第1章-第13節 『地獄の猫は三度鳴く①』
カインの探偵事務所に居候をし始めて、数日が経った。
たった数日、されど数日。俺はカイン・レイエルという男のことがだんだんわかってきた。……主に生活能力のなさが。
整理整頓ができないのは言わずもがな、――彼曰く、一見散らかっているようで整理されているとのことだが――掃除は埃を舞わせるだけの儀式で、料理をすれば化学実験と化す。勿論、爆発を伴うものだ。
気がつけば俺は、カインの言葉通り“雑用係”として立派に働いていた。
そしてなぜか今、ジョブチェンジの誘いを受けている――
「ちょっ、なんですかぁ、その目は! 思ってた反応と違うんですけど……もっとこう、『え! 俺が探偵助手!?』って目を輝かせてくれてもいいじゃありませんか」
目を輝かせろと言われても……雑用係から探偵助手へのジョブチェンジが、昇進にあたるのかと言われれば微妙なラインである。やることほぼ変わらないだろ。
アルバイトから、バイトリーダーになるのとはわけが違うのだ。
依然として遠い目を続ける俺に、カインがじりじりと距離を詰めながら訴えてきた。
「レ、レアジョブですよ!? 探偵の助手なんて、子供のなりたい職業ランキング堂々の一位ですよ!?」
「いや、息をするようにホラ吹き込むのやめろよ! 百歩譲って、探偵助手が憧れの職業だとしてだぞ? こんな閑古鳥鳴きまくってる探偵事務所は論外だろ。あとお前の助手って給料出なさそう」
「ぐっ、的確に傷を抉ってくる……そして、ものすごくピンポイントな偏見ありがとうございます。おっしゃる通り給料については出たり出なかったりですが……!」
「ほらな!? 給料も出ない仕事とかやだよ俺は」
「完全歩合制でやらせてもらってるもので……とはいえ――」
そのとき、控えめなノックの音がドア越しに響いた。
カインはすっと真顔に戻ると、ドアの前に歩み寄る。銀縁の眼鏡を指先で押し上げてから、ゆっくりとノブを回した。
「はい、レイエル探偵事務所です」
少し軋んだ音を立てて、ドアが開く。
そこに立っていたのは、青白い顔に濃いクマを作った、どこか不健康そうな青年だった。青年は小さく頭を下げると、弱々しい声で言った。
「あの……お願いしたいことがあって……」
「おや、ご依頼ですね。どうぞ、お入りください」
カインは穏やかな声でそう言うと、一瞬俺を振り返ってぱちりとウインクを寄越した。
“ほら、早速依頼が来ましたよ”とでも言いたげな顔だ。
青年はカインに案内されて、ソファに腰を下ろす。
俺は追加のカップを準備してから、カインと共に青年に向かい合うように腰掛けた。
カインは、まだ湯気が立っているポットから紅茶を注いで青年へ差し出すと、人当たりの良い笑みを浮かべて切り出す。
「探偵のカイン・レイエルと申します。こっちの彼は、僕の助手です」
さらっと助手ということにされてしまったが、ここで否定するのも野暮だろうと、俺は大人しく名を名乗るに留めた。
青年は俺とカインを交互に見て、口を開く。
「俺は、アルバ・ブランといいます……えっと、その……」
「ゆっくりで大丈夫ですよ。よかったら紅茶、召し上がってください」
俯くアルバに、カインが声をかけた。
彼は頷いてゆっくりとカップに口をつけると、小さく息を吐く。そして先ほどより幾分か落ち着いた様子で、話し始めた。
「探して欲しいんです……俺の、猫を」
その言葉に、思わずカインと顔を見合わせる。
「猫……ですか?」
カインが尋ねると、青年は小さく頷いた。
「はい……家から、突然……いなくなってしまって……」
「猫がいなくなったのは、いつ頃ですか?」
「確か……昨日……いや、一昨日だったかな? すみません、あの子が居なくなってから、眠れなくて……日付の感覚が」
青年の口ぶりはどこか頼りなげで、自信がなさそうだった。
カインはしばし考えるように視線を落とし、それからやわらかい口調で続ける。
「いえいえ、大丈夫ですよ。その猫について、もう少し教えていただけますか?」
アルバはゆっくりと顔を上げると、どこか遠くを見るような目で言った。
「黒い……猫です。あの子のことは、ノアルと……」
