女王
アレスは、用意されている作業者用の制服、帽子とグレーの作業着を着込み、ナイフを数本足首に忍ばせる。ナリーからもらったハンカチを胸ポケットに入れて、立ち上がる。
窓から見た空は、どんよりと雲が垂れ込めていた。計画が実行され、成功した頃には、ちょうど雨が降ってくれるだろう。天気も俺たち側に味方してくれている。そう思いながら、部屋を出て、宮殿の門前へと向かった。
門前広場には、すでに、数人の作業員が集まっていた。
しっかりと整列されていて、その先頭にリーダーらしき黒い髭を生やした男が、腕組みをしているのが見えた。大柄で屈強な体躯をしている。男と目が合い、会釈をすると、その整列の最後方へ並んだ。集団に、何の違和感もなく馴染む。そこに、ロジャーもやってきて、アレスの後ろに並んで、目線だけ交わし、頷く。ロジャーの黒い瞳は、いつも以上に吊り上がっていて緊張と高揚が見て取れた。
「落ち着け」
珍しく、小さくアレスが声をかける。だが、ロジャーは「わかってる」といいながらも、どこか落ち着きがなかった。
一方のアレスはやはり、落ち着いている。暗殺者たるもの、場面によっていろいろな顔を作らねばならない。時には、商売人のような社交的な。時に、ひ弱な村人を演じなければならない。いつも無表情を決め込んでいるアレスも、そんな時ばかりはしっかりと表情を作りこむことにしている。周りからは、よくもそこまで豹変できるなと言われるが、それも暗殺に必要なスキルだ。今回は、営業スマイルを振りまきながらも、気弱さを出す方向に定めている。
一方のロジャーといえば、そんな余裕もなさそうだ。
女王暗殺を今か今かと、待ちわびた歳月を考えれば、そうなるのも仕方がないと思う。それを見ながら、『ロジャーは、逃走経路確保に専念しろ。女王との対面はあくまでアレスに任せろ』とアイザックが昨晩言っていたことを思い出す。その命令にロジャー自身『どうして』と不満をまき散らしていた。アレスもその命令に対し疑問をもっていたが、アイザックの分析力、判断力はやはり秀でていることを再確認する。この状態では、失敗する。
アレスは、一人で動くことも検討しながら、頭で緻密な計画を立てていく。
そんな中、大男が二人の前にやってきて、アレスを見下ろしていた。アレスの身長は、決して低い方ではない。むしろ高い方に区分されるのだが、それをはるかに超える大きさだ。並べば、大人と子供というほどの違いがある。
「宮殿の中は、必ずそれを身に着けていろ。身分証明書だ」
そういう男の首からも同じようなものが下がっている。『マット班長』とある。昨夜、ファミルの説明にも出てきた協力者の名だ。
「ありがとうございます。今日はよろしくお願いします」
アレスが律儀に礼を述べ、首にかけると、マットは目を剥いていた。アレスの身体つきも筋肉質というよりかは、華奢。その上、暗殺者は粗暴者という先入観とは対照的なアレスの礼儀正しさや、気品さえ漂う所作を意外に思ったのだろう。何度も目を瞬いている。
「父が所作に厳しい人だったので」
アレスが、営業用に少し困ったように整った顔立ちの真ん中に皺を作りながら答えると「そうか」と言いながらも、こんなのが本当に暗殺者なのかと、些か疑っているようだった。じっとりとした視線をよこしてくる。アレスはそれに対して、笑顔を浮かべる。
「終わり次第、お知らせしますので、ご心配なく」
アレスの瞳の透き通っていた茶色が冷えて、濁っていく。作り笑顔を収めて、本来の顔を晒す。突然全身から放たれる殺気。マットは、目を見開き、固唾を飲む。やりすぎたかと思い、アレスは目を閉じて、殺気を鞘に納める。マットは、コロコロと変わるアレスに恐怖を感じたのか、深呼吸をしてそれを体外へ吐き出していた。そして、アレスに託すような力強い瞳を寄こしていた。
「俺も、この日を待っていた。頼りにしている」
短い言葉だったが、女王に対する嫌悪感が凝縮されていた。その言葉の裏で、この人もまた女王の悪政に苦しんできたのだろうことが伺えた。
「お任せください」
一礼して、受け止めると門番がやってきた。
