第1章-第14節 『地獄の猫は三度鳴く②』
店を出ると、昼下がりの街は相変わらず平和だった。
向こうの方から子供たちのはしゃぐ声まで聞こえてくる。
――そうか、地獄にも子供が……
なんだか複雑な気持ちになりながら、そちらに目を向けると、その中心に飛びぬけて背の高い銀髪が見えた。
……どう見てもカインだ。何してんだ、あいつ。
俺が近づくと、カインは顔を上げ、涼しげな笑みを浮かべる。
「おかえりなさい。どうでした?」
「裏の花屋の娘さんが、猫を見たってさ。でも、なんか気になること言ってて――うおっ!?」
ふいに、膝裏に衝撃が走り、俺は危うく転びかける。
振り返ると、いかにも悪ガキといった感じの少年がにやにやしながら立っていた。
「ふっ、にーちゃん、油断してるとやられるぜ!」
――前言撤回。地獄の子供は強かだ。
「こんのガキぃ……」
握りこぶしを震わせていると、カインに「まぁまぁ」と宥められる。
「っていうか、なんでお前は子供に囲まれてんだよ……聞き込みは?」
「ああ、店の主人からは特になにも。店を出たところで彼らに会ったので、お話を聞いているところです」
「お話って……」
俺が呆れると、カインは子供の頭を軽く撫でながら笑う。
「おや、彼らの情報網を侮ってはいけませんよ? 子供だから見えるものもありますし……今までも何度か助けられましたから」
今朝こいつが言ってた『子供のなりたい職業ランキング』って、この子たちに聞いたんじゃないだろうな。
そんなことを考えていると、小さな女の子が、そっとカインのコートの袖を引っ張った。
カインが視線を向けると、女の子は少し恥ずかしそうに顔を上げて、ぽつりと呟く。
「カインおにいちゃん……あのね、わたし、ねこさん見たよ」
カインは穏やかな笑みを浮かべ、しゃがみ込んで女の子に目線を合わせた。
「そのときのお話、聞かせてもらえますか?」
「うん、あのね……昨日、おうちで泣いてたらね、まどの外にねこさんがきてね、にゃーにゃーにゃーって鳴いたの」
「ふむふむ……どんな猫さんだったか覚えてますか? 体の色とか、目の色とか……」
カインの質問に、女の子は小さな指先を顎に当てて、考えるように首を傾げる。
「んっとね、からだがまっくろで、おめめは……わかんない! ぼや~ってしてて、お顔がみえなかったの」
――窓から覗いてみても影みたいなものしか見えなかったって。ふふ、不思議よねぇ。お昼なのに。
頭の中で、さっきのおばあちゃんの言葉がよぎる。
女の子は息を吸い込むと、胸を張って続けた。
「でもね……あのねこさん、きっとまほうつかいだよ! だってね、ねこさんが鳴いたら、悲しかったことわすれちゃったの!」
その言葉に、カインはほんの一瞬目を細めたが、すぐさま元の柔らかい表情で頷く。
「なるほど……お話してくれて、ありがとうございます。重要な手掛かりになりそうです」
そう言ってカインが頭を撫でると、女の子は少し頬を赤くして、満足気に微笑んだ。
それから、カインはすっと立ち上がり、ポケットから小さな包みを取り出す。
「お話を聞かせてくれたお礼です。仲良く食べてくださいね」
子供たちは、差し出された色とりどりの飴玉を手にすると、「ありがとー!」「また遊ぼうねー!」「がんばれよ助手ー!」などと口々に叫びながら、走っていく。
賑やかな声が通りの向こうへ消えていくのを見届けてから、カインはこちらを振り返った。
「さて、花屋の娘さんに話を聞きに行きましょうか。……きっと彼女が見たものも同じ“影”なのでは?」
「なんでそれ……」
俺が思わず目を丸くすると、カインはふっと笑みを深め、涼しい声で言った。
「ふふっ、あの子の話を聞いていた時のハジメさんの顔を見てたらわかりますよ。君は顔に出やすい」
「……俺の顔から推理するのやめてくんない?」
「人の表情というのは、時に言葉よりも雄弁なものです。……良くも悪くも、ね」
カインはそのまま背を向け、軽やかな足取りで歩き出した。
俺は小さく肩をすくめ、その背中を追う。
***
裏通りに足を踏み入れると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
同じような民家が並ぶ道の中ほどに、その花屋を見つける。
カインが迷いなくドアに手をかけると、カラン、という音とともに、花屋特有の甘さと青さの混ざった香りが広がった。
「いらっしゃいませ!」
愛想の良い笑みを浮かべながら、俺と似たような年頃の小柄な女性が歩み寄ってくる。
「どんなお花をお探しですか?」
「あぁ、今日は花ではなく、猫を」
「猫……?」
カインの言葉に、彼女はきょとんとした顔をした。
いろいろすっ飛ばしすぎだろ……それじゃ不審者だ。俺は慌てて一歩前に出て補足する。
「あの、俺たちいなくなった猫を探してて……あなたが黒い猫を見たって話を聞いたんで、詳しく教えてほしいなーって」
「あ、そういうことだったんですね! ……でも、私は黒い猫なんて見てませんよ? この辺、そんなに野良猫もいないし、猫の鳴き声すら……」
