素顔6
額の冷たさの心地よさと節々の痛みで、意識が浮上していく。瞼を開けた先にぼんやりとした小さな丸い輪郭が浮かんだ。
「お姉さん、大丈夫?」
徐々に鮮明になっていく丸いものは、子供だと認識したところで、頭が一気に覚醒する。ばっとサラが起き上がると、額に乗せられていた布がぽとりと膝の上に落ちて、ナリーがやってくれていたことを知る。同時に、眠れる場所を二人が譲ってくれていたことに気づいて目を伏せた。
「すみません、迷惑ばかり……」
サラが顔の中心に申し訳ないとばかりの皺を寄せると、まだ声変わりしていない高い声が洞窟にキンと響く。
「何で謝るんだよ。お姉さん、僕のために頑張ってくれたんでしょう? 僕が謝るんだったらわかるけどさぁ」
二カッと明るい子供の笑顔がぱっと煌めく。だが、サラの顔はその光を避けるように歪んで、黙り込んでいた。ナリーは、どうしてそんな苦しそうな顔をするのかわからず、首をかしげるていると
「体調は、どうだ?」
外を見回っていたアレスが後ろから飛んできた。サラはアレスの声に引き上げられて一瞬顔を上げるが、その影は消えない。むしろ色濃くして俯いていく。
「本当は夜明けに、ここを出るはずだったですよね? すみません、私のせいで」
サラが洞窟の外へと目をやる。煌々と太陽が降り注いでいて、薄暗かった洞窟内も眩しいくらい明るく照らしていた。日はとっくに空の上にあって、時間も昼が近いようだ。益々落ち込んでいくサラに、アレスが声をかける。
「ナリーが合流した時点で、その作戦変更を余儀なくされていたし、兵もまだうろうろしている。もうしばらく、動けそうにない。まだ、身体を休めておけ。さっきナリーに頼んで、食べ物を買ってきてもらった。少し食べよう」
ナリーもこっちにおいでよ、とサラを手招きする。ベッドから数歩離れたところに、小さな木の丸テーブルが一つ。おままごと用のテーブルだろうか。その上に三つ紙袋がのっている。
「僕らの行きつけのパン屋さんなんだ。宮殿広場に面しているすっごくおいしいお店なんだよ」
「では、いただきます」
サラが床に足を下ろして、ゆっくり立ち上がり、ナリーの横に腰を下ろすと、アレスは二人の向かいに座る。
サラが紙袋を開けると甘い香りがふわっと漂って、自分は空腹だったことに気が付いた。一口かじると、とても柔らかく、温かい。丹精込められたものなのだと、すぐに分かった。家庭の味が口いっぱいに広がって、心まで染みわたっていく。凍っていた心が溶かされていくような感覚に戸惑う。
「ね? おいしいでしょう?」
「はい。とっても」
「レインおばさんって人が作ってるんだけど、性格はすっごく適当で、豪快なんだ。そんな人が作るパンなんて、おいしくないだろうなって思ってたから、その言葉をそのままレインおばさんにぶつけたんだ。そしたら、いきなりげんこつで殴られて、口に無理やりパンを突っ込まれたんだよ。でも、それがすっごくおいしくてさ。ごめんなさいって素直に謝ったよ」
ナリーの話にサラは声を上げて笑っていた。
ナリーの子供ながらに人の心を救い上げる力には、いつも圧倒させられる。相手が思い悩んでいるような顔をいち早く察知しては、面白い話をしたり、ふざけたりしてその影を取り払おうとする。その力は、きっとこの先役立つことがあるはずだと思いながら、アレスもパンに噛り付くと、相変わらずの素朴な味が懐かしく思えた。
レインは、レジスタンスの協力者だ。アレスも幼少期から世話になっている。レインはいなくなってしまった自分の子供の代わりとして、アレスもしつこいくらいちょっかいかけられていた。その対象が、今はナリーになっている。両親をなくしたナリーへの、レインなりの気遣いだったのだろう。それを、素直にありがたいと思う。
「俺は宮殿に顔が割れているから、しばらくは出歩けないが、生きていることだけは、今度会ったとき伝えておいてやってくれ」
「わかった」