「これより開門する! 作業員は仕事に取り掛かれ! ただし、不審な動きをした者は、命はない。わかったな!」
門番の大声が周辺に響く。それを合図に、あの日父の死を見届けた門が重々しい音を立て開いていた。
門が開く。荘厳な中庭。と早速、声がかかった。
「宮殿内の作業員は、ここへ並べ」
宮殿兵に命令されると、マットがその後ろにつく。そこにアレスとロジャーも違和感なく自然に加わり、予定通りの五名揃うと、最後方にもう一人の宮殿兵がついて、入口へと向かった。兵は二人。この程度の人数なら、いざ戦闘になったとしてもロジャーもいることだし、余裕だと思いながら、宮殿内に入る。煌びやかなシャンデリア、よく磨かれた大理石の床、正面には真っ白な石の階段。エントランスに思わず圧倒されてしまう。ろくな食料を配給されてこず、どんどんボロボロになっていく民の暮らしとは、あまりにかけ離れた景色。憤りが、こみ上げる。アレスの背後にいるロジャーからも怒りの空気が漂ってくる。それをやり過ごし、逃走経路を確認しながら、二階へ上がる。そこで、兵士が止まった。
「このフロアにある全室、確認をしろ」
「かしこまりました。おい、お前ら。作業を迅速に済ませるために、一人ずつ各部屋に入って補修個所を確認しろ」
「了解」
これは事前に打ち合わせしたとおりの計画だ。女王の部屋は三階右奥。その真下の部屋に、マットが入り、その隣にアレス、ロジャーと順番に入っていく。アレスも中へ入る。この部屋は、上級兵士の部屋なのだろう。ベッドと机が一つずつ、洗面所にシャワー。至って部屋はシンプルだった。しばらくして、アレスは入口ドアを薄く開いて、外の様子を確認する。兵士はきょろきょろと警戒態勢に入っている。当然か。そう思いながら、第二段階に入る。隣に入っているマット側の壁を二度叩いて合図を出してから、洗面所へと向かった。横に置いてあったコップ水を汲んで、王女の部屋がある部屋の天井隅に水をかける。
「あの、すみません」
廊下から、マットの声が聞こえてきた。
「なんだ!」
厳しい兵士の声。それを合図に、アレスも廊下に出る。
「どうやら、配管水漏れを起こしているようです」
「班長、こっちの部屋もそうです。これって、真上の部屋からではないでしょうか」
すかさず兵士がアレスの部屋に入ってきた。アレスが、漏れている箇所を指し示す。ポタポタと天井から水がしたたり落ちている。それを確認して兵士がまた廊下を出ると、もう一人待っていた兵士と話をし始める。そこにアレスが、遠慮がちに申し出た。
「よろしければ、上の階の確認をしましょうか?」
「ダメだ」
ぴしゃりと言い切る。そりゃあそうだろうな。と思いながらも、アレスは、気弱そうな声色で続ける。
「ですが、上の階が原因でしたら、そこを止めないと被害がもっと酷くなってしまいます」
気が弱い若者を演じるために、怯えた表情もつけてやる。そこにマットが更なる助け舟を出してきた。
「私のような力のある大男ではなく、この若者を行かせます。こんな、ひょろひょろ男が何かしようとしても、たかが知れているでしょう。変なことしでかしたら、迷わず殺してもらって構いませんので」
最後の言葉は余計だと思いながら、アレスは怯えたように腕を摩る。
「わかった。お前ひとりなら許可しよう。ついてこい」
手を挙げて見送ってくるマットに、アレスは感謝を伝えるために頭を軽く下げる。前後に兵士がつくと、廊下の左奥にある階段から三階へ。右に曲がった一番奥の部屋へと向かう。
それは、女王の部屋のはずだった。間違いないはずだ。それを証拠づけるようにドアはこれまで通ってきた部屋のドアとは比べ物にならない。白基調に金色で縁どられ豪華な装飾に両開きのドア。だが、その取ってに巻き付いている鎖と施錠は、まるでその部屋は、囚人が閉じ込められているような光景だった。
一体どういうことだ?
ざらりと胸を撫でられたような違和感に翻弄されそうだ。それを何とか、平らにすると兵士がカチャリと施錠を外す。そして、ドアをノックしながら兵士は告げた。
「女王、入ります」
返事の有無も確認せず、そのドアは開かれた。