表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/8

4、東京裁判

 テーマ『戦争のルール』の授業は6月の第2週に入った。前回は戦争のルールを守らず無差別爆撃をした歴史について話し合った前回の授業の終了後に道下が提案して東京裁判について取り上げることにしていた。

 このテーマについて学習するにあたり、道下はどうしても見ておきたい場所が出て来て、新幹線で東京へ向かう事になった。同じグループで友人の佐々木さんと鈴木さんも東京なら一緒に行きたいと金曜日に学校を休んでつき合ってくれた。佐々木さんは実家が東京の墨田区の曳舟にあったので、そこに泊めてもらうことになっていた。

 西宮北口に集合した3人は東京に行けるという事でおしゃれしてきた。佐々木さんと鈴木さんはかなり攻めたミニスカートで道下はそこまでは攻められなかったが、福井人にとって精一杯の黄色いワンピースで飾ったつもりだった。

 西宮北口から阪急線で大阪駅まで出て、JRに乗り換えて新大阪駅まで行ってから新幹線に乗り込んだ。車内では女子大生3人が大きな笑い声を上げながら、久しぶりの東京への期待感からはしゃぎまくっていた。新横浜駅近くに来た時、道下が

「今回の東京でどうしても行きたいのが市ヶ谷の防衛省と池袋のサンシャイン60なの。来週の村瀬教授の授業で私たちの班は東京裁判、つまり極東軍事裁判について話し合うでしょ。でも私、どうしてもイメージがわかなくて、現地を見ておきたくて東京に行きたかったわけなの。2人は興味がなかったら渋谷でも行っててくれたら、私だけで行ってくるわ。東京駅で解散して佐々木さんの家で再集合でもいいけど。」と言うと佐々木さんは

「私たちも同じ班なんだから是非行ってみたいわ。」と賛成してくれた。鈴木さんも首を縦に振っている。3人の意見がまとまったところで東京駅に新幹線が滑り込んでいった。

 3人はまず中央線で市ヶ谷を目指した。市ヶ谷駅を降りると外堀の向こうに自衛隊市ヶ谷駐屯地があり、正面には防衛省のビルが見える。部外者を受け入れないような威厳を示す正面受付で道下が緊張しながら

「市ヶ谷記念館を見学したいんですけど。」と言うと係官に

「身分証を提示してください。」と言われた。市ヶ谷記念館の見学は午前と午後に別れて事前の申し込みが必要で、先日道下が西宮からネットで申し込んでおいたのだ。午後の部は13:10から13:20に正門前に集合し、13:30から15:50まで2時間20分の見学コースが設定されている。

身分証を確認してもらい待合所で待っていると定員の20人全員が集まって来た。案内係の自衛官が彼らを見学者用の部屋に案内して市ヶ谷記念館のビデオを流した。この場所で極東軍事裁判が行われたこと、そして昭和45年、ここで三島事件が起きて三島由紀夫が割腹自殺したこと、さらにはこの建物が同じ市ヶ谷駐屯地の中から縮小して移築され、現在に至っていることなどが説明された。説明が終わるといよいよ市ヶ谷記念館に歩いて案内された。市ヶ谷駐屯地は広さが25ヘクタールあり都心に広大な敷地を有している。戦時中は陸軍士官学校や陸軍参謀本部など陸軍関係の施設が集中し、戦後は米軍が接収した後、自衛隊がその施設を利用してきた。

 市ヶ谷記念館の正面に立った時、3人は身の引き締まる思いがした。東京裁判が行われたこの市ヶ谷記念館で東条英機や広田弘毅など多くのA級戦犯が裁かれ、それと同時に太平洋戦争中の日本軍の悪事があばかれた。しかしあくまでもアメリカを中心とした戦勝国の都合で裁判は行われたものであり、世界中が注目した歴史上まれな戦勝国が敗戦国の指導者を戦争犯罪人として裁いた裁判なのだ。

 案内係の自衛官が記念館の中で説明をしてくれた。

「裁判官、検察官は連合国サイドから選出され、弁護人は日本人から選出されました。歴史的経過については諸説ありますので、私の方からは解説いたしませんが、ここで行われた裁判が歴史上いかに重要なものであったかは言うまでもありません。戦後日本の方向性を決めたと言っても過言ではありません。」と説明してくれた。道下たち3人は会場となった大講堂の内部を眺め、東条英機たち、被告人が座った席や判決を受けた時の被告人証言席などに実際に立ち、当時の様子を想像してみた。

 実はここに来る数日前にNHK特集で「東京裁判」を取り上げた番組を見てきたので、想像は現実味を帯びていたのだ。

 記念館を後にした見学者たちは大本営地下壕跡に案内された。空襲の最中にも軍隊の指揮系統が途切れないように、シェルターとして建設されていたものだ。

 道下はまだ東京裁判については勉強不足で、本当の意味で今回の見学を意味のあるものに出来たかどうかは疑問だったが、東京裁判の行われた場所に建てたことは、今後の国際問題を考えるうえで大きな成果だった。