彼がぽつりぽつりと話し始めるのに合わせて、カインが手帳にメモを取る。
黒い毛並みで、尻尾が細長く、目は金色――わかったのはそれくらいだった。
「……お願いします、どうかノアルを見つけてください……! あの子がいないと、俺……」
青年の膝の上の手に、ぐっと力がこもる。その猫が彼にとって大切な存在であることが、ひしひしと伝わってきた。
だが――目が金色の黒猫が、一体何匹いることだろう。この広い街で“ノアル”を見つけるのは、干し草の山の中から一本の針を見つけるようなものなんじゃないかと、話を聞きながら気が遠くなる。
けれども、カインはそんな俺とは裏腹に、自信に満ちた声で言った。
「ご安心を。この名探偵と優秀な助手が必ず見つけて見せますから!」
青年は一瞬呆気にとられたようにカインを見つめ、それから小さく微笑む。
その目元には、わずかに安堵の色が滲み、張りつめていた空気が緩んでいくのがわかった。
「ありがとうございます……! どうか、よろしくお願いします」
「ええ。進展があり次第、こちらからご連絡します。今夜は少しでも休んでくださいね」
カインがそう言うと、青年は何度も頭を下げて事務所を後にした。
扉が閉まり、室内に静けさが戻る。
俺は大きく息を吐き出して、カインを見た。
「……あんなこと言って、あの猫、本当に見つかるのか?」
「さぁ、それはこれから、ですね」
カインは片手で手帳を閉じてポケットにしまうと、どこか楽し気にコートを羽織った。
「さ! 行きますよ、助手くん。まずは聞き込みといきましょう」
「だから、俺はまだ助手になるなんて一言も……!」
俺の反論の言葉を、カインは手をひらひらと振って遮った。
「細かいことは後です! 事件は待ってはくれませんよ~」
カインは振り返ることもなく、軽快な足取りで事務所の扉を押し開ける。
俺はその背中を慌てて追いかけた。
***
「――全ッ然見つかる気配がねぇ……」
通りを歩きながら、俺は天を仰いだ。
カインと一緒に聞き込みを続けて、気がつけばもう小一時間は経っていた。
「依頼人の家の位置からして、目撃証言が出るとしたらこの辺りだと思ったんですけどねぇ……」
カインは難しい顔をしながら、手帳のページをぱらぱらとめくった。
全く手がかりがなかったというわけではない。
ただ、どれも「声は聞いたけど、姿は見てない」というようなものばかりで、猫を見つけるには至らなかった。
「ふむ……次でダメなら、範囲を広げますか……僕、そこの店の主人に聞いてきますから、ハジメさんはあちらをお願いします」
「へいへい……」
俺はため息をつきつつ、カインが指をさした方へと足を向けた。完全に俺を助手だと思ってるな、あいつ。
示された店は、古びた木の看板がかかった小さな商店だった。
ドアを開けて声をかけると、奥から年老いた女性が顔をのぞかせる。
「あらぁ、若い子が来るなんて珍しいねぇ。お使いかい?」
「おつか……いや、ちょっとお尋ねしたいことがあって……」
この歳になって、まさか“お使い”なんて言われるとは思わなかった。一瞬、頭の中で“小さい子がはじめてのおつかいをする番組”のBGMが流れたが、気を取り直して話を続ける。
「えっと、猫を探してて。黒い猫なんですけど……目が金色の。この辺で見かけてないかなぁって」
「まぁ、猫探し? 探偵さんみたいねぇ」
彼女は、まるでごっこ遊びをしている子供を見るように微笑むと、「猫ねぇ……」と頬に手を当てた。
「猫……猫……あぁ、そうだわ。私は見ていないんだけど、裏の花屋の娘さんが最近よく猫の声が聞こえるって言ってたわねぇ」
「声だけ? どんな猫だったかーとか……」
「うーん……確か、窓から覗いてみても影みたいなものしか見えなかったって。ふふ、不思議よねぇ。お昼なのに」
昼なのに影しか見えないって、どういうことだ? その女性に一度話を聞いてみた方がいいかもしれない。
「……おばあちゃん、情報ありがとな!」
「ふふ。猫さん、見つかるといいわねぇ」
俺は、彼女に頭を下げて、店を後にする。
なんだか、田舎のばあちゃんのことが少しだけ恋しくなった。
カインの方も、なにか収穫があるといいのだが。




