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翌日の朝起きても、私は洞窟の中にいた。
体の下にはベッドではなく枯れ葉の山があり、隣では怪物が寝ている。
「ああ……」
日本に戻れていない事にがっかりしてしまうが、洞窟の入り口から差し込んでくる明るい光を見ていると、どん底まで気分が落ち込む事はない。
(この世界に来られてラッキーだったって考えよう。本当なら雷に打たれて死んでたかもしれないのに、私は昨日から新しい人生を始められたんだって)
自分に無理矢理そう言い聞かせて、枯れ葉の山から降りようとした。ガサガサという音で怪物も目を覚ましたけど、まだ眠いのか寝返りを打ってごろごろしている。そのモフモフした大きな体を見て、夜のうちに潰されなくてよかったと思った。
怪物がまだ起き上がらないうちにトイレをしたいと思って洞窟の外に出ようとしたけど、私が歩き出したところで、怪物は完全に目を覚まして勢い良く起き上がった。そして私の後を追ってくる。
「ついてこないで、逃げないから!」
トイレをしたいだけなんだと、この怪物にどう伝えればいいのか。
何となくだけど、この怪物はオスなんじゃないかと思うのだ。まぁメスだとしてもトイレは見られたくないんだけど。
結局私は怪物を引き連れて外に出ると、用を足すのにちょうど良さそうな草むらを見つけ、
「あなたはここで待ってて。絶対にこれ以上近づかないで! 絶対だよ!」
身振り手振りと言葉で必死に伝えて、一人草むらの中に入った。
怪物は何かを感じ取ったのか、私が「待ってて」と言い聞かせた場所で立ち止まってくれている。怪物とはいえ誰かにトイレしているところを見られるなんてすっごく嫌だけど、しゃがめば胸から下は草で見えないはず。
「トイレットペーパーが欲しい」
用を足し、なるべく柔らかそうな草を選んで拭く。最悪な気分。
「そういえば私の鞄どこいったんだろう? ポケットティッシュも入ってたのに。ここに来た時にはなかったけど……」
下着やズボンを上げながら一人呟く。雷に打たれた時、持っていたトートバッグは落としてしまった気がするので、残念だけどこちらの世界に一緒に来てはいないのかも。
「お待たせ」
怪物の元に戻ると、そう声をかけてみた。一晩経って、この奇妙な生き物に対する恐怖も和らいできた気がする。
私を襲ったり食べたりしないのなら、結構可愛いし。
「喉が乾いたな……。それに口を濯いで顔を洗いたい」
水場を探しに行こうかと思ったところで、怪物にお姫様抱っこされて運ばれる。だけど怪物は洞窟には戻らず、そこから離れて行った。
どこへ行くのだろうと思っていると、やがて水の流れる音が聞こえてきた。
「やった! 川だ!」
怪物も喉が渇いていたらしく、川に着くと私を降ろし、手を河原に着いて水面に口をつけた。そしてグビグビと喉を鳴らして水を飲んでいる。
「綺麗な川」