第2話
高校一年である紫音は、本来ならば普通の入学生という立ち位置なのだが、入学時期が四月の下旬で幾許か特例的な所があり、外面上は転校生という身分にあたる。
在学生よりも数十分か早く学校に出席することになっていた紫音は、校門まで実弟――赤也に付き添ってもらい、別れを告げると校内へと入っていった。
私立聖高等学校。
創作物でよくある、歴史ある由緒正しき学校かと言われればそうでは無く、学力の程も特別偏差値が高い訳でも無い、中学校の科目を真面目に受けていれば、基本的には誰でも入れるような普通校である。
とは言え、紫音にとってはそれすらも受けることができていないため、入学までの道のりは大変な事に変わりはなかったが、それでも、紫音でも入れるような学校ではあった。
試験を受けた際に、職員室の場所は把握していたので、自身の下駄箱に靴を入れ、新調した上履きを鞄から取り出し履いた後で、職員室まで足を運ぶ。
当たり前だが上履きのサイズはピッタリで、妙な圧迫感を感じる事もなければ逆もまた然り。
数年ぶりに忘れていたあの頃の感覚を取り戻したようで、当たり前の日常が本格的に帰ってきたようで、紫音は少し感動にくれた。
こういう何気ない日常の動作や感触が、堪らなく愛おしく感じたのだ。
そうして職員室の前まで赴き、スチール製のドアの表面を、人差し指の第二関節でコンコンと叩き音を鳴らす。扉を開けて「失礼します」と一言入れると、自身が転校生であるという事を、職員室内全体に知らしめた。
生徒はまだ誰一人として来ていない。
そんな中での紫音の存在は、言ってしまえば異質であるのだ。
教員はそんな異質な青年に、少しばかりの吃驚を見せた(それはこの時間帯に生徒が入ってきたという事だけでは無く、紫音の傷だらけの外見も含めて教員たちは目を丸くしていたのだ。)が、青年が身分を明かしたことで、誰であるかを完璧に理解すると、恐らく彼を受け持つ人物だろう、一人の女教職員が、彼の前まで距離を縮めた。
案の定、それは紫音を受け持つ担任であり、名前は佐藤柳子先生といった。
佐藤柳子先生及び佐藤先生と暫しの談笑をしながら、これから自分が過ごす事となる教室まで足を運ぶ。
佐藤先生は教師である。
もちろん紫音の過去のことも予め話してあるようで、談笑の際はかなりの気を遣いながら、言葉を選んでいた。
気を遣われすぎるのも、それはそれで紫音としては申し訳なく感じるのだ。故に普通でいてほしいのが一番の望みではあるのだが、相手の気持ちを考えれば、それは無理な話である。
自分が相手の立場になって考えて、自分もおそらくはかなりの気を遣うだろうという事で、この件に関しては自分が慣れることで、そして相手も時間をかけて距離感や線引きを理解していくことで、解消していこうという方針に決めた。
「ここが、天谷さんがこれから過ごす事になる教室です」
A〜Fの、一クラスあたり四十人からなる計六クラス。その中の『1-D』である。そう記載された標識を見て、紫音はここがD組であることを悟った。
「ありがとうございます」
忘れずに一言礼を入れてから扉を開き、教室の中へと入っていく。
廊下の造りとは違い、教室の床板は木製となっており、踏み締めた時に鳴り響く木材の軋む音が心地良い。
「天谷さんの席は、あそこですね」
そう言って指定された席は、一番後ろの窓際である。紫音は座る。
その席を気に入る人間は多いだろう。
夏場には窓から一番近いということで、直に夏風を感じることができ、冬場では太陽の暖かい日差しを浴びることができる。一方でデメリットももちろんあり、その日差しは夏場も適応し、風は冬場でも容赦なく吹いている。
まぁ、風に関しては窓を閉めればいいだけだし、日差しに関してもカーテンを閉じれば良いだけなので、そこまでデメリットとは言い難いが、肝なのは個人ではなくクラスという所にある。紫音一人の一存で、あれこれと決めていいわけには行かないのが現実だ。
それに、もう一つのデメリットとしては、教壇側からだと案外後ろは見えやすいという部分にある。――が、これはある意味ではそうであり、またある意味では間違っているとも言える。
教師は基本的に、生徒全員に内容を伝える事が当然なので、声を遠くまで飛ばすという部分では、一番目を配りやすいのだ。
だが結局のところ、距離として遠いのは事実。
近視を持っている先生だったり、特別目立つ生徒がいるクラスだったり、隅の方を座る生徒だったり、見える見えないは人によってまちまちである為、何処が良い何処が悪いは、正確には分からないのが、これまた現実である。
だが、事実として紫音の心に残っているのは、一番後ろに当たった時の、妙な高揚感である。
これは理屈ではなく感情からくるもので、紫音は小学生の頃から、一番後ろという特別感溢れる席が好きだった。その主な理由としては、やはり一番後ろは見えにくいという先入観あってのものだった。
その時の感情が、再び甦ることに『あぁ、自分はこの席が好きだったなぁ』と窓から景色を眺めながら耽るのだ。