 市ヶ谷の見学を終えた3人はその足で市ヶ谷駅から地下鉄有楽町線で池袋へ向かった。池袋駅は巨大ターミナルで副都心の一つだ。主に埼玉や多摩方面への鉄道の連絡駅になっている。池袋駅を降りるとサンシャインシティーの案内看板を目印にまっすぐ進んでいると、巨大なサンシャイン60ビルを中心としたサンシャインシティーに着いた。

 ここに来たのはサンシャイン60ビルが目的ではなく、この地に巣鴨プリズムがあったことが記念碑に記されているからだった。戦後、GHQによって東京拘置所だった場所が巣鴨プリズムとされ、戦争犯罪人たちを収容し、最終的にはこの地でA級戦犯たちの絞首刑が施行された場所だった。あたりを探すとようやく雑踏の中に緑が残された場所があり、平和を祈念する石碑が残されていた。東池袋中央公園とされているが、永久平和を願ってと彫られた石碑が鎮座している。

 3人はその石碑を見てA級戦犯なんだから絞首刑になって当然だと以前は考えていたが、今では戦勝国だからと言って、個人を戦争犯罪人に仕立てることに疑問を感じていた。絞首刑に処せられた戦犯たちも日本の勝利と国際平和のために一生懸命に努力していたのだろう。誰一人として個人的な利益のために戦争を遂行した人はいなかっただろう。そう考えると無念な思いが現代っ子の彼女たちに湧き上がって来た。

 サンシャインシティーを後にしたのは既に夕方近くになっていたので、池袋駅から山手線で秋葉原まで行き、総武線で浅草橋まで行くと都営浅草線で曳舟駅まで移動した。曳舟駅はスカイツリーが近くに見える下町の風情が残る街だった。駅から佐々木の案内でしばらく歩くとマンションが立ち並んでいるが、そのうちの一つが佐々木の父親が経営するマンションだった。銀行勤めもしているが東京の地主たちは土地を有効利用するためにマンション経営をするのは当たり前のようだった。固定資産税を払いながら先祖伝来の土地で住んでいくためには、マンション経営をしていかないと立ちいかなくなってみんなが始めたものだった。江戸時代なら長屋の大家と言ったところだろうか。

マンションの1室が佐々木の家族が住む部屋になっており、ドアを開けると佐々木の母親が歓待してくれた。佐々木によく似た美人のお母さんで、客間に2人を案内してくれた。

「西宮はどうですか。いつも望がお世話になっているみたいで、ありがとう。」と言っていたがいつもお世話になっているのは私の方だと道下は恐縮した。

 その日の夕食は佐々木母の手作りのすき焼きだった。6月で暑かったが、豪華なお肉にびっくりした。しかし佐々木の家が大変なお金持ちだという事も再確認できた。

お腹いっぱい食べて満足しているところに佐々木の父が帰って来た。佐々木の父はビールを飲みながら

「今日はどこへ行ってきたんだい。」と聞いてきた。佐々木望が

「社会見学みたいに市ヶ谷記念館と池袋サンシャインシティーに行ってきたんだよ。巣鴨プリズムの跡地を見学してきたんだよ。」と答えた。するとお父さんは

「東京裁判コースだね。だったら明日は帰る前に靖国神社も行ったらどうだろう。」と提案してくれた。道下はどうして靖国なのかよくわからなかったがお父さんが

「A級戦犯は最初は靖国神社に祀られていなかったんだけど、70年代にA級戦犯の中の軍人たちが合祀されたんだよ。でもそれ以後中国や韓国から日本の政治家が靖国神社に参拝するたびに批判されるようになったんだよ。」と説明してくれた。道下は

「それ、聞いたことあります。合祀した時の靖国神社の神官が福井藩主だった越前松平家の末裔の方だったと本で読みました。」と答えた。お父さんは

「すごいね。それはなかなか知られていないね。」と言うので

「私、福井の人間なんです。」と答えた。


 翌朝、お母さんが用意してくれた朝食を食べて、お父さんやお母さんにお礼を言って家を出た。土曜日という事でお父さんもお休みで家でゆっくりしていた。

 曳舟駅から靖国神社最寄り駅の九段下駅までは東武鉄道スカイツリー線で20分ほどだった。地下の九段下駅から屋外に出ると外堀の脇に登坂があり、坂を上った右側が靖国神社の境内になっている。この靖国神社は明治政府が戊辰戦争の戦没者を祀るために設立したが、それ以後、日清戦争、日露戦争、第一次大戦、満州事変、日中戦争、太平洋戦争など国のための戦争で亡くなった戦没者を祀る国家施設として建設されたが、太平洋戦争以後は一般の宗教施設とされた。全国各地に護国神社があるが、この靖国神社と本社と分社の関係ではないが、戦没者を祀るという意味では同じ御祭神を祀る神社である。太平洋戦争当時の兵隊さんは、国のために死んで、靖国の英霊になることを名誉としていた。