予想外の返答に、俺は思わず眉をひそめた。
彼女は不思議そうに首を傾げて、丸い目で俺を見る。
「その話、どなたから聞いたんですか?」
「えっと……あっちの通りで小さい商店をやってるおばあちゃんから、聞いたんだけど……」
彼女の表情が困惑に変わる。
「商店のおばあさん……? あのお店は、若い男の人が一人でやってるはずですけど……」
「え……?」
太陽が雲に隠れて、店の中が陰った。
背筋に冷たいものが走る。
その時、カウンターの上の電話がジリリリ、と鳴った。
彼女は、「ちょっと失礼します」と頭を下げると、そちらへ駆けて行く。
カインと目を見合わせてから、受話器を取った彼女に視線を戻す。
先ほどの彼女の話は引っ掛かるが、それをここで話すのは憚られた。カインも黙って彼女の様子を見守っているあたり、同じことを思っているのかもしれない。
「ええ。はい……はい……あら、今日でしたっけ!? ごめんなさい、私ったら、すっかり忘れて……! いえいえ! すぐに届けさせますね」
電話を終えると、彼女は申し訳なさそうにこちらを向いた。
「すみません、少しだけお待ちいただいてもいいですか?」
「大丈夫ですよ、どうぞお構いなく~」
そう言ってへらりと笑ったカインが、軽く会釈をする。
彼女の姿が店の奥へ消えていくのを見送ると、カインは口元に手を当てて店の窓をじっと見つめた。
「どうした……?」
「……ハジメさんの話だと、彼女は窓の向こうに“猫の影”を見た……そうでしたよね?」
「あ、ああ。そうだけど――」
俺が言い終わらないうちに、カインは窓際に向かっていき、静かに窓を開けた。
「ちょ、勝手に何やってんだよ……!」
俺は小声で叫ぶが、カインはそんなことはお構いなしに、窓の外――正確には縁のあたりを観察している。
ちょいちょいと手招きをされ、隣に立って覗き込むと、そこには幅十センチ強ほどの出っ張りがあった。
「見てください、これ」
カインが指で示したところに目をやると、少量の土と何かの破片のようなものが散っていた。
「おそらく、もともとここに鉢があったんでしょうね。それを“何か”が倒して割ってしまった」
「……その“何か”が、例の猫だって言いたいのか? 確かに、猫が乗れそうな幅はあるけど……でも、猫がいた痕跡がないぞ。ほら、砂埃がこんだけ積もってるのに、足跡ひとつない」
「さすがハジメさん、鋭いですねぇ……そう、その“痕跡がないこと”こそが、“痕跡”なんです」
その言葉の意味を尋ねる前に、カインが砂埃の積もった窓台に軽く手を触れた。
瞬間、彼の瞳が淡く光り、触れたところから小さな光の粒のようなものが立ち上る。
――なんだ、これ。
「……ふむ。やはり、ここに居たのは間違いなさそうですね……」
ふっとカインの瞳が元に戻ると、彼は納得したように小さく呟いた。
「いや、一人で納得すんなよ……お前、今なにした? なんかキラキラしたやつが見えたけど……」
俺の言葉に、「おや……!」とカインが勢いよくこちらを振り向く。
その顔は一瞬驚いたような色を見せ、すぐに意味深な笑みに変わった。
「……ハジメさんも“こちら側”でしたか」
「だーっ! さっきから何言ってるか全然わかんねえ! なんなんだよ……」
俺が頭を抱えていると、エプロンで手を拭いながら、彼女が戻ってきた。
「お待たせしました……! あら、どうかなさいました?」
「ああ、すみません、勝手に……なんだか雨が降りそうだなぁと思いまして」
カインは何事もなかったかのように窓を閉めると、人のよさそうな笑みを浮かべて振り返った。
“イカサマ野郎”と呼ばれているだけあって、息をするように嘘をつく。ある意味尊敬するが。
一方彼女は、特段気にする様子もなく、電話が鳴る前の話を思い出そうとしているようだった。
「それで、えーっと……さっきのお話ですけど……」
「いやぁ、すみません。その件は、どうやら彼の思い違いだったみたいで……お忙しいところ、失礼しました」
彼女は目を瞬かせ、「……そう、ですか……?」と小さく首を傾けるが、カインはそれ以上何も言わず、軽く会釈してドアへと向かう。
後を追って店を出ると、外は薄っすらと暗くなっていた。
カインは軽く伸びをすると、元の通りに向かって歩き出す。
俺は、溜まっていたものを吐き出すように、その背中に向かって声をかけた。
「おい。なんか意味深なことばっかり言ってたけど、見つかりそうなのか? 猫」
「あぁ……猫を探すのは、やめました!」
「はぁ?」
カインが前を向いたまま、軽い調子でそんなことを言ったものだから、俺は思わず間の抜けた声を漏らした。
「探すのやめたって、お前……」
依頼人に、“必ず見つけて見せますから!” なんて言っていたくせに、何を勝手な……と呆れかえっていると、カインが小さく笑みをこぼした。
「探したって見つかりませんよ。だって――」
カインが、くるりとこちらを振り向く。
「――最初から、“猫”なんて存在しませんから」