第4話
紫音と波莎が楽しくお喋りに耽っていると、引き戸を開く音を立てながら、続々と人が入室してくるのだ。
そう、『1-D』の同級生として、これから共に過ごす事になるクラスメイト達である。
紫音は未だ慣れない、否、これは一生慣れることはないだろうという緊張に体を強ばらせていたのだが、そんな紫音を可笑しく思ったのか、波莎はフフっと小さく笑うと、「皆面白くて優しい人たちだから、そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」と励ましてくれるが、紫音は内心、それは波莎だからだろうという考えが捨てきれない。
もちろん、対面する前から彼彼女らに対して悪い印象を植えつけてしまうのは、相手に対して失礼だから、良い人たちであるという期待は少しばかり胸の内に留めておくが。
教室に入ってくるクラスメイト達の視線は一点に集中されるのだが、それは、紛うことなき異質である紫音の存在が大きいからではなく、紫音と喋るその相手――雨塚波莎のオーラが、転校生という称号を持つ紫音の存在を呑み込んでしまうほど光り輝くものだったからである。
クラスメイトの幾人か、恐らく波莎と仲のいい人物であろう人達が、波莎に挨拶をしようと近付いた所で、初めて紫音の存在を認識するのだ。
「波莎、おはよ……って」
ショートヘアで褐色の、如何にもな体育会系の女子生徒は、波莎に挨拶をし終えてから何かを言いかけて口を閉じたが、その後に続く言葉は言葉にされなくても分かるようで、『そっちの人は誰?』と暗に示すように、怪訝な表情を波莎に見せていた。
「おはよう、愛理ちゃん。こっちの子は今日転校してきた天谷紫音くん。さっきまで少しお話してたんだ」
波莎は朗らかな笑みで挨拶を返すと、愛理と呼ばれる女生徒の懐疑を解消した。
「あー、はいはい、なるほど。よろしくね、天谷――」
と、そう言いかけた所で今度は一人の男子高生が、忙しなく教室へ入ってくるのだ。
「おい、愛理〜、何で毎日毎日先に行っちまうんだよ。大体な、俺はいつも待っとけって口酸っぱく言って――っと、これはこれは雨塚さん、朝から大変眼福で、おはようございますですはい」
その男子高校生は、やけに親しげに愛理と会話を交わすと、その愛理と対極する波莎の存在を認知し、畏まるように挨拶をする。
案の定だが、その人物が紫音の存在に気付くのは、一通りの事を終えてからであった。
「あのね、修夜。私ずっと言ってるよね? 一緒に行きたいならもう少し早く起きてって、それなのにいつもいつもギリギリだから……」
言い足りないのか愛理は、その後も修夜と呼ばれる男子高生に対してグチグチと小言を言い続けていた。が、その二人の関係は決して悪い物などではなく、寧ろカップルのように仲の良いやり取りをする二人に、大変微笑ましくなった。
「はいはい、二人ともそこまで、ね? 紫音くん困ってるし」
と、波莎が二人のチワワのような諍いを終息させる。
波莎の「紫音くん」という言葉に、初めて修夜は紫音を見ると、愛理に耳打ちするように、紫音のことを尋ねるのだ。愛理は、「私もさっき波莎から教えてもらったんだけど、転校生らしいよ」と、先程波莎から取り入れたばかりの情報を小声で伝えた。
「うおぉ! え、転校生!? 本当にいるんだ!! 俺初めて見た!!」
「初めまして、俺の名前は天谷紫音。訳あって転校生として入ってきたんだけど、ぶっちゃけ学校のことはよく分からなくて。不束者ですがよろしくね」
「おぉ、紫音か! 良いな!! ちなみに俺は室渕修夜ってんだ。一応これでも愛理の彼氏やってっから、愛理だけは手出すなよな〜!!」
先程二人のやり取りを見て『カップルのよう』だと形容したが、訂正、二人は紛れもないカップルだったのである。
「もう、そんなに堂々と言わなくても良いじゃん!! それに、波莎の前でこんなこと言っちゃ悪いけど、めっちゃ恥ずかしいし」
