天馬捕獲録 その2
縮地法は一見すると、ゆっくりと歩いているように見える。
いや、ゆっくり歩いているようにしか見えない。
縮地法は大地の気脈から気脈へと転移する術だからだ。
使用時には制限も多いのだが、行き先が決まっているのであれば他の移動術よりも仙気の消費量は抑えられた。
水月鏡が口を閉じているのに飽きたとばかりに質問をする。
『ねぇ、移動仙術は他にどんなものを修めているの?』
「うん、『矛盾系』、『時間系』や『無意味系』までひと通りの移動術は行使できるよ」
故に、縮地法は息を切らして足を動かすような必要がないので、一度術を発動させてしまえば、それほど負担がないので会話も余裕である。
水月鏡はあきれたように言う。
『無意味系の移動術なんて使い勝手の悪いものまで覚えているんだ。どんな状況で使うつもりよ?』
「さぁ。でも、その時が来た時に対応できないよりは良いよね」
『他の術で代替できるでしょって話。無意味系の移動術を使う必然性のある状況なんて、仙人が輪廻を三度繰り返したって起きないわよ』
水月鏡の真意は『それくらいなら攻撃仙術を修めなさいよ』というものだった。
ちなみに、縮地法は『気脈間の転移術』、矛盾系は『空間を圧縮する術』、時間系は『移動時間を現実より多く消費する術』、無意味系は『自身を極限まで空虚にして加速する術』だ。
過程は違うのだが、全て仙術による高速移動だ。
もちろん、仙気の消費量や移動速度に多少差はあるが、極端にどれかが劣っていたり優れていたりするということはない。
あくまでも術の特性により、一長一短がある。
『別に攻撃仙術を習得しても良いじゃない。使わなければ良いだけの話なんだし。そうすれば、こんな莫迦げた任を命じられることもなかったのよ』
「違うよ、水月鏡。僕はその時間を別の仙術を覚えることに費やしたのだし、僕は弱いからさ。いざとなった時、攻撃仙術に頼らない自信がなかったんだ」
使う気はないが、万が一使ってしまうことを恐れて覚えなかった。
道理ではある。
だが、それは狂気さえ伴った信念である。
万が一は恐らく自身の生命の危機であろう。
しかし、身を守る手段を放棄してまで守る信念なんて白痴と大差ない。
水月鏡は頭痛を堪える口調で言い含める。
『そもそも、どうやって貴方は仙獣を捕まえるつもりなのよ』
「うん、一切戦わずに説得して捕獲するつもりだよ」
『武力の伴わない言葉に何の説得力があるの?』
「うん、水月鏡の言葉の意味は分かるよ。でもね、仙獣って基本的に言葉が通じるし、誇り高い生き物だから、いくらでも交渉の余地はあると思うんだよね。
それに師匠が成功の可能性もない任を与えるとは思えないしね」
劉剣のニコニコと無邪気な言葉に水月鏡は呆れる。
ありとあらゆる可能性が偏在する仙界では不可能という言葉の方が少ない。
しかし、『皆無ではない』が成功を保証してくれる道理もないのだ。
『李仙人が貴方を諦めさせるための無理難題って可能性は本当にないの?』
「うん、あるかもしれないね。でも、師匠はそういう性格じゃないよ。それに、四凶と真っ向勝負して勝てる仙人なんてそう多くはないでしょ? 八仙を除けば、一部の上級武仙くらいじゃないかな?」
名前を列挙できる程度しかいないよね、と劉剣は指折りする。
ちなみに、八仙は仙人たちの頂点である八名である。
それぞれ分野は別であるが、普通の仙人とは格の違う存在だ。
そして、上級武仙とは仙人同士の争いを鎮圧する資格の保持者のことだ。
求められるのは公平な視点と並の仙人が束になっても敵わない戦闘能力である。
どちらも、普通以下の道士である劉剣と比較するのも阿呆らしい相手だった。
「無駄な抵抗をするくらいなら最初から武器なんて持つべきじゃないと思うんだよね」
