第1話
無差別連続殺傷事件の被害者となり、大病院で長期間の入院をしていた天谷紫音は、後遺症を背負いつつも、奇跡的に退院を果たしていた。
自室のベッドで目を覚ます。
退院してから数日が経過したと言うのにも関わらず、未だに見慣れない天井に目を丸くする紫音だが、辺りを見回す事で、その驚きも灰と化すのはいつもの事だ。
――ああそっか、今日、登校日か。
壁掛けフックに新調した制服。
兄思いの優しい弟妹が、準備してくれた学園鞄を見て、微睡みの中にいた紫音の意識がハッキリと覚醒する。
優しい弟妹の入念な準備のおかげで、紫音のやる事と言えば、後は着替えるだけとなる。
――コンコンコン。
三回だ、指の第二関節で木製の扉を叩いた音が聞こえた。
「兄さん起きてる? 失礼するよ」
ベッドから体を起こしている紫音を見て、そう言いながら部屋へと入ってきたのは、弟妹の内の弟――天谷赤也だ。
優しい声色とは裏腹に、どこか力強さを感じる端正な体格と顔立ちは、お世辞にも年相応とは言い難い。
それもそのはず、赤也の自室には、目が眩む程の本の羅列と、見るだけで筋繊維が千切れそうになる程の筋トレ用具がそこかしこに置かれているのだから。
だが赤也からすれば、これもひとえに決心の表れに過ぎなかった。
紫音と赤也の歳の差は三つ程であり、幼少期――とは言えど、紫音の記憶の中にいる彼は、小学三年生の悪ガキだった頃の認識が最後で止まっているのだが、それよか幾分か、外見的にも内面的にも著しく成長を見せており、久しぶりに顔を合わせた時は、それはもう大きくなったと感動したものである。
と同時に、昔の赤也からは想像もつかない変貌のしように、さすがの紫音も会話をするのに戸惑ったのだが。
兄、紫音がベッドから立ち上がろうとするのを見て、赤也は構わず腰に手を回し、サポートをする。
「ありがとう」
「ぜんぜん。でも、一言くらいは欲しいかな」
「ハハ、何か気恥ずかしくて。やっぱりいつまで経っても、弟には大きな背中を見せたいと思うのが、優しいお前たちを持った兄心というわけなんだよ」
「アハハ、何それ。兄さんは十分頑張ってるよ?」
「うん、そうやって素直に褒められるのも、また恥ずかしいんだけどな」
忌々しい惨劇を味わった紫音が入院してから、現在までの約三年間。たまに家族がお見舞いに来ることはあれど、やはり時間制限というものがある以上長話など余裕ない。
そのため、紫音は赤也と会話をすることに、少しばかりの抵抗を感じていたのだ。
それは、赤也がこの体を見て気持ち悪がるかもしれないという、不安があったから。
鏡の前に佇む紫音は、一着一着、身体に支障が出ないように、丁寧に脱いでいき、赤也はそれをサポートする。――が、実のところ、紫音はもう、一人でもそれなりに生活ができる程度には回復しているので、現状のこれは赤也の厚意に甘えているだけということになる。
実に恥ずかしい話ではあるのだが、弟が兄に優しくしてくれるのも、今だけかもしれない。そう思った紫音だからこそ、弟の親切心を無碍にはできず、現状の幸せを全力で掴みにいくのだ。
もっとも、そんな言葉はおくびにも出さないし、仮に何か言われても、敢えて遠慮する方面で話を進めるのだが、これらはあくまでも建前であり本心では無い。
鏡に映る、毒々しく遺った無数の傷痕に、赤也の顔が少し歪んだのを、紫音は鏡越しから認識する。
「俺のために無理しなくていいぞ赤也。その気持ちだけ嬉しい」
サポートをしてくれるのは確かに嬉しいし、それはありがたい事だが、同時に紫音は献身的に尽くしてくれる赤也を見て、少し不安を感じるのだ。
幼少期の彼を知っている身としては、本来赤也はもっと溌剌としていた。だが今の彼は明らかに違う。
サポートを受ける身である紫音が、彼に対してこう思うのも些か失礼に値するが、今の赤也は復讐に燃えているように思える。それは紫音だけでなく、家族の全員が感じていることだ。だが、事情が事情なだけに誰も赤也を止められないのだ。
それは当人である紫音を除いて。
「――! ごめん兄さん、そんなつもりじゃ」
「ハハハハ、分かってる分かってる。兄から弟に向けての、距離を縮めたことを目的とした、ちょっとしたジョークだよ」
「ジョークって、それ冗談になってないから……」
眉根を寄せて表情に哀しみを浮かしていた赤也を見て、紫音は少し巫山戯てみたのだが、それをジョークと呼ぶには少しブラックすぎたのか、赤也は心底穏やかでないという、半ば呆れとも取れる表情を見せていた。
――うん、そっちの顔の方が断然赤也らしいな。
紫音は心の内でそう思う。やはり、自分の事で家族が悩む姿は見たくはないし、自分の過去に家族が囚われる必要も無い。
自分の始末は自分で付けるべきだ――と、紫音はそう思うのだ。
赤也の懇意な手助けの甲斐あって、着替えはそれなりにスムーズに事を運んだ。
――よし、後は鞄を持って降りるだけ。
少々おぼつかない足取りではあるが、全く歩けない訳では無い。
長期に渡るリハビリ生活は、それはもう心身ともに効いたものだ。
少し踏み込みを誤れば、落下の如く身体が沈み、次に目を開けた時には天井のライトと対面している、というような事は、珍しくも何ともない、日常茶飯事と言うやつだった。
それに加えて、日々の勉強。
だが、これには専属的に付いてくれていた先生がいたから、そこまで苦労はしなかった。
どうやら俺は、呑み込みが早いらしい。――そう自覚したのは、先生の教育方針が、ひたすらに褒めて伸ばすタイプだったからなのだと思うが、実際それで成長しているのだ。紫音は満更でもない、と思う。
「大丈夫? 歩きづらくはない?」
都度気にかけてくれる赤也は、自立して歩く紫音の腰から徐々に手を離していく。それはまるで自転車に乗る練習をする子供から手を離していく父親のように、優しく丁寧であった。
「そんなに心配しなくても大丈夫。これでも兄さんは強いんだぞ!」
と赤也の眼前で腕を捲り、傷だらけの腕を見せ、これっぽっちも盛り上がらない力こぶを披露する。
「うん、十分に、嫌というほど強く伝わってるから早くしまって……」
自身の失言を理解したのか、赤也は額に手を当て、呆れたように目を伏せた。
「それより学校だよ。初登校だし、心配だから付いていくね。あ、僕の方は気にしなくて大丈夫だよ。学校には一応午後からの参加ってことで連絡入れといたから」
「何から何までありがとね。あれ? でも皆勤賞は大丈夫なの?」
「あのね兄さん、僕もう小学生じゃないんだから、そんな物に拘りなんてないよ」
「アハハ、そっかそっか。偉くなったもんだな!! 凄いぞ!!」
と、冗談めかしく我が実弟の成長に、改めて感嘆する紫音は、そのままリビングへと足を運び、朝の恒例行事を一通り済ませ、赤也と共に家を出る。
何気ないこの時間が、どれほど奇跡の積み重ねの上に成り立っていたのか、紫音は改めて理解するのだった。
そして同時に、根底に根付いた復讐の炎は、薪をくべられ成長する。