素顔2
「……両親がサラと呼んでくれていた頃、よく言われました。民の心が離れれば、不満が生まれ、やがて悲しみと憎しみに成長し、血が流れていくだけだ。だから、人々に寄り添う政治を目指せ。話を聞き、相手を理解することを怠るな。互いが歩み寄り、共に手を取り合う道を探し出せ。その努力が平和と幸せをもたらすのだ……と」
いつか、父ジャンがアレスへと切々と語っていたときの言葉が甦り、重なった。
レジスタンスは、武力組織ではない。言論で宮殿の行動を監視し、時に言葉で訴える。平和を存続させることを一番に願う集団なのだ。だから、どんなことがあろうとも宮殿、国民……双方ともに誰の血が流れてはいけないのだ。
埋もれていた記憶が鮮明になればなるほどに、真逆の道へ突き進んでいる自分自身。切り傷だらけの手と胸がギリギリと痛む。その痛みが伝染したかのように、サラの青白い顔色のまま手のひらを見つめていた。
「そうずっと、教えられてきた。それなのに、私は……今まで何を……」
サラは、頬を冷やしている反対の手を見つめてる。忌々しいものを見つめるように、その顔は厳しい。自分自身への怒りと罪悪感がその少し小さく細い手の中に凝縮されているように見える。
尖っている青い瞳を見返しながら、アレスは静かに息を吐いた。
「……だが、国民の前に立つ赤の女王は、ただの操り人形なのだろう」
「自分の意志ではなくとも、国民の前で演説する私自身の意識はあるの。自分が何を言っているのかも理解していて、記憶もちゃんとある。全部イヤリングによって操られていたせいで、私は何悪くない。……そんな理屈、許されないはずがない。抗えない私も同罪です。私の言葉に振り回されて、亡くなっていった人は、たくさいる。大切な人が、私のせいで死んでいった。もしも、私がそんな方たちの立場であったならば、殺したいほど憎んでいる。……だから、私は受け止めなければならないのです。残された人たちの悲しみと怒りを、私は真正面から全て受け止める必要がある。だから、私は逃げ隠れせず、今一度国民の前へ出て、謝罪せねばならない。そして、私はその場で命を絶ちます」
手のひらからこちらへと顔を上げる。サラは、色濃い影を、手の中にしまい込むように、握りしめていた。アレスは、それをじっと見つめ「サラ」と、彼女の名前を呼んだ。
驚いたような顔がそこにあった。アレスはそれを真正面から見据えた。
「あなたがいう通りの覚悟もまた、清く正しいのだろう。それを民衆の前で誠意ある謝罪を述べれば、一部の人間は心動かされ許すかもしれない。だが、全員が全員そうではない。怒りに支配された人々の前では、ただの偽善にしか聞こえない。そして、何よりもミリオンのいいように利用されるだけだ。その命を投げ売ったとしても、いい方向へは進まない」
アレスが指し示す、現実にサラは悔しそうに表情を歪む。どこへも行くことも許されない袋小路へ追いやられた瞳に、うっすらと水の膜が張られていた。
「サラが本当にこの国の未来を、今生きている人々の心の平穏を願っているのならば、死んで楽になる道ではなく、生きてすべてを受け入れ、苦しむ道を突き進め」
出口から微かに入ってくる月明りで、取り払われ、青い瞳が月光に灯される。揺るぎない決意を表しているかのように、青の中心に光が灯り、大きな目が見開かれ瞬いた。
その時、洞窟からかなり離れたところで、微かな爆発音が響いた。サラには、聞こえなかったようで、アレスが機敏に動き始めたことに困惑している。だが、何か起きたのだろうということをアレスから察したサラも、よろよろと立ち上がろうとする。それをアレスが無言のまま手で制して、アレスが洞窟の外へ出た。
川の流れにも乱れはない。木々の揺らぎも、風に揺られる程度のもので、異常は感じられない。
あの音は、森ではない。アレスは岩の上へ飛び乗り、広範囲が見渡せる高い木を見つけ、飛び上がり、周囲を見渡した。
宮殿が見える。内部は相当な騒ぎにはなっているだろうが、外見はいつもと変わりない。だが、門前から少し離れた場所から煙が立ち上っていた。
その場所は、アレスの生家。レジスタンスが集う場所。
仲間が襲われている。血の気が一気に引いていく。今すぐにでも、駆け付けたい衝動に駆られる。
だが。立っている枝のずっと下に見える洞窟。アレスは、一気に飛び降りる。その最中にも、小さな爆発音が聞こえた。胸の奥からどんどん膨らんでいく、助けたい思い。それを踏みつぶしながら、洞窟へと戻った。
「どうか、したのですか?」
「俺の本拠地が襲われている」
取り繕う余裕もなかったアレスは、正直に答えると、サラの息をのむ。
「助けに行きましょう!」
「ダメだ」
「どうして! 今から行けば間に合うかもしれないでしょう! 私が邪魔だというのならば、ここでじっとしています。絶対に外へ出ません! だから、仲間を助けてあげてください!」
「不測の事態が起これば、各自身の安全が最優先。鉄則だ」
衝突はもう始まっている。ここから全力で走っても、時間がかかりすぎる。その頃には、もうほとんどの決着はついているはずだ。
「信じるしかないんだ」
アレスの胸に秘めたもどかしさを感じ取ったサラは、俯くしかなかった。
元はといえば、アレスが私を助けたせいでこうなった。
私のことを憎み殺すためにやってきたアレスを、私はまた苦しめている。サラは、ずるずるとその場にしゃがみ込み、膝を抱える。こんなことしかできない自分が、どうしようもないくらい許せない。
楽な逃げ道へ誘われそうになるが、アレスに言われた言葉がその道をへ行くことを許さない。しっかりと塞いでいく。
「明日、日が昇ったら出発する。少し休んでおけ」
アレスの淡々とした声が、サラの胸いっぱいに響いて、刻まれていく。
アレスの瞳の中心は、どこまでも黒い。でも、その周りは透明な茶色で覆われている。
この人は優しすぎる。誰かの命が消えるたびに、どれだけ傷ついてきたのだろうか。それでも、彼は突き進んできた。その原動力は、私への憎しみだったはずだ。その相手が目の前にいるというのに、生きろといえる強さと優しさに、私はどう答えればいいのだろう。彼が、私の口敷いた悪政の犠牲になっていなければ、きっとこんなに暗い道を進んではいなかったはずだ。
私は、彼へどう報いればいいのだろう。