『多少なりとも抵抗される可能性を考えて矛を収める人間は少なくないわ』
「考え方の違いだね。僕は基本的には説得して同行して貰うつもり。ただ、普通じゃ絶対に無理だから天馬や他の仙獣を仲間にして準備するってことだね」
『貴方の希望的観測の成功率を私は心から知りたいわね』
「あははっ、大丈夫だよ。怒らせなければ、そんなに低くないから」
水月鏡は『帰って良いかしら?』と半ば本音で呟いた。
「そんなこと言わないでよ」
『冗談、じゃないけど、帰らないわよ』
しばし、無言になってから水月鏡は冷然と告げる。
『でも、やっぱり、私は貴方のやり方が正しいとは思えない』
「どうしてさ?」
『言葉の通じない相手は捕らえられない』
「仙獣で言葉の通じない相手はいないよ。彼らの定義の一つが『言語を解する』だからね」
それがどうしたの? という劉剣のとぼけた言い草に水月鏡は不機嫌になる。
『そういう意味じゃない。分かっているくせに無駄にとぼけないでよ』
劉剣は水月鏡の伝えたいことが何なの当然分かっていた。
『言葉が理解できる』と『言葉が通じる』の二点にはずいぶんと隔たりがあることくらい彼にも分かっていた。
四凶は言葉が通じる相手ではない。
悪意を練り固めたような悪神なのだから――。
しかし、それで劉剣に諦めるという道だけは存在しないのだった。
『まぁ、貴方の好きにしなさい。お手並み拝見させて貰うわ』
「うん、頑張るね」
『それにしても、どうして天馬なの?』
「天馬は仙界でも指折りの速度を誇る仙獣でしょ」
『神馬の方が速くなかったっけ』
「単純な走力では神馬の方が速いかもね。でも、天馬には羽根があるからそれを加味すると上じゃないかな? 【天翔】龍翔子様を除けば、条件次第では最速といっても過言にはならない種族だと思うよ。
……あ、それと天馬の前で神馬のこと言っちゃ駄目だからね?」
『どうして?』
「酷い目に遭うから。仙獣は基本的に誇り高いから」
『了解。でも、私、ふと思ったんだけどさ』
「嫌な予感でもするの?」
『正解。でも、言葉にならないというか、何か忘れているような……』
言葉に迷う水月鏡との会話を劉剣は後回しにする。
「そろそろ、天馬の生息域に入るからね」
劉剣は縮地法から風遁系の飛行術に切り替えて、ゆっくりと近づく。
そして、生息域の草原方面から聞こえてきた巨大な爆発音に目を丸くする。
「え?」
『あ』
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『漣』が天馬たちの生息する草原の名前だった。
ここは果てしないほど広い草原である。
実際、ある意味でこの草原には『果て』がないのだ。
果てのある草原と果てのない草原が偏在している。
矛盾を許容する仙界だからこそ実現する草原だった。
天馬がここを住処にしているのは、食料となる草が生えていることに加えて、ただただ広大だからだ。
もしも、外敵が現れた場合、速やかに察知できるよう背の低い草以外何もない空間。
そして、加減速するための距離が存分にあることが大切だった。
水月鏡がとても嫌そうな声で呟いた。
『何よ、あの莫迦。劉剣の知り合いでしょ』
劉剣はいやぁ、と後頭部を掻きながら苦笑する。
「とりあえず、自分は全くの無関係って空気を醸し出すのは止めようよ」
『私は無関係よ。ほとんど面識もないもの』
天馬はとても美しい仙獣だ。
一点の穢れもない純白の翼と体躯で、光を含んだ馬毛は輝いてさえ見える。
キュッと締まった脚先の馬蹄は力強く宙を蹴り疾駆する。
首領を中心とした一定の群れを作って生活しているが、非常に穏やかな種族なのだ。
だが、今、一人の少女道士がその平和を乱しまくっていた。
