第1章-第11節 『シンギュラリティ』
「一度、情報を整理しましょうか」
そう言って、カインは紙に三つの円を描いた。それぞれが少し距離を空けて、逆三角形を成すように配置されている。
「ハジメさんがいた世界をA、今いる世界をBとしてみましょう」
黒い万年筆によって円の中に文字が書き込まれていくのを、俺は黙って見つめた。
「で、ここがサンクチュアリですね。ハジメさんの話を聞く限り、中継点だと思っていいでしょう。つまり、ハジメさんはこのように……Aの世界からサンクチュアリを経由して、Bの世界に来た、と」
カインは、三つ目の円に書いた“サンクチュアリ”の文字をペン先で示してから、Aからサンクチュアリへ、さらにそこからBへと矢印を引く。
「そして、この流れが正しいとすれば……このAやB以外にも、世界が存在する可能性も考えられます。本来なら交わらないはずの世界が、サンクチュアリを基点に繋がってしまった。それが、ハジメさんの言う“異世界転生”なのかもしれません」
目の前にあるのはただの円と矢印。誰にでも描けそうな、ありふれた図だ。
けれど、その簡素な線の先にあるのは、世界の構造そのものに踏み込むとんでもない仮説だった。
カインはその図を指しながら言う。
「すなわち、サンクチュアリとはただの中継点ではなく、“全ての世界に繋がっている特異点”――」
ペン先の一点を見つめていた彼の視線が、ゆっくりと俺の顔へと移る。
「そう考えると、魂の行き先というのは“天国”か“地獄”の二択じゃないのかもしれませんね。どちらへ行くのかは神の裁きによって決められる――そう信じられてきましたけど……もしも、神が世界によって違う存在だとしたら? 神の数だけ、“死後の形”があるのだとしたら――」
カインはそこまで言って、ふっと微笑んだ。けれどその笑みには、どこか不穏な影が差しているようにも見えた。
「……そうなると、あらゆる“正義”や“悪”も、その世界の神の都合次第ってことになりますね。絶対的な正しさなんて、案外……どこにも存在しないのかもしれません」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
何が正しくて、何が間違っているのか――それを測るには、人間の持っている定規は小さすぎるのだ。何を罪とするのかは、神様の気まぐれということだろう。
地獄とは、“罰を受ける場所”なんかじゃなくて、“選ばれなかった者たち”が押し込められるだけの“世界の底”なんじゃないか――そんな想像がよぎった。
「おっと……すみません、話が脱線しちゃいましたね。本題に戻りましょうか」
カインがへらり、と笑う。
そこにさっきまでの影はなく、その声と表情は妙に軽さを帯びていた。
あまりの切り替えの早さに呆気にとられて「おう……」と短い返事だけを返す。
「さて……問題は、これが単純にAからBへ移動しただけじゃないってことですよねぇ」
カインは手元の紙に視線を落としながら、続けた。
「ハジメさんの言っていた“異世界転生”という現象で片付けるには、いくつか不可思議な点がある。いわば“謎”です。僕の記憶だけで整理すると、事実が歪んでしまうかもしれませんから――」
ペンを握り直したカインが、俺の方に向けていた紙をくるりと回転させる。
「もしよければ、ハジメさんの言葉で、もう一度聞かせてもらってもいいですか?」
言葉の調子はいつも通り淡々としていたが、その瞳はどこか楽しげに輝いていた。完全に“スイッチ”が入っているようだ。
……そういえば何かで見たことがある。証言は、必ず本人の言葉で聞くべきだって。伝言ゲームみたいな食い違いが起きるのを防ぐためらしい。
目の前の青年がそれを意識的に行っているのかはわからないが、思っていたよりちゃんとした探偵らしい。洞察力の高さと言い、もしかしたら本当に名探偵なのかもしれない。
そう一人で関心してから、カインの問いに答えようと、これまでのことを思い返す。
「えーっと……」
改めて話せと言われると、自分でも何から言えばいいか一瞬迷う。
「まず一つ目は……モルティナに“異世界転生の枠は空いてない”って言われたのに、ここに来ちゃってるのはなんでだ? って話だよな」
俺の言葉に合わせるように、カインがさらさらとペンを走らせる音がする。
ちらりと視線を向ければ、流れるような文字が並んでいた。
角の取れた独特の書体は走り書きのようにも見えるが、カインの字は妙に綺麗だった。第一印象のせいで、ちょっと意外だなと思ってしまう。
「んで、二つ目は……本来は忘れるはずの、命星の書庫――サンクチュアリでのことを、俺がどうして覚えてるのかってこと」
頷きながら、カインは“サンクチュアリ”の文字の上に小さな記号のようなものを書き込む。
そういえば一つ目の“異世界転生の枠”のあたりにも同じ記号を書いていた。
カイン式のマークアップ的なものだろうか。
「三つ目……この世界の言語を、なんで俺が普通に理解できてるか……今のところこんなもんか?」
すべて言い終えたところで、俺はカップを口元に運びながら様子を伺う。カインは何か思うところがあったのか、メモのようなものを追記してから、そっとペンを置いた。
紙面に向けられたカインの瞳が左右に揺れる。書いた内容を見返しているのだろう。
やがて、何かの手応えを得たように小さく息を吐くと、紙を俺の方に向けた。
「……なんかわかったのか?」
カインが俺の目を見て、口角をきゅっと上げる。
「――いえ、さっぱり……!」
清々しいほどの笑顔で予想外の返事をされて、思わずソファから転げ落ちそうになった。
やっぱり迷探偵じゃねえか……と、じとりとした目を向ける。
「冗談ですって! そんな目で見ないでくださいよぉ!」
カインの情けない抗議の声が響いた。
それから、彼は仕切り直すように一つ咳払いをすると、再び紙面に目線を落とした。
「……これらは一見バラバラに見えますが……どこかで繋がっている可能性があります」
そう言って三つの項目を線でつなぐと、そこに「?」と書き足した。
「そしてこの“?”が、全てを繋ぐ鍵になるとしたら……それは――」
「それは……?」
核心に迫っている気がして、俺は無意識にごくりと唾を飲み込む。
「それは……わかりません」
「やっぱ、わかんないんじゃねーか!」
「いやいや、ここがわかったら即事件解決しちゃいますからね!? 僕の名誉のために言いますが、これはそんな簡単なお話じゃないんですってば!」
「あーあ、お前のことちょっとすげえやつかもって思った俺の気持ちを返せよ! やっぱり迷探偵だ、お前は」
「あっ! あー! そんなこと言っていいんですか? 僕は“何も”わからないとは言ってませんよ?」
その言い方には妙に含みがあって、俺は一度ソファに沈み込んだ体を起こした。
ちらりと俺の目を見て、小さく息を吐いたカインが両手を組む。
「……あくまで、一つの“可能性”の推測であるということを念頭に置いて聞いてくださいね」
それはやけに慎重な前置きだった。
「もしですよ……? ハジメさんがこちらの世界に来たことが、最初から仕組まれていたものだとしたら、今回のイレギュラーの説明がつきませんか?」
「は……? 仕組むって、誰がそんなこと……」
平々凡々な男子高校生を、わざわざ異世界の地獄に連れてくる意味が分からない。
いったいどこの誰にメリットがあるというのだろうか。
俺は思わず怪訝な顔をカインに向ける。
そして――次の瞬間彼の口から出たのは、全くもって予想外な人物だった。
「……魂の観測者――彼女が嘘をついていたとしたら……?」