 参詣の道には巨大な大鳥居があり、しばらく行くと大村益次郎の銅像も立っていた。まっすぐ進んでいくと本殿があり、その右手奥には遊就館があった。本殿を参拝した後、遊就館の見学に入ると戦死者、特に特攻隊として知覧飛行場や鹿屋飛行場から飛び立った若者の写真などが目に付いた。しっかりと見て回ることで戊辰戦争から西南戦争、太平洋戦争まで日本は戦いに明け暮れていたことがよくわかった。しかしA級戦犯についてはその展示品は目に着かなかった。展示しにくいのかもしれないと道下は感じていた。

 午前中いっぱい靖国神社を参詣し、3人は銀座での買い物を最後に東京での全行程を終え、関西に向けて午後4時ごろの新幹線で帰路に着いた。


 翌週の大学はいつもと変りなく、学生たちは普段通り授業に臨んでいた。ただ温暖化の影響からか6月の日差しは熱帯のように激しく、高台にあるこの大学の芝生広場でも、日向にはとても居られないほどだった。

 木曜日の午後になり、村瀬教授の授業の道下のグループでは今日も討論がスタートした。司会はキム君の順番だった。

「それじゃあ、討論を始めるけど、今日は道下さんから東京裁判についての意見をお願いします。」と言われて道下は調べてきた内容から話し始めた。

「東京裁判は太平洋戦争で日本の戦争指導者だった軍人や政治家などが、A級戦犯として裁かれたんだけど、この裁判で日本の指導者たちがどんなことをしてきたのかが、日本国民の知りうるところとなったわけです。戦時中は報道規制があったから国民は軍部の都合の良いことしか知らされていなかったんです。」と言うとキム君が

「軍事裁判は他の所でもたくさんやっていたそうですね。僕の出身地の韓国でも開かれていたそうです。あまり知られていないけど中国でも台湾でもあったんじゃないですかね。」と言うと鈴木さんが

「私も調べて来たから言わせて。ドイツの戦争犯罪についてはニュールンベルグ裁判で裁かれています。多くのナチス指導者が極刑に処せられています。日本の場合、A級戦犯は東京で裁判が開かれましたが、B級やC級の裁判は横浜で横浜裁判として開かれています。それ以外にも東アジアや東南アジア全域でそれぞれ開かれています。映画『私は貝になりたい』でフランキー堺さんが演じた兵隊が、上官の命令で現地の住民を惨殺したんだけど、終戦後日本に帰って来て散髪屋として働いているところに、連合国軍のMPが来て彼は逮捕され、現地に連れていかれて裁判にかけられ、死刑になるという映画でした。」と話してくれた。

「主に捕虜に対する非人道的な扱いや民間人を殺したなどのジュネーブ条約違反ですよね。いわゆる戦争のルールに違反したことでの裁判です。」と佐々木さんが付け加えた。

 道下は東京裁判について続けた。

「東京裁判がB級やC級の裁判と違うのは、それまで規定がなかった『平和に関する罪』という概念が持ち込まれたことなんです。戦争に関する裁判なんですから、通常なら戦争についてのルール違反を裁くならわかるんですけど、新しい罪を創作して裁判をするのは、フェアではない気がします。悪く言えば、後出し(あとだし)じゃんけんです。民間人や民間施設に対する攻撃とか捕虜に対する非人道的な取り扱いとかなら、罪を償わなければいけないと思います。でも戦争を始めるきっかけになった人物を特定しようとしたり、戦争を拡大していった罪を認めさせようとしたり、その時々の軍人や政治家たちは日本のためになると思って必死に議論して進めていったことですよね。それを罪に問うというのは東京裁判とニュールンベルグ裁判が最初で最後なんです。こんな裁判、歴史上前代未聞だったんです。」と言うと鈴木さんが

「よく言われるけど勝者の論理による裁判という事かな。裁判の中で太平洋戦争の責任をはっきりと日本の戦争指導者に取らせることで、アメリカには責任はなく、アメリカはこの後も西側資本主義諸国のリーダーとして君臨し、特に日本に対しては戦後の平和国家を作り上げることをアメリカが主導する必要があったんだと思うんだ。」と考えを述べた。すると森本君も意気込んで

「1946年からこの裁判は始まるけど、1950年には朝鮮戦争がはじまり東西の冷戦は実際に戦火を交えることになる。東京裁判の時にはすでに東西冷戦は始まっていて、アメリカは日本を反共の砦として確立したかったわけです。日本国内に作られた沖縄や岩国、三沢、横須賀、横田などの米軍基地を確保し続けるためにも、アメリカが日本国民にとってヒーローであり続けることが必要だったわけですね。」とすこし皮肉っぽく語った。

「そうですよね。アメリカがヒーローとして受け止められるためには、戦争の責任は日本の軍部に引き受けてもらう必要があるんです。日本国民を欺き続けるためにも東京裁判は大切だったという事ですかね。」と道下は歴史を達観した見方を披露した。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