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8月12日―AM?:?

 ふと、瞼を通して薄い光を感じた。

 浅い眠りから覚め、僕はゆっくりと身じろいだ。

 ぼんやりとした頭のまま、無意識に光の方へと顔を向け、目を開く。


 まんまるの、大きな、白い月が見えた。


 寝る前に、暑いからと障子を開け放し、直前まで蚊取り線香を焚いていた。

 そのせいで、今も外と家の中を隔てるものは何もなく、縁側のその先で、月が煌々と照っていた。


 ぽちょん、と庭の植木から雫が落ちる。

 あれだけ酷かった雨は、嘘のように止んでいた。空じゅうを占めていた、あの真っ黒な雨雲は跡形もなく消え、一筋の薄雲さえ残っていなかった。


 真っ暗な夜、この世界に輝くのは自分だけと言わんばかりの、大きな、大きな月。

 今にも落ちてきそうだった。

 眩しさに、僕は思わず、ゆっくりと目を瞬く。

 もう一度目を開いたとき、一瞬、白い光が陰った気がした。

 そんなはずはないと、僕は月をじっと見つめる。

 また、一瞬、影がかすめる。今度ははっきりと。


 月に導かれるように、僕は縁側を渡り、サンダルをつっかけて庭に降りる。

 また白い光が陰り、丸い月が一瞬欠けて、またもとに戻る。

 それを、信じられない思いで僕は眺めた。

 目を離せないまま、足はだんだんとその影に近づいていく。


 その影は――塀の上に、いた。


 白いワンピースを着た、髪の長い少女。

 その子が、塀の上を、綱渡りでもするように両手を広げて歩いているのだ。時々、「よっ、と」「おっ、とと」そう、呟きながら。


 僕が、塀まであと1メートル、というところまで近づく。その子はやっと僕の気配に気がついたのか、「ん?」と足を止めた。


 まっすぐに、目が合う。

 その子は、きょとんとした。本当に、きょとん、と音が出そうなくらい、目をまんまるに見開いて、口をぽかんと開けて。


 そして彼女は、思わず、というように僕の方に足を踏み出した。信じられないことに、塀の上を歩いているということも忘れて。


「あ、……うわあっっ」


 バランスをとろうと、小さな両手をさらに広げるが、もう遅い。

「お、おい、……ば、ばかっっ」

 僕は、精一杯手を伸ばし、彼女を抱きとめて、……お約束通り、尻餅をついたのだった。


 僕にしがみついた彼女の腕はほんのりと温かく、子ども一人分の重みを感じて、どうやら幻覚を見ているわけではないようだと実感する。

 とっさにぎゅっと閉じた目を開くと、彼女が、心配そうに僕の顔を覗き込んでいて、まっすぐな髪が、さらさらと僕の顔をくすぐっていた。


「ご、ごめんなさい……」

 今にも泣きそうな顔で彼女は謝り、僕は、

「……大丈夫だから、とりあえず、どいて」と、彼女の尻に敷かれた腹から、声をひねり出した。


 彼女が「きゃ、ごめんなさいっ」とわたわたしながら腹からどくのを待ち、さらにしばらく、僕は動けなくて、へそ天する猫のように空を仰いでいた。


「起こすの、手伝う……?」

「あー……うん」

 申し訳なさそうに問う彼女に、僕は、いろんな意味の衝撃で脳みそが働かないまま、適当な返事をする。

 彼女が僕の腕をとっておずおずと引っ張り、僕はゆっくりと起き上がる。


「君は?平気なの?」

「う、うんっ」

 こくこくと全力で頷く彼女をちらりと見る。

 確かに、擦り傷もなさそうだし、足を捻ったとかもないみたいだった。

 地面が土じゃなくて苔だったから、服も、泥だらけなんてことはなく、ワンピースの裾と手が少々濡れたくらいだった。


「ほんとに、ごめんなさい……」

「まあ、うん。いいって」

「でも……」

 彼女の視線から察するに、僕のお尻のあたりは結構汚れているらしい。

 下を見やると、僕が尻餅をついたところの地面は、子ども二人分の重みに耐えきれなかったのか、苔がめくれて黒い土が顔を覗かせていた。


「いいよ。僕がこけたんだ。しょうがない」

 僕はしゃがみこんで、めくれた苔をなんとか元に戻してみる。ちょっと不自然だが、まあ許容範囲だろ。

 ケツを乱暴に払うと、泥と緑色の苔がぱらぱらと落ちる。汚れは大したことはないが、恐らくパンツまでぐっしょり濡れている。

 ……まあ、それはしばらく横になっていた僕が悪い。


「君は、帰らなくていいの?」

「そろそろ、帰らなきゃ」

「まあ、だろうね。むしろ門限遅すぎ。早く行きなよ」

 時計なんて持ってないから、今が一体何時なのかは知らないが、既に日付は変わっているんじゃないだろうか。

 少なくとも、小さな女の子が出歩くような時間でないことは確かだ。

 彼女も、早く帰るべきだということは理解しているみたいで、神妙な顔でこっくり頷いて言った。


「明日、また来ていい?ちゃんとお詫びする」

「いいけど、昼間にしなよ」


 お詫びなんて言葉、よく知ってるな、なんて内心驚きつつ、僕はすかさず忠告する。明日また、こんな深夜に訪ねて来られても困る。良い子はもちろん、悪い子だってそろそろ寝ている時間だ。

 またしてもこっくりと頷く彼女に、僕は「帰り道は?」と尋ねる。

「あっち」

 一瞬の迷いもなくぱっと指をさす彼女。

「送ろうか?」

「ううん。いい」

「……そう」

 精一杯の気遣いをすぱっと断られ、僕は仕方なく引き下がる。まあ、この状況で「送ってくれ」なんて言えないよな、と自分でも思う。

 (恐らく僕より年下の)子ども、しかも女の子が相手なんだし、こんな風に聞かずに問答無用でついて行くべきだったかもしれない。


「ばいばい」

 僕がつらつらと考えているうちに、彼女は小さく手を振り、たっと駆け出してしまう。

 そうして、僕が後を追おうかと迷う間もなく、塀の向こうへと姿を消した。

 ほとんど無意識に、塀の前まで出て、きょろきょろと彼女の後ろ姿を探したが、真っ白なワンピースはもうどこにも見当たらない。

 すぐそこの角を曲がったんだろう、とか、案外足が速いんだな、とか、至極真っ当な感想が頭をよぎったが、なんとなく腑に落ちないまま、僕は空を見上げた。


 気がつけば、月明かりの中、僕は一人、ぽつんとつっ立っている。

 先程と同じ、白い光に目を細め、またゆっくりと目を瞬く。


 今、空にかかる月を邪魔するものは何もない。

 欠けたところのない月が、僕をまっすぐに見返していて、苔と土をかぶった間抜けな僕を笑っているような気がした。

 思えば、月だけが、僕たちの繰り広げた一部始終を見ていた。

 眩しさと、一抹の恐怖に耐えかねて、ゆるゆると振り返ると、雨に濡れた庭木の葉が、月光を反射してきらきらと輝いていた。


 布団に戻ろうとサンダルを脱いだものの、どっと疲れを感じてそのまま縁側に座り込む。


 ふわり、と風が吹く。

 通りすぎた雨と、しけた蚊取り線香の匂いが、鼻先をかすめる。

 僕は、やっと夢から醒めたような、そんな気分だった。


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