「では、時間になったら自己紹介を始めますので、それまではそのままでお待ち下さい。先生だと何かしら不便がある場合は、隣の席の人に尋ねてみてください。その人はクラスの委員長を務めて下さっている方ですので、頼りになると思います」
着席してからそわそわするような事もなく、ただボーッと窓の外を眺める紫音を見て、佐藤先生は何を思ったのか、それだけ言うと教室から出ていった。
周りが勝手に気を遣っているだけで、普通に接したい紫音からしてみれば、それはありがた迷惑だとすら思う。
やはり、あの事件の被害者という事実は何処までいっても紫音を呪う。本当の意味での日常を未だ取り戻せていない彼に与えられた唯一の解決策は、時間というすごく曖昧なものであった。
――あれからどれくらいが経過しただろうか。体感的にはもう一、二時間ほど経ったような気がするが、スマホで確認した所の時間は二十分すら経っていない。いわゆる暇な状態である。
授業のペースに少しでもついていけるようにと教科書を読もうとも思ったがあまり気が乗らず、かと言って校内を見回ろうとするのも、迷子になった場合の事を考えると一人で行くのは気が引ける。それに佐藤先生からは、そのままで待っていろとお達しされているので、無闇に彷徨うことがそもそも禁止されているため、最終的には机に突っ伏すだけとなっていた。
窓の方に目を遣って、目を瞑ろうか開けとこうか、曖昧な状態の薄目で外の景色を見ると、ポツポツと人が入学してくるのが見えた。
――おぉ、もうそんな時間か。
と、先程まで暇を持て余していたくせに、いざその時が来ようとすると、脈拍数は次第に高まり緊張が隠せない状態に入ってくる。
そして――ガラガラガラ、と扉が開く音がした。
紫音は確かにその音を聞いていたのだが、正直なところ、緊張で振り向くことができなかったのである。
カタカタと靴音が近付いてくるのを鼓膜で受け取る紫音は、徐々に距離を縮めていく脳に媚りついたその不協和音に恐怖し、そこで反芻するのだ。
絶対に忘れることができない、あの火で焼かれるような思いをした、無差別連続殺傷事件の被害者となった時のことを。
――あれは忘れもしない、人生で最大最悪となる誕生日の日であったのだが、当時の紫音はそんな事は分からなかった。
当たり前だ、それは突発的に起こったことだったのだから。それでも、以前からテレビや新聞などでよく話題に取り上げられていたため、ヒントはそこら中に転がっていたのだ。
だが、まさかこの場所が、まさか自分が、選ばれるはずが無いと、確信も持てなかったくせに、大丈夫だと高を括っていたのだ。
そう、あの時も、今みたいな足音が、鼓膜を叩いていたのだ。
――誕生日と言えば、一番の重要イベントであるのが、誕生日プレゼントである。当時は両親に兼ねてより欲しかったゲームソフトを強請っていたので、またその為に家事の手伝いや勉学に励んでいたので、紫音は絶対に貰えるだろうと、朝、目を覚ましたその瞬間から、ワクワクに身を焦がれていたのだ。
だが重要なのは、クリスマスでは無く、誕生日という所にある。
クリスマスの場合、プレゼントは大体朝起きた時に枕元に置かれており、それは寝て起きた時の楽しみを味わうものであるのだが、誕生日というものは、人によって様々である。
もちろん、クリスマスのような形式を取る家庭もあれば、紫音のように、学校から帰ってきてからや、父親が仕事帰りに買ってくると言ったところが基本であろう。
その日の紫音は、まともに授業に身が入らなかったのを覚えている。
キンコンカンコンとお馴染みの鉄琴のような楽器を鳴らした甲高いチャイムも、その日だけは、うるさく感じることは無い。
誰よりも早くランドセルを背負い、誰よりも早く外へ出る。誰よりも早く帰路に就く。
自分でも、何が悪かったのかは分からない。走り疲れて少し歩こうかと足を弛めた時に、それは起こったのだ。
カタカタカタと、その足音は徐々に早くなっていき、次の瞬間には――、
「来るな!!」
「――!」
と、声を張り上げた所で紫音はその声を皮切りに、現実へと帰還する。どうやら無意識の内に窓からは目を離し、扉側へと振り返っていたようで、目の前には、見るも美しい女子生徒が一驚していた。
「あ、えーっと、ごめんね? いや、ほんとごめん! ちょっと混乱してたみたい。あ、えっと、俺、転校生なんだけど……あ、名前だよね? 名前は天谷紫音って言うの」
こめかみには汗を流し、息を上がらせながらも、自分が失態を犯したという事実はハッキリと理解できる。紫音はそんな状態で、取り敢えずはこれ以上関係性を悪化させないようにと、すぐさま自身の弁明を計ったのだが。
一方でその女子生徒は、未だに言葉を失っている様子で、紫音は本当にやらかしてしまったと改めて後悔する。
彼女のいる位置、そこは紫音の隣の席であり、その人物こそが佐藤先生が仰っていた、クラスの委員長であることを認識するのだった。