 その前で腕組みをしている俺に、カインが言葉の羅列を投げて寄越した。


「……リモメラ」


「リモ……?」


 俺が思わず聞き返すと、彼は人差し指を立てながら続ける。


「リモメラです。孤独や悲しみを抱えた人間のところに現れて、その記憶を食べてしまう悪魔だとか」


「記憶を食べる悪魔……? よくそんなこと知ってるな」


「ええ、まぁ。少し事情がありまして……昔調べたことがあるんです」


 カインの言い方からして、その“事情”とやらについてはあまり詮索しない方がいいのだろう。

 俺はそれを「ふーん」と軽く流すに留めた。


「んで……ノアルがその悪魔だってことか? もしそうなら、あの女の子や花屋の娘さんの話って……」


 ――ねこさんが鳴いたら、悲しかったことわすれちゃったの!

 ――私は黒い猫なんて見てませんよ? この辺、そんなに野良猫もいないし、猫の鳴き声すら……


 二人の言葉が頭をよぎる。


「はい。彼女たちがリモメラに記憶を食べられていたのだとすれば、納得がいきます」


 あのときの電話――花屋の娘さんが客の注文を忘れてしまっていたのも、きっとその“悪魔”のせいなのかもしれない。

 けれど、彼女の話には、もう一つ不可解な点があったはずだ。


「待てよ……? じゃあ、あれは? あの商店は若い男の人が一人でやってるって言ってたけど……俺が見たのは絶対おばあちゃんだったぞ?」


「うーん、ハジメさんが間違っているのか、あの娘さんが間違っているのか――もしくは、どちらも正しいかも?」


「どっちも正しいって……」


 答えを知っているのか知らないのか、相変わらずふわっとした言葉だけを残されて肩をすくめていると、ふいにカインが立ち止まった。


「さ、着きましたよ」


「へ……?」


 間の抜けた声を漏らしながら、顔を上げる。目の前にあったのは、煤けたクリーム色の集合住宅だった。均等に並んだ窓からは、橙色の明かりがまばらに漏れている。

 そういえば、どこに向かっているのか聞いていなかった。


「ここって……」


「きっと、“ノアル”はここに居るはずです」


 そう言って建物の一角に視線を向けたカインは、入口へと近づいていく。

 その後を追うようにエントランスに足を踏み入れると、通気性が悪いのか、湿気た匂いが鼻をついた。見た目だけでなく、空気までもが古びている。


 カインは、上階へ続く階段を上がらずにそのまま右へ曲がり、三つ目の部屋の前で足を止めると、ダークブラウンの扉を数回ノックした。

 少しの沈黙の後、錠の外れる音がして扉が控えめに開く。

 そこから顔を覗かせたのは、依頼人――アルバ・ブランだった。


「どうも、連絡もせずに突然お伺いしてすみません……! すぐ近くで調査をしていたもので、そのまま来てしまいました」


 眉尻を下げたカインが、申し訳なさそうに笑う。

 アルバは一瞬目を丸くしたが、すぐに一歩扉の外へ出てきて小さく頭を下げた。


「あ、いえ……大丈夫です。あの、探偵さんがいらっしゃったということは、なにか……進展が?」


「ええ。もしご迷惑でなければ、中でお話させていただいても構いませんか?」


 その言葉に、アルバは考えるような間を一拍置いてから、俺たちを招き入れた。


 俺は小さく「お邪魔しまーす……」と呟きながら、やや低姿勢で部屋に入る。

 生きていたときだって、友人の家にすらほとんど行ったことがないのだ。会ったばかりの、ましてや依頼人の家にお邪魔するときの振る舞いがわからない。

 謎マナーでも何でもいいから、今だけ助けてくれ、マナー講師。


 そんなことをぐるぐると考えながら、視線をさまよわせる。

 室内は綺麗すぎるくらいに整頓されていた。埃ひとつ落ちていない。なんというか、あまり生活感のない部屋だ。普段、あのカオスな事務所にいるから余計にそう思うのかもしれないが。

 

 ふと、リビングの棚に置かれている写真立てが目に入った。

 そこに写っているのは、黒い毛並みに細長い尻尾の――青い瞳の猫。


「これって、ノアルの写真……?」


 俺は写真立てを指差し、つい問いかけた。

 アルバはゆっくりと視線を指の先に向けると、首を縦に振る。


「……はい。ノアルです」


 それはどこか懐かしむような、愛おしさが滲んだ声だった。


 ――なんか、変じゃないか?


 俺たちは最初に彼から、ノアルは「黒い毛並みで、尻尾が細長く、目は金色」だと聞かされていたはずだ。だからずっと金色の瞳の黒猫を探していた。それなのに、今アルバはこの青い瞳の黒猫を“ノアル”だと言っている。

 胸の奥に、じわりと嫌な違和感が広がった。


 カインは俺の目を見て、何かを察したように小さく頷くと、穏やかな声で切り出す。


「では、調査の結果をお話ししますね」


 手帳のページがめくられる音が、静まり返った部屋に妙に響いた。

 アルバは両手の指を絡ませながら、じっとカインの方を見ている。


「……まず、いくつかの目撃情報がありました。街の方が何名か、ノアルらしき猫を目にしたそうです」


 その言葉に、アルバの指先が微かに震えた。


「……本当、ですか……?」


「ええ。ただ、少し気になることがありまして……」


 カインは手帳を閉じ、アルバに視線を向ける。


「皆さん、なぜかその前後のことを上手く思い出せないようなんです」


 アルバの唇がわずかに開きかけ、閉じる。

 少しの間、部屋の中を沈黙が満たした。


 やがて、静かな水面に一滴の水を垂らすように、アルバの小さく掠れた声がこぼれた。


「……はやく……」


 その雫は次第に数を増して、水面を叩き始める。


「早く……ノアルを見つけないと……今なら、まだ間に合う……」


 その言葉は、俺たちに向けられたものではなかった。アルバは俯いたまま、ぶつぶつと繰り返す。

 テーブルの上で組まれた両手には、指先が赤くなるほどの力が込められていた。


 ――今なら、まだ間に合う。


 それは、ただ猫を探しているにしては、不自然な言葉だった。

 まるでタイムリミットでもあるような――今すぐにでもノアルを見つけなければ、取り返しのつかないことになるとでも言わんばかりの、切迫した焦燥が滲んでいる。


 アルバの様子が変わったのは、街の人たちが記憶を失っていると伝えた直後だ。彼の焦りにはそれが関係している……?


 この違和感は、きっと気のせいじゃない。


 ――この青年は、何かを隠している。

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