年の頃も背格好も劉剣とさほど変わりないように見える。
動きやすいように飾り紐で長い髪をまとめている。
道着は華美ではないが、本当に地味な薄墨色の劉剣に比べればまだ鮮彩だ。
彼女の腰には瓢箪がくくられている。
少女の名前は琳洛。
彼女は劉剣にとって妹弟子(彼女曰く、姉弟子)に当たる。
そして、今、琳洛は天馬の一頭に向かって術をぶっ放していた。
群れはもうない。
とっくに逃げ出して、一頭だけが残っているのだ。
水月鏡が呆れたように言う。
『……あれ、結構な大規模仙術使っているわね。無茶苦茶よ』
実際、琳洛は仙気の量が道士の枠を遙かに超えているのでかなりの力技が可能だった。
「詳しいことは分からないけど、風遁系みたいだ。琳洛、また腕を上げたみたいだね」
劉剣は「大したものだなぁ」と軽口を叩きながら琳洛を観察した。
筒袖のところに大量の符を隠し持っているようだ。
あれだけの符をどう使用するのか、と劉剣は呆れながら見る。
凶悪な邪仙の討伐任務でも持ち歩かない量である。
『あのさ、他人事みたいに言っているけど、そんな余裕ないよね』
「うん。結構不味い事態だね」
一度加速してしまった天馬に、仙術を当てることは容易でない。
道士程度の仙術では現実的に絶対不可能と断言できるくらいだ。
根本的な速度が違うからだ。
それでも諦めずに琳洛は追撃するが、天馬は一定の距離を保って避け続けている。
天馬の移動中は観測系の仙術をもってしても計測しきれない。
それほどの脚を持っているのだから、一気に逃亡することだって容易なはずだ。
それをしないのは、残った天馬が敵の正体を把握しようとしているに違いない。
どの程度の敵に襲われたのか知っておけば、次の時に対処しやすいからだ。
天馬は臆病な仙獣だが、臆病だからこそ徹底している。
『なら、どうして笑っているのよ』
「笑っても泣いても怒っても事態が変わらないなら、笑っても構わないと思うんだ」
とぼけた劉剣の発言に水月鏡は意地悪く笑う。
『知っている? 天馬って一度警戒した相手には絶対心を開かないわよ』
「らしいね。しばらくほとぼりを冷ますために隠れて――」
その時、琳洛が何かに勘づいたように周囲をキョロキョロと見渡し始めた。
「しまったっ。隠遁の術を――」
劉剣は急いで印を組もうとしたが、それより琳洛が彼を発見する方が早かった。
「あーっ! 劉剣! アンタ、こんなとこで何しているのよっ!」
指さしながら叫ばれ、劉剣は天馬の敵意と忌避の混じった視線が自分に向けられたことを理解する。
琳洛が暴れている時点で隠遁用の仙術を行使すべきだった、と彼は反省する。
話し合いをするつもりで来たので、余計な警戒をさせたくないという判断が裏目に出ていた。
全ては後の祭りである。
劉剣の姿形と臭いを覚えた天馬が音も置き去りにして逃亡する。
追いかける気にもなれない、消滅と見紛うばかりの早業だった。
残ったのは琳洛と劉剣と攻撃仙術の残滓による不自然な静寂だけであった。
道士二人が固まっていると、水月鏡が呆れたように言う。
『あーあ、逃げちゃった。この状況でも笑える?』
「あははっ……」と、答えられない劉剣は苦笑するしかなかった。
そんな劉剣に水月鏡は追及の手を緩めない。
『ああ、さっき私の気づいた懸念が分かったわ。
貴方が非暴力主義を貫くのは構わない。どんな批判に晒されたとしても、行動するのは貴方だからもう文句は言わない。
でも、それは貴方個人に限った話よね。
もしも、貴方と真っ向からぶつかるような主張の相手が現れたらどうするの? その人が貴方の意見に従う根拠は? 邪魔されたらどう排除するの? それに、意見を競合させるのだって一種の暴力じゃないの?』
貴方はどうするの、という水月鏡の質問に、劉剣は黙ったまま肩を竦めた。