第1章-第1節 『命星の書庫』
知ってたか? 死後の世界は、意外といい匂いがする。
甘くて、懐かしくて、胸の奥をくすぐるような匂いだ。
例えるなら、古い紙と……それから金木犀みたいな甘い香り。
ばあちゃんちの匂いが近いだろう。ノスタルジーというやつだ。
俺はこの匂いを知っているはずで。どこかで嗅いだはずで。
だけどそれがいつどこでだったかは思い出せない。
知ってたか? ■■■■■■、■■■■■■■■■■。
――起きなきゃ。学校、遅刻する。
あれ……そういえば今日、何曜日だっけ。
体が鉛のように重くて、指先ひとつ動かせやしない。
そのくせ意識だけはふわふわと浮かんでいる。体だけが暗い水の底に沈んでいくような感覚。
だんだん、現実と非現実の境目があやふやになっていく。
俺は寝てるんだっけ。起きてるんだっけ。これは夢なんだっけ。
■■■■■? ■■■■■■、■■■■■■■■■■。
「……め……はじめ」
誰かが俺の名前を呼んでいる。落ち着いた女性の声だ。夢の中で響いているような、遠くて柔らかい音。
その声に導かれるように、意識が水底から引き上げられていく。
重い瞼をなんとかこじ開けるも、視界はぼんやりとしていた。すりガラス越しに見ているみたいに、光が滲んで世界の輪郭がはっきりしない。
何度か瞬きを繰り返して、ようやくクリアになった視界が、目の前にある誰かの顔を捉えた。
驚いて反射的に体を起こせば、額に鈍い衝撃が走る。
「いっ……!?」
思わず体を丸めて額を押さえる。
そこで初めて自分がふかふかとした何かに身を預けていたことに気が付いた。
俯いた姿勢のまま目線だけを横にずらすと、視界の端に赤いベルベット調の背もたれらしきものが映る。
瞬間、庶民派家具チェーンじゃ到底お目にかかれないような豪奢なソファが頭に浮かんだ。
冷汗が頬を伝う。どうやらとんでもないものの上で膝を抱えてしまっているらしい。よりにもよって土足で。
慌てて足を下ろし、ソファの端に腰を下ろすように体勢を整える。申し訳程度に座面の土を払うような仕草をしてみたものの、罪悪感だけはべったりとこびりついたままだった。
「おはよう」
先ほど名前を呼ばれた時と同じ声が、頭上から降ってくる。
油の切れた機械のようにぎこちなく顔を上げると、白髪の女性が額をさすりながらこちらを見ていた。
眠そうな目と視線がぶつかって、思わず息をのむ。
夜空をそのまま閉じ込めたような瞳に、不思議と目が離せなくなった。
伏し目がちなせいか、睫毛の長さが際立つ。白い肌と髪はどこか陶器の人形のような冷たさを帯びていて、この部屋の暖色の照明だけが彼女に血色を与えているようだった。
整った顔をしている――というか、ぶっちゃけ言うとめちゃくちゃ美人だ。テレビで見る女優なんかが霞んで見えるくらいに。
こんな美女に顔を覗き込まれていたのか。その上額と額がぶつかる、なんていうラブコメよろしくなイベントを経験してしまったのか。
恋愛経験皆無の俺の純情なハートは、先ほどとは違う意味で早鐘を打ち始める。
「あ……えっと……」
聞きたいことは山ほどあるはずなのに、上手く言葉が出てこない。
「とりあえず拭いたら? それ」
彼女の言葉に、咄嗟に鼻の下に手を当てる。
「そこじゃなくて、ここ」
じとりと目を細めた彼女は自分の目元をトン、と指で叩いた。
「え、ああ……」
言われるがままに目元を拭うと、手の甲にじわりと濡れた感触が広がった。
どう考えても涙である。寝てる間に泣いてたのか、俺。
鼻血が出ていなかったことに安堵したのも束の間、別の羞恥心に襲われる。
けれども、彼女はそんなことは全く気にも留めていない様子で向かいのソファへゆるやかに腰を下ろした。
なんだか気まずさのようなものを覚えて周囲に視線をさまよわせると、図書館なんて比じゃないくらいの大きな本棚が目に入る。
一つや二つじゃない。周りを取り囲むように無数に配置されたそれは部屋の奥の方まで続いているようだった。
「――ここはどこなのか……そして私は誰なのか」
俺の心の中を覗き込んだかのような言葉に、思わず視線を彼女に移す。
「気になるんだろう?」
「そりゃそうだろ。目が覚めたら全然知らないところにいたんだから。さっきまで俺は……」
――あれ、俺さっきまでどこにいたんだっけ。
会話ができるくらいには思考がはっきりしているはずだが、ここで目覚める前のことが思い出せない。
「答える前に、私からも一つ質問させてほしい。君の名前は一ノ瀬創で合ってるよね?」
「え、うん。そうだけど……なんで俺の名前知ってるんだ? 初対面……だよな?」
「その疑問の答えはすぐわかるさ。それに、大事なのは君が“一ノ瀬創”かどうかだから。合ってるなら安心したよ。稀に手違いでここを訪れる子がいるからね」
全く話が見えてこない俺を置いて、彼女は続ける。
「さて、それじゃあさっきの問いに答えようか。……私はモルティナ。この命星の書庫の管理をしている。まぁ、魂の観測者といったところだね」
「めいせい……? 魂の観測?」
聞きなれない言葉に、俺は彼女――モルティナの言ったことを繰り返す。
「そう。魂というのは生まれて、死んで、また別の形で巡っていくもの……次はどんな姿で生まれるのか、あるいはそのまま消えてしまうのか――それは誰にもわからない。その命環を見届け、記録し、導く。それが”魂の観測者”たる私の役目なんだ」
彼女の言葉はどこか遠い世界の話のように聞こえるのに、なぜか胸の奥がざわつく。
頭の隅の靄がかかったような部分――そこには何かがあったはずなのだが、俺の無意識はそれを瓶の中に閉じ込めてしまっているようだった。
「……この命星の書庫は、そんな魂の記録を守る場所――そして死後の魂の休息所でもある。一つの生を終えた魂が、次の行く先へ向かうためのね」
“死後の魂の休息所”――その言葉が固く閉めた蓋をこじ開けようとしていた。
こめかみの奥がずきりと痛む。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。じゃあ俺、死んだの?」
声が震えていた。
胸の奥に、ずしりと重いものが落ちてくる。
「おや? 何を今さら……てっきり自覚しているものかと思っていたよ」
モルティナは目を細めて、小さく笑った。
「君は死んだ。そのことは、君自身が一番わかっているはずだ」
「わかるわけ――」
否定の言葉を吐き出すよりも早く、耳を劈くような轟音が脳を揺さぶった。