行くべき道へ3
本望だ。サラは偽りなく、そう思った。
他の誰でもない、アレスの手であれば猶更。
最初の頃と変わらずそう思った瞬間、サラはロジャーに突き飛ばされていた。
「ぼさっとしてんじゃねぇよ! 今は……お前に死んだら、アレスが大罪人だ! そんなの冗談じゃねぇ!」
サラがいた場所で、アレスの刀身をロジャーの短剣が受け止め、赤い火花が散っていた。
その火花で、サラの頭が明瞭になる。
以前アレスが言っていたことを思い出した。アレスが私を殺した後、アレスを捕らえ犯人として民の前で断罪する。それが、ミリオンの計画。サラは、首を振り、頬を叩く。
ならば、私は絶対に死ねない。
アレスが何らかの形で支配されているのは、明白だ。あの術をどうにかして解く必要がある。
どうやって、アレスへ術をかけた? ニックにかけられたような洗脳は、まだ未完成の脳を持つ子供にだけ通用するもので、さらには長い年月をかける必要がある。ゆえに、アレスを洗脳するのは不可能。
だとしたら、私がミリオンに操られていた時と同じように互いの魔力を呼応させて、操るという手法を使ったのだろう。理由はわからないが、今目の前にいるアレスには本来持っていなかったはずの魔力を感じる。しかも、かなり強い。
そうとなれば、魔力を秘めた赤いイヤリングのようなものを持たされている可能性が高い。
サラは、大きく息を吐いて、目を閉じて神経を集中させる。
魔力がどこから発せられているか、読み取ることができるはずだ。
真っ暗になった視界。その先に二人の輪郭が、白い線だけとなってぼんやりと見えてきた。さらに輪郭を絞る。
激しい動きをする二人の輪郭は、徐々に鮮明になっていく。
ロジャーは、いつまでも白い輪郭だけがくっきりとするだけで、他は真っ黒。
アレスは、左胸の外側あたりから激しい真っ赤な光が、炎のようなものが上がっている。それが、体を包み込むように赤く覆っていた。原因は、それだ。
サラは、パッと目を開けて、アレスの左胸を凝視する。そこから、白い何かがひらりと揺れているのを発見した。
あれは、ナリーさんがアレスのお守り代わりにと持たせたハンカチだ。
なぜ? 思考が急激にそちらへもっていかれそうになったとき、アレスの赤い目がこちらを向いた。
まともに視線がぶつかって、サラが目を見開く。
同時にアレスの矛先は、ロジャーからサラに切り替わり、床を蹴っていた。突然切り替わった行動に、ロジャーもついていけなかった。アレスは、風のような速さでサラへ突っ込んでくる。
守りの魔法を繰り出す時間もなかった。気付いたときには、サラの目の前にまで切っ先は迫っていた。
「アレス兄ちゃん! 目を覚ましてよ!」
ナリーがアレスの腰に突進するように抱きついていた。
アレスの剣の軌道がぶれる。心臓を狙っていた切っ先は逸れて、サラの右肩を掠めた。そのまま、アレスとナリーは真横へ床に倒れ込んでいく。ナリーの小さな手のすぐ先は、左胸のポケットの近くにあった。
それを見たサラは、咄嗟に叫んでいた。
「ナリーさん! アレスの胸にあるハンカチを奪って!」
ナリーは言われるがままに、巻き付いている片手で素早くハンカチを引き抜いた。
すかさずサラがそれに向かって、手を向ける。同時に青い光がハンカチ全体を包み込み、霧のように消失した。
粉のように消えていたハンカチ。アレスが動きを止まっていた。
これできっと元に戻る。
静寂が訪れ、サラの胸いっぱいに、期待が広がっていこうとした。しかし、それはすぐに打ち破られていた。
アレスは、自分の腰に巻き付いているナリーの手を引き離し、その体を思い切り蹴り飛ばしていた。小さな体は軽々と吹き飛んでいく。サラが咄嗟に手を伸ばそうとしたが、それよりも早くロジャーがナリーを受け止める。
サラは安堵をしながらも、ゆらりと立ち上がるアレスの赤い目を前に、サラの足元はガラガラと崩れていく。周囲すべてが、絶望に包囲されているような気がした。
さほどまで見えていたはずの光は、真っ暗な愕然の中へ落ちていく。
「……どうして」
原因のハンカチは無くなったというのに、アレスの体全体から魔力が溢れていた。赤い瞳もそのままだった。
確かに、あのハンカチが元凶のはずなのに。
サラは目を閉じ、ずばやく神経を集中させ、再度アレスをみる。
サラは息をのんだ。先ほど左胸から出ていた炎は、血をめぐるように体の内側を巡っていたはずなのに、今はすべてが赤い。
まさか、ハンカチにあった魔力が、身体へ侵入した? だとしたら、これ以上成すすべがない。
希望の道が閉ざされたかのような虚無感に襲われながら、目を開くと、アレスは無表情のまま、サラを見据えていた。
ナリーの嗚咽が聞こえる。
どうすれば、あなたは元に戻るの?
レインの悲痛なまなざしは、一直線にアレスへ向けられている。
私にできることは、何?
ロジャーは、ナリーの横で悔しそうに顔をゆがめながらも、再び剣を手にして立ち上がる。
その手は、震えていた。
状況は最悪といっていい。
「アレス……」
名前を呼ぶことしかできない私は、なんて無力なのだろう。
宮殿に閉じ込められていた時、嫌というほど味わってきた。いつも誰かを助けたくても、見ていることしかできない。自分はいつも中途半端で、力が足りない。唇を噛んで、悔しさを噛みしめることしかできない。
もう……そんなの、嫌だ。
今ここに立っている場所は、あの宮殿の中じゃない。息が詰まりそうな日々を、アレスの手で外へ出してくれたのだ。
私は、諦めたくない。
サラは、胸にある青いペンダントへ願いを込めるように握りしめ、アレスを見据えた。
アレスが、重心を下げる。攻撃してくる動作だ。
サラは、願いを込めようにこの身にあるすべての魔力を、すべてをこの手と胸に集めていく。
ここにいる誰の命も絶対に、失わせない。
アレスが、床を蹴った。同時に、サラは素早くしゃがみ両手を床に置く。
その瞬間、文字が描かれた青い光の円が、アレスを取り囲んだ。
アレスの動きは、身体は見えない糸で張り付けにされたかのように突如止まり、剣が手から滑り落ちる。
動きを止める魔法。
アレスは、何とかこの術から逃れようと、全力で抗っていた。こめかみは青筋が浮いていて、その瞳は真っ赤に燃えている。アレスの中に潜んでいる魔力が、全力でサラの魔法を打ち破ろうと溢れていた。
サラはそれを見て思う。
この魔法は、ほんの数秒で破られるだろう。でも、それで構わない。
サラは、アレスがくれた短剣をポケットから取りだす。そっと鞘から引き抜くと、きれいな銀色が顔を出した。
それをじっと見つめると、渦巻き荒んでいた絶望の波が、ゆっくりと凪いでいくように感じだ。酷く穏やかな気分になっていく。
「おい! ふざけんな! アレスを殺したら、俺はお前を地獄の底の底へ落としてやるからな!」
ロジャー叫びは、当然だ。
私もアレスの命を奪おうとしている人間が目の前にいたら、間違いなく同じことを言うだろう。
アレスは、さらに殺気を強めた赤さを燃やして、サラを睨んでいる。
サラは、懐かしむように長い睫毛をその眼へ伸ばした。
「これ、覚えていますか? 『これは、自分の命を絶つ為に使うのではなく、守るために使うんだ』 あなたはそう言って、私へ託してくれたナイフです。でも、私にはどうも難しくて……うまく扱えませんでした。お陰でこの髪は、こんなにギザギザになってしまいました」
サラは、そっと自分の短くなった金色の髪を撫でる。汗にまみれていて、埃っぽい。でも。
「この髪、とても気に入ってるんです。昔の自分じゃない、新しい自分に変われた気がしたから」
サラは、青い目を細め、持っていたナイフを床に置く。そして、ゆっくりと立ち上がった。
サラは穏やかな表情のまま、つま先から指先まで持っているあらゆる力、流れる命の鼓動すべてをペンダントへ集中させていた。
身体の内側から青い光が放たれて、煌々と湧き上がり、ペンダントがそのすべてを吸い取るようにさらに輝きを増していく。
一方、アレスを縛っていた見えない糸は、徐々に緩んでいるようだった。
アレスの武器を持たない手は、徐々に動きを見せて、目の前にいるサラの首へゆっくりと伸びていく。
どうしても、その命をこの手で握りつぶす。そう言っているかのように。
サラは、その手を両手で握りしめた。初めて握るその手は、ずっと大きくて固い。いろんなものを背負い戦ってきた感触がする。それを半分受け取って、赤い目のその奥へ届けと願う。
「私の運命は、あなたと出会ったあの日。大きく変わりました」
サラは、赤く燃え盛った瞳をまっすぐ見る。その奥には、やはりあの時と同じ黒さがある。でも、本当はその色でないことを知っている。
殺してほしいと懇願したのに、生きろと言ったあなたの強さに、衝撃を受けたとき。
忘れていた名前を思い出させてくれて、呼んでくれたとき。
私に勇気をくれて、生きる理由を与えてくれたとき。
アレスの瞳は、透明な茶色をしていて、穏やかな形をしていていた。だから、私は。
「そんなあなたが隣にいてくれたから、変われたの」
サラは、眩しいくらい青く輝くペンダントを、首から外す。
そして、アレスの首へと願いを込めるようにかけた。
「私はあなたに、生きていていくれないと、困るんです。だから、お願い。元のあなたに戻って」
サラの瞳に水の膜が張り出す。その膜が破れる前に、サラはアレスの胸へ飛び込み抱きしめた。
その瞬間、さらに強い青い光が放たれる。そして、青い光は屋根を突き破っていた。暗くなりかけた空へ、青い光は一直線に伸びていく。青い光は柱となり、空を突き抜けていった。