こんなことを言ってしまえば愛理に対して失礼だが、正直なところ、彼女が、少なくとも容姿という面において波莎に勝るものは無い。
それは愛理だけではなく校内の、いやもしかすれば校外にまで及ぶかもしれない女子全員に言える事ではあるのだが、それでも愛理からしてみれば、自身と波莎を比べて数段劣っているということに恥ずかしさを覚えるのである。
「え、何で? 愛理は可愛いと思うけど。――ま、俺の中では、の話だけどね」
バツの悪そうに照れ顔を浮かべる愛理を、修夜はニマニマとしながら楽しんでいる。
少しの間を置いて、自分の中では、という個人の感想として露骨に付け加えたのは、何処かで見ているか分からない、波莎の信者を恐れてのことだろう。
「あー、もう! だから、恥ずいってぇ!!」
愛理と修夜が付き合ってどれほどの期間が経っているのか、今の紫音からすれば当然分かるはずもないが、その期間が長ければ長いほど、修夜の言葉には重みが増すし、そうでなくても、容姿の有無はともかく内面だけでみれば間違いなくイケメンと言える。
「んで、愛理は紫音には自己紹介したの? まだだったら、こん中で一番お前のことを知ってる俺が紹介してもいいけど?」
一応は疑問形にした修夜だが、「この中で一番愛理の事を知っている」という文面から見て分かる通り、俺にさせろと言っている様なものだ。
「あぁ、そういえばまだだったかも。それじゃあ……」
『お願いしようかな』と言いかけたところで、愛理は何を思ったのか口を噤んだ。
修夜がこうして、愛理の照れながらも怒る反応を楽しんでいるのは、言ってしまえば性癖である。
故に彼女は毎回それに付き合わされる事に、少しばかりの疲労を感じていたのだ。
それでも、愛理が修夜のことを想っていることに変わりはないのだが。
だが、少しばかりの反抗をしてみたって良いではないか。やられっぱなしは性にあわないのが愛理である。
カップルの会話ならば、それさえもにこやかになるだろう。
「やっぱり自分でやる! どうせ、修夜に任せてもろくでもないこと言うだけだって、目に見えて分かるし」
愛理はこういう事に拘るような人間では無い――修夜のそれは恋人としての確信であり、間違いなく自分が愛理の自己紹介をすることになるだろうと予想していた。だが結果、思い通りにいかなかった修夜は「えぇー」と感嘆し、露骨に肩を下げたのだ。
「えーっと、私の名前は里海愛理。一応此奴の彼女だけど……こっちとしては、いつ別れても良いんだけどねー?」
そう挑発気味に修夜を見る愛理は、やってやったりとしたり顔である。
密かに考えていたやり返しが思いの外ツボにハマって、愛理の中にある新たな扉が開かれようとしていたのはここだけの話。
「おぉおぉ、言ってくれんじゃねぇの愛理ちゃんよ! お前、帰ったら覚えてろよ」
「フッ、フン! 上等だわ! 今日こそ吠え面かかせてやる」
苛立たしげの修夜に対して、愛理はどこか恍惚な表情を浮かべる。二人の会話が何を意味していたのかは、言わなくても分かるだろう。
「ね? 優しくて面白いでしょ?」
先程まで二人の会話に笑いを挟むだけの、我関せずの傍観者を貫いていた波莎が、紫音に対してそう言った。
「うん、確かに面白い。これは聖高校の名物にできるな」
「いや、無理だと思うけど……」
隠しようのない紫音の傷痕に気付いていないという事はないだろう、紫音のそれは人ごみで本人を探す上での判断材料にさえなるほどだ。
そんな彼を見ても尚、平然と会話をしてくれるのは、優しさ以外の何物でもない。
どれもが初見で新鮮だった紫音にとっては、別にこれに限らず全ての事に対して一定数面白いという感情は抱いただろうが、それでも二人を見て少しばかりの羨望を覚えていたのは事実だ。
あぁこれが、自分が求めていた光景なのだな――と、紫音は心から笑っていた。