第1話「マズローの5段階欲求」
「なあなあ、紗希。私いっつも気になってたことがあってん」
「どうしたの、紗弥」
二人の女は自宅の炬燵に入りながらミカンを食べている。
長い髪を下ろした肉付きの良い方は高校生の青山紗弥、妹である。
対して短髪にしたスレンダーな方は大学生の青山紗希、姉である。
「SNSってさ、ある一定のルールが設けられているけど、割と自由に発言できるやんか」
「そうね。でももちろんルールにのっとって使用しなくちゃいけないわよ」
そんなことわかってるわよ、と言わんばかりに紗弥は手に持っているミカンを口に頬張る。
「でもさ、そういうルールを守らない人たちもおるやんか」
「それはそうね。私もあんまり詳しくはないけど」
「特にさ、よくツイッターとかインスタとかで、結構犯罪すれすれのことを載せてる人とかさ、いてるやんか」
「例えばどんなこと?」
ええとね、と言って紗弥は自分のスマホを取り出す。
「ほらこれ!」
「なになに……」
紗希は紗弥のスマホの画面に映りこむツイッターの画面をのぞき込む。そこには、アイドルの自撮り写真を載せた投稿に対して送られたリプライが映っていた。
「……うっわ、こっわ」
「でしょ。この子もよくこんなの送られてて平気でいられるよな」
いわゆるアンチと呼ばれる人たちのコメントで覆いつくされていた。
「次は、これな」
「まだ見せるのね……」
紗弥は2つ目の投稿を見せる。そっちには全国的に人気な女優に向けられたリプライだった。
「きんっもちわるい」
「せやろ」
送られたリプライはセクハラと呼ぶには甘すぎるほどの嫌悪感を伴うコメントの数々であった。
「なんか吐き気してきたわ。こんな気持ち悪いの見せてなんのつもりよ」
「こういうのって見てる分にはおもろいやんか」
「私は嫌悪感が勝ったけどね」
「いやな、ウチが言いたかったのは、ツイッターって想像以上に無法地帯やねんってことなんよ」
「それはよーく伝わったわよ」
「そのうえで見てほしいのがあるんよ」
そう言って紗弥はまた画面をスクロールする。紗希は目を背けるように、さらにミカンを食べ進めるのだった。
「これなんやけどさ」
「なによ……」
紗希はこわばった顔でまた紗弥のスマホの画面をのぞき込む。
そこには、下着姿の若い女性の体が映っていた。
「何これ……」
スマホを持つ紗弥は嬉しそうだ。
「よかったぁ、紗希はこういうのに疎いみたいで!」
「でも、これって本当に本人なの? なんか他から拾ってきた画像を載せてるとかそういう可能性ってないの?」
「さすが紗希。着眼点が本物やね」
紗弥が嬉しそうに続ける。
「でもこれな、結構この界隈では有名な『裏垢女子』やねん」
「何そのウラアカジョシって……」
「まあ、ウチもそんな詳しくないんやけどな。男の人はこういうのが好きみたいやねん。これ見てみて。フォロワーが1万人もおるんよ!」
「うわぁ、ドン引きだわ……」
ここまで表情をあまり変えなかった紗希が露骨に嫌な顔をしている。
「公然わいせつもエエところやけど、明らかに犯罪に巻き込まれるリスクやんか。この人ってなんでそこまでするんだと思う?」
「……さあ、見当もつかないわね」
「まあ、紗希はそうやろうな。じゃあ聞くけど、紗希ってインスタやってるやんか。んで、たまーにストーリーとか載せてるやろ?」
「ほんとにたまーにだけどね」
「でも、紗希のすごいって思うのが、紗希のストーリーってすんごい面白い投稿が多くて、私いっつも楽しみにしてんのよ」
「あら、それはうれしいわね」
「ところで、紗希のインスタのフォロワーって何人くらい?」
「急ね……確か100人くらいかな。ほとんど大学の友達か高校の時の友達だけど」
「案外、紗希って友達多いねんな」
案外って何よ、と紗希はつぶやく。
「ちなみに、ウチは500人くらい。すごない?」
「それもそうね。でも紗弥は毎日のようにストーリーや投稿をしてるじゃない。すごいと思うわよ」
「そうやねん、結構うち頑張ってんねん」
少しは謙遜しなさいよ、と言いかけて紗希は口を止める。だんだん紗弥が言いたいことがわかってきたようだ。
「話戻すけど、このフォロワー1万人の裏垢女子ちゃんは私たちよりも遙かにフォロワーが多いわけやけど、『すごい』やんな?」
「……確かに『すごい』わね」
「褒められる存在やんか?」
「褒められる存在ね」
また紗希は露骨に嫌な顔をする。
「まあ、結局そういうところなんよ。マズローの5段階欲求によると、生理的欲求や安全欲求、親和欲求が満たされたとき、次の段階の欲求は承認欲求なんよ。日本人の多くが生理的欲求から安全欲求と親和欲求が満たされて、次に承認欲求に飢えている人が多いんよね」
「紗弥って、難しい言葉良く知ってるのね」
「学校の授業で習うやろ。5段階目の成長欲求まで手に入れようとする人なんてほんの一握りで、ほとんどの人が承認を求めてる。中には安全や親和でさえも手に入れられていない人だっておるけどな」
「とどのつまり、紗弥は何が言いたいの?」
「こういう裏垢女子が生息しているのは仕方がない。それによって社会から認められて、次の成長欲求につなげることができるの」
「ふーん、まあ、言い得て妙って感じね。理論は通ってるわ」
「ウチ、まだ高校生やけど世の中見てて気持ち悪いんよね。ことあるごとに社会の評価って成長がどうとか成長しろだとか言ってるけど、その人は本当に安全を確保できているのか、親和は確保しているのか、世の中から承認されているのか。そういう基底の欲求が解消されない限り、成長したいだなんて感情にはならないはずなのよ。でも、承認欲求を満たす場として、こういうことをすると、やれ不謹慎だの犯罪だのと騒ぎ立てるじゃない。なんかかわいそうになってくるのよね」
「まあ、何かやり方を間違えてるだけって気はするけど」
「ウチはそうでもないと思うよ。ウチ、この子の素顔知ってるけど、結構かわいいと思うんよ。でも芸能人ほどじゃない。だからメディアに取り上げられたり、ドラマとかに出られるわけでもない。そういう子が認められるには、他とは違う何かをしなきゃいけないんじゃないかなって」
「なるほどね。まあ、SNSが普及して、一般人にも芸能人と同じような思考が近づいてきたっていうのは確かにいいことかもしれないわね」
「自己実現のやり方っていろいろあると思うねん。そのうちの一つがこういうやり方だっただけ。そう考えてみたらかわいいもんやろ?」
「……紗弥の言いたいことはわかったわ」
「ありがと」
紗弥はまたにっこりと笑顔になった。
「時に、紗弥。その子のアカウント、顔出ししてないみたいやけど、どうやって素顔を見たん?」
「ああこれ? じゃあ、実際の顔付きの下着写真見せてあげるわ」
紗弥は画面を取り上げてまたスマホをスクロールする。そして、あったあったと写真フォルダから一枚の写真を取り出した。
「―――それ、紗弥じゃないの」