序章2
「アレス……」
奥の部屋にいる母――ソフィアから弱弱しく名前を呼ばれ、父から水を飲ませろと言われていたことを思い出す。アレスは、キッチンへ向かい、水を汲んだコップを手に、急ぎ足で母のもとへと向かった。
「遅くなって、ごめん。水持ってきたよ」
日を追うごとに、木の枝のように細くなっていく母がベッドに横たわったまま、顔だけアレスに向けていた。アレスは、サイドテーブルにコップを置いて、母の背とベッドの間にアレスは手を差し入れて、起き上がらせる。それだけで、母の息は上がってしまう。そのくらい、体力は限界だとわかる。骨ばかりになった背を支えながら、コップを口元へ持っていくと、母は二口程コクリと喉を鳴らしていた。背中を支え、ゆっくりとまた体を横にさせる。
「ありがとう」
表情をつけるのも辛いだろうに、無理やり笑顔を作ってくれる母に、やはり生きてほしいと思う。宮殿は、ここから歩いて数分だ。たった数分歩いただけで、母の病を治す薬があるかもしれないのに。どうして、手にできないのだろうか。アイザックの怒りが、アレスにはよくわかる。怒りで支配されそうになったところに「アレス」と、ソフィアの優しい声に救い上げられて、ハッとした。
「苦労ばっかりかけて、ごめんね。お母さん、アレスが、大好きよ」
「急に、何言ってんだよ。やめてよ」
まるで、別れの言葉のようにそういうソフィアにアレスは、怒った顔をする。
苦労だなんて思ったことはなかった。母のためならば、何だってできるし、大変だなんて思うことはない。家族とはそういうものなのだと思う。助けを求められたら、理由もなく動き、何だってできる。
同世代の仲間たちは、貧しい生活を紛らわせるように、遊ぶ時間に充てているが、自分にはそんな必要はなかった。ただ、母がいてくれれば、それが幸せなのだ。本当にささやかなことかもしれないけれど。
「伝えられるときに、ちゃんと伝えておかないと」
ソフィアの息が急に浅く、早くなった。優しく弧を描いていた瞳が、閉じていく。それに呼応するように、アレスの心臓が早打ちしていた。「母さん?」と呼ぶが、ソフィアは目を閉じたまま、反応しない。なのに、紫色になっている唇が最後の力を振り絞るように戦慄いていた。
「お母さんはね、お父さんと、アレスがいてくれて……本当に幸せだった。……アレス、ありがとう」
閉じたままの双眸から涙が零れ落ち、苦し気に上下していた胸が浅くなっていく。アレスの全身から血の気が引いていく。
「母さん?」
アレスが、呼べば必ず応えてくれるはずの母がピクリとも動かない。ささやかな幸せの灯が消えていく焦りが募り、アレスは走った。みんなが集まっている酒場のドアを乱暴に開け放つと、相変わらずのメンバーが目を丸くしていた。その中から、ジャンの姿を探すが、どこにもいない。父が座っていた椅子は空だった。
「父さんは?」
「早速、宮殿に行ってくるってさ。日暮れだし、やめろって止めたけど、行っちまった。まぁ、しばらくすれば、しっぽ巻いて帰ってくるだろう。アレス、何かあったのか?」
何も答えないアレスの様子で「ソフィアがどうかしたか?」というファミルの質問に変わる。それを無視して、アレスは外へと飛び出した。
宵闇のまれる直前の空は、目が慣れていないせいか一層暗く見える。
宮殿への道は右に曲がって、真っすぐ行けばいい。考える必要もない。ただ身体を必死に動かせばいいだけだ。
アレスは風のように走った。生まれ持った運動能力は高い。生まれて間もなく、医者から太鼓判を押された。それから、十四年。体はその頃よりもずっと大きくなった。レジスタンスの訓練は受けられずとも、自分のやり方で密かに訓練を重ねてきた。
体全体の筋肉も、バランスよくついている。特に足には、自信がある。比べたことはないが、父よりもずっと速くなったと思う。もちろん、レジスタンスの中で一番だと自負している。
だから、全速力で走っていれば、父が宮殿にたどり着く前に追いつけるはずだ。何度も交渉を重ねた結果、薬を得ることは叶うかもしれないが、それをたった今手にして、母を助けることは不可能だろう。
だから、今は、せめて父は母の傍にいてほしい。命の灯が消えるその瞬間は、せめて見届けてほしい。
息が切れ、心臓が破けそうなほどに、必死に走った。
とうとう、宮殿を隠すように生い茂る木々、その中央に門が見え始める。その目の前に、一人の男。後ろ姿。すぐにそれは、父だと分かった。面倒なことになる前に何とか間に合ったようだ。速さは緩めず、父のもとへ向かう。その奥にある宮殿の格子戸から、人影が踵を返すのが見えた。一人ではなく、数名いる。宮殿制服を身にまとい、マントを付けた側近が二人。その真ん中にいる高級そうなドレスを纏った、小柄な背。それが、ちらりとこちらへ振り返った。トレードマークの赤い瞳は宵闇色に染まっている。だが、整った顔立ち、華奢な身体。テレビで見たあの赤の女王だとすぐに理解した。彼女からいつも放たている赤は、すべて手に持っている一輪の花が吸い取ったように赤に染まっていた。その匂いを嗅ぐように、口元を隠すように持っていく。そして、俺に視線を送り無表情のまま、アレスだけへ合図を送るように人差し指をピンと立てて口に当てていた。
静かにしろ。そう訴えているように見えた。アレスは固唾をのんで、足を緩めると自然と気配を殺すような形になっていた。間近に迫った父もまた、沈黙を守っている。
女王は、そっとまた前へと顔を戻し、アレスに背を向けて、宮殿の入口へと姿を消していた。
金縛りにあったように、動かなくなっていた身体が、緩む。
そして、あと数歩あった父との距離を詰める。父もまた、アレスの気配に気づいていないのか前を向いたまだ。そこに、アレスが早く気づいてよと、ほうっとため息をつく。
「父さん」と声をかけ、未だに背を向ける父の肩に触れようと手を伸ばした。アレスの視界からガクンと父が消えた。
え?
声が出た瞬間。地面に何かが倒れる音がした。父がいた場所の下を見る。そこに、倒れた父の背中。白かったシャツが、真っ赤な鮮血に染め上げられていた。
「父さん!!」
混乱する頭をどうにかして、父を仰向けにさせた。息をしていないことは明白だった。そこに自分が見知っている父はいなかった。顔面も血で染まり、見開いた瞳だけが、白かった。
恐怖と絶望がアレスの体を貫いた。獣のように泣き叫ぶ慟哭が全身を覆いつくす。母を病のどん底に突き落とし、父を何の躊躇もなく殺した。父は、王女に望みをかけていたのに。俺は絶対に、許さない。内側から菌が増殖するように、憎しみが増幅していく。その先に、振り返った女王が見えた。口元に人差し指をやり、黙れといったあの顔。
ふわっと、内側で何かが浮かぶ。消えることのない赤黒く差し込む光。揺るぎない決意がうまれた。
俺は、絶対赤の女王を殺してやる。