嵐の前1
剣の切っ先同志が擦れ、火花が散る。互いの力を見せつけ合うように、ぎりぎりと刃が鬩ぎあう。
だが、その均衡を破ったのは、アレスだった。ふっと力を抜いて、相手を引き込む。バランスを崩したところを見逃さない。前のめりになる相手の背を、柄で叩くために振り下ろした。だが、相手も敏感に察知して、素早く横へ飛びアレスの脇腹へ向かって、突きを出す。ギリギリのところで、それを躱し、服を破る。仰け反り、体制を崩しながらも、しなやかな体をばねの様に身体を回転させ後ろへ飛ぶ。そして、地面に足が接した瞬間、爆発的な瞬発力を発揮させた。アレスは、矢を射られるように相手の中心へと突進。相手は、その衝撃に耐えきれず、仰向けに地面へ転がった。その首へ、剣の先端を突き付ける。
「そこまで!」
見守っていたアイザックが声を張り上げた。アレスが鞘に納めると、倒れていた相手は下唇を噛んでいた。
「完敗だよ、アレス」
悔しいという感情を全面的に出して、絞り出す。
「そうか」
気遣う言葉もないまま無機質に敗北者へ告げるが、アレスは律儀に一礼する。アレスは端正な顔立ちと礼儀正しい所作のお陰か、ぱっと見ただけではとても暗殺者には見えない。
だが、透明な茶色い瞳の奥はどこまでも黒く、表情が薄い。まるで感情のない機械のようだ。尻もちをついたロジャーを見下ろしてくるアレスの瞳は、未だに鋭く汗で額に張り付きっぱなしだ。その割に、アレスは未だに座り込んでいるロジャーに、手袋外し手を差し伸べてくる。ロジャーは黒髪を書き上げながら、胸糞悪いとばかりに細い目を吊り上げて、睨み返していた。
レジスタンスに所属し始めた頃のアレスは、野生の猿のようにやみくもに権を振り回していただけで、元々剣術を習っていた自分の方が何倍も上だった。だが、たった一年であっという間に追いつかれ、今や手加減されるまでに、落ちぶれている。
レジスタンスに入った時期も、年齢も同じだというのに、伸びしろの違いはどこにあるのか。
全身黒ずくめの服についている茶色い土。アレスには、一切付いていない。ロジャーの全体に張り付いている埃は、アレスへの嫉妬のようだった。ロジャーは、差し伸べられているアレスの手を、乱暴に振り払った。
「気に入らねぇんだよ!」
アレスはいつもそうだ。
レジスタンスの本拠地が宮殿の奴らに嗅ぎつけられそうになった時は、血が通っていないのではないかと思えるほど、一瞬で命を奪い、死体の隠滅まで淡々と行っていた。そんな冷酷さを目の前に、畏怖さえも感じたことがある。
かと思えば、幼くしてレジスタンスへ所属してきた子供たちへは、やけに優しい。言葉は少ないが、喧嘩を始める子供同士の仲裁に入ったり、両親ともに亡くし孤児となったナリーには、アレスはひたすら寄り添っていた。そんな中途半端な優しさが、どうしようもなく頭にくる。こっちは、暗殺の腕を磨くことだけで精一杯なのに、どこまでも余裕ぶっている。
ロジャーは自分の感情を持て余し、踵を返し歩き出す。
アイザックはここ二年の間に伸ばした銀色の髭を手で整えながら、その背中を呼び止めた。
「おい、ロジャー! 勝手に行くな。この後は、明日に向けた重要な会議だぞ」
「頭を冷やしたらすぐ、戻ります」
ロジャーは、振り返ることなく森の奥へと姿を消していった。アイザックはまだまだ未熟だなと深いため息をついて、気を取り直す。
「まぁ、確かにロジャーの悔しさは、理解できる。アレスの成長は著しい。父親の血以上の能力だ。侮れん」
アイザックは、遠い目をするその先をアレスも追った。
あの地獄の一日は、胸の奥に全身を切り刻まれるように、克明に覚えている。父の亡骸を、引き摺り家に帰った。酒場にいたみんなも、また慟哭していた。その声を聴きながら、怒りと憎悪に打ちひしがれ神経が麻痺していく。そんな中、母もまた息を引き取ったことを聞かされた。もう、涙は出なかった。手のひらにこびり付いた血を握りしめながら、冷えていく身体。アレスの感情もその瞬間、殺された。アレスは、その瞬間、冷静に今後の自分の立ち位置、レジスタンスという組織を考えていた。レジスタンスの中で、主に三つの役割に充てられる。戦略担当、情報収集担当、実行担当。その中の実行担当は、所謂汚れ仕事を請け負う暗殺役だ。命を差し出す覚悟がなければ、務まらない。だから、アイザックにいった。俺を、暗殺者として育ててほしい、と。
その申し出をしたとき、初めて聞かされた。父のジャンは、母と結婚する直前まで宮殿の暗殺者として仕えていたこと。母や自分の前にいる父は、いつも穏やかでとてもそんな片鱗を見せたことはなかった。人を傷つけるどころか、手を差し伸べる人だった。それなのに、真逆の仕事をしていたなんて、いささか信じきれなかった。だが、自分の身体能力の高さ。追い詰められた時の判断能力。的確な攻撃。心と体が、切り離されたような感覚。それを感じたとき、思った。
これは、父から受け継いだものだ、と。
「だから、あいつはお前を訓練したくなかったんだろうな……」
ポツリとアイザックが零したことは、ずっと自分の中で引っかかっていたことだった。
「昔、父に何度も訓練をしてほしいとお願いしました。だけど、聞き入れてくれなかった。当時もそれなりに身体も大きくなっていたのに、何故だろうと思っていたんですが」
「あいつは、父親だ。誰が好き好んで、自分の子供を暗殺者に育てたいと思うか?」
アイザックは、そんなこともわからなかったのかと笑う。小さい頃、理解できなかった理由は、それなりに成長した今ならば、すとんと腑には落ちる。だが、納得はいかない。もしも、もっと早くから腕を磨けていれば、こんな時間を空けずとも女王の首をとれたかもしれない。無表情にそう思うアレスに、アイザックは表情を消していた。
「……それ以上に、お前の肉体的素質と根柢の優しさ。その狭間におちることを恐れたんだろうがな」
独り言のような呟き。どういう意味かと問いたかったが、それはすぐに風に流されて、口をはさむ余地はなかった。
「一時間後、酒場にこいよ。明日へ向けた女王暗殺計画会議だ。へそを曲げたロジャーもちゃんと捕まえて来いよ」
「わかりました」
手を挙げて、アイザックは街の方へと歩いていく。アレスはそれを見送り、汗ばんだ身体を風にさらす。森の癒しを受けるように空を仰いだ。
いよいよ、明日だ。