素顔
宮殿を脱出したあと、数名の兵が追ってきた。だが、余分な一人を抱えてもアレスの速さにはついてこれず、難なく撒くことに成功していた。あれだけ降っていた雨も途中で嘘のように止んで、雲が消えていた。
そのまま、アレス達が向かった先は、鬱蒼と木々が生い茂る森の奥。水の流れる音に向かって、歩いていくと川と木々、ごつごつした大きな岩が融合し始める。それに沿って、少し歩くとだらりと蔦に覆われた岩が現れた。それを手でよけると、ぽっかりとした大きな穴が顔を出す。ナリーら子供たちの遊び場となっている秘密の場所。そこへ身を潜めたのは、すっかり日が落ち、満月が暗い空に輝き始めるころだった。
アレスとしては、戦闘で受けたダメージを加味したとしても、大した体力の消耗とまでは至っていない。しかし、籠の鳥であった女王にとっては、衝撃的な出来事に加えて、険しい道のりだったのだろう。長い丈の白のワンピースの裾は泥まみれ、座れる場所を見つけて腰を下ろす横顔は、疲れ切った表情をみせていた。長い髪は乱れ、ミリオンに殴られた頬は未だに赤いが、白い顔が一層白くなっている。それでも、彼女は気丈なまでの強い双眸は、月明かりに照らされて一層青く光を失わない。むしろ、その光は強くなっているように見える。
アレスはその横に立ちながら、外の気配を探る。自然と重苦しい沈黙が漂うが、それを割ったのは女王だった。
「……あなたの仲間があそこにいたんですよね? 私の身と引き換えに、彼を助けましょう」
「無駄だ。あの爆発では、死んでいる可能性の方が高い。あなたが戻ったところで、現状は悪くなるだけだ。利用され、全面戦争が始まる。そちらの方が、よっぽどのリスクだ」
ロジャーには、生きていてほしいとは思う。同時に、仲間が死ぬという現実を受け入れる準備もしている。一喜一憂していてはならないのだ。レジスタンスのメンバーは全員そうだ。仲間だけでなく、自身の生死の覚悟もできている。だから、今は、消えていった命よりも、刻一刻と変化していく現実を把握し動かねばならない。
アレスは、自分に言い聞かせるようにその先を続けた。
「多くの国民は無茶ばかり言う宮殿に、不満を抱きはしているが、戦いに明け暮れていた時代に戻るくらいなら、このくらいの我慢は仕方ないと思っている。この国のトップに立つ王家は絶対。この国はそうやって、築かれてきた。平和を築いたあなたの王を未だに慕っていて、その延長上にいる女王も絶対的信頼に値すると思っている人々は多い。側近がいくら演説しても、意味を成さない。女王自身の演説で、民はの心は動いていく。そこに、戦争を起こすと女王自ら宣言してしまえば、国民全体を巻き込んで大波になり、流れは止められなくなる」
「……ならば、私はやはり消えるべきです。あなたの手は、煩わせません」
左右に体を揺らして、ゆっくりと立ち上がる。
アレスとは頭一つ分背丈が違う女王の視線は、下から見上げる形となり眼光が鋭く見える。手をアレスの前に出す。ナイフを貸せとでもいっているのだろう。
アレスは溜息をついて、提案は却下だという意味をこめて、肩を軽く押し返す。疲れ切っている細い体は、よろよろと沈んで座っていた場所に尻餅をついていた。鋭い視線に避難の色が浮かぶ。
「それも、あいつは織り込み済みだったんだろう」
「どういうことですか?」
「ミリオンが女王の部屋へ最初に入ってきたとき、俺があの場にいたことを知っていたはずだ。気付かないはずがない。それなのに、あいつは気付かぬふりをして部屋を出た。その理由は」
「……ミリオンは、あなたが、私を殺すのを望んでいた、ということですか?」
「はっきりとは、わからない。だが、俺とミリオンがやり合っていた時、女王が俺に援護した。そのせいで、ミリオンは頭に血が上り、女王を手にかけようとしていた。その行動を見る限り、女王は死んでもいいという認識だったようにみえる」
女王は生きたままでも、操れさえすれば利用価値は十二分にある。だが、今回は全面戦争。内容が内容だ。女王が全力で抵抗したとしても、どうにもならないかもしれないが、万が一ということもある。何かの不手際で、女王が自ら何か起こすようなことがあれば、ミリオンの目論見は潰える。ならば、女王は殺された方が、後々やりやすいと考えたのかもしれない。
「俺が女王を殺した後で、捕らえ犯人として、民の前で断罪。国民は、悲しみにふける。それを慰めるように、ミリオンが演説をする。人々の悲しみに打ちひしがれている時というのは、心を掴みやすいからな。それに乗じ、女王からミリオン自身へ人心掌握できる」
「汚いわ……。でも、あの男ならば、やりかねない」
女王は悔しさでギリギリと奥歯を噛んで力が入ったのか、顔を歪めて腫れた頬を手で摩っていた。
「だからこそ、女王に死なれては困る。……今は、な」
最後の一言を強調する。状況が変われば、その判断も真逆も同じ様に変わっていく。女王もその意味をちゃんと理解していると、しっかり頷いていた。アレスは、洞窟から一度出て、清らかな川にナリーから渡されたハンカチを水につけて冷やして戻る。
「腫れている。冷やした方がいい」
女王へと差し出すと、驚いた顔をしながらも遠慮がちに手に取っていた。
ひんやりとしたハンカチに厳しい顔つき吸い込まれるように、穏やかになる。女王の部屋で最初に見せた少し自信のなさそうに、遠慮がちに口を開いた。
「……あの、あなたの名前……私へ最初に名乗ったルーツは偽名で、本当の名はアレスで、よろしいんですか?」
そんな話、記憶のかけらにも残っておらず、そんな名前だったのかも思い出せない。苦笑しながら頷くと、女王は目じりを下げて唇をきれいな弧を描く。
「アレス、ありがとうございます」
穏やかな笑顔を浮かべていた。これが、本来の顔なのかもしれない。うっすらとそう思いながら、アレスはまた大きく息を吐いて、少し離れた正面へ腰を下ろし、問い返す。
「あなたは?」
「私?」
青い瞳を丸くして、問い返してくる。
「赤の女王……それは、あなたの名じゃないだろう?」
「……サラ。それが、私の本当の名前です」
そういうと、サラはふっと遠い目をして呟いた。
「もう二度と、その名を口にすることも、聞くこともないと思っていました……」
懐かしむように寂し気な顔を見せる。