頷くと、ぱくりと丸いパンに噛り付きまた笑顔を見せる。サラも穏やかに微笑んでいた。
三人とも、食べ終わった頃、急にそわそわしながらナリーはサラへと頭を下げ始める。急なことで驚いているサラをよそに、ナリーは叫ぶように言った。
「昨日は、助けてもらって、本当にありがとうございました!」
改めて謝意を伝えることが、恥ずかしかったのかあげた丸い顔が赤かった。ナリーらしいなと思うアレスの整った顔が少し緩む。一方のサラは居住まいを正して、ナリーを真っすぐに見つめていった。
「私は、感謝などされるに値する人間では、ありません」
唐突にそういうサラにただナリーは目を丸くする。サラの顔は真剣そのもので、影が落ちていた。これまでの言動からして、サラが何を言おうとしているのか、大方予想がついたアレスは、それを無言で見守る。
「まだ、ナリーさんは、私のことをアレスから聞いていないんですよね?」
サラが確認すると、ナリーの頭に疑問符が無数に浮かばせて、アレスへと向く。アレスは、何も言わずただ頷く。それをみて、サラは更に確認を重ねた。
「あの、ナリーさんも、レジスタンスのメンバーなのですよね?」
「うん、そうだけど」
目をぱちくりさせながら答えると、サラは立ち上がり、ナリーへ深々と頭を下げはじめていた。
益々訳がわからず、ナリーはあたふたしながら、アレスへ助けを求めるような顔をむける。アレスと視線が合うと、そのまま聞いてやれというようにサラへ再度視線を向ける。いわれた通りもう一度そちらへ顔を向けようとしたところで、サラの凛とした声が響いた。
「私は、宮殿の人間。赤の女王です」
ナリーの顔が一瞬で凍り付くのがわかった。アレスは、それを静観する。
「いくら謝っても、許されないことばかり、私はしてきました。ナリーさんも、私のせいでたくさん苦しめられてきたはずです。私は、ナリーさんに、憎まれる対象であって、感謝される権利なんてない」
本当に、申し訳ありません。更に深々と頭を下げるサラ。
ナリーはただ頭を下げ続けるサラのことをじっと見つめる。
アレスは、無表情のナリーの下に隠されている感情を読み取ろうとしたが、うまくいかない。ただ、固く握りしめた小さな拳は震えている。それは、何を意味するのか。女王を罵るのか、掴みかかるのか。ここまでみせてきた表情が一変し、憎しみが色濃く浮かび上がっている。どちらにしても、アレスはそれを止めようとは思わなかった。ただ、ナリーの出方を待つ。
「……確かに、僕は宮殿が大嫌いだ。父ちゃん、母ちゃんを殺した奴らなんか、全滅すればいいって思ってるよ」
ナリーは憎しみを噛み砕くように、歯を食いしばっていた。やるせない思いが、滲み出る。ナリーはひとつ息を吸うと、サラへ真っすぐに顔を向けた。
険しさを消えていて、そこにあるのは、子供らしい透き通った瞳だった。
「でも、お姉さんは確かに僕を助けてくれた。その事実は、変わらないでしょう? 勿論、宮殿は糞くらえだけどさ……。お姉さんがいくらそのリーダーの赤の女王だって言われても、僕の恩人には変わりないよ。だから、ありがとう」
ナリーの太陽のような笑顔が、サラの胸に降り注ぎ、突き刺さった。みるみるうちにサラの青い瞳は、海のように水が溜まってこぼれ落ちていく。そして、
堰を切ったように嗚咽していた。
「僕、悪いこと言ったかな?」
ナリーは焦ったように、アレスの横に移動してきて縋り付いてくる。
「その逆だよ」
アレスが、そういってナリーの頭を撫でてやると、焦りは少し落ち着いたようだが、相変わらず気がかりで仕方ないという顔だ。
「少しそっとしておこう」
アレスは、ナリーを連れ出し、そとの空気を大きく吸い込む。森の中の空気は、どこまでも澄みわたっていて、自分もそうなれたらと、柄にもなくそう思う。
もしも、この世にいるすべての人間が、サラとナリーのような心の持ち主でいたら、きっと、争いは起こらないだろう。だが、現実はそう甘くも、うまくはいかないのだ。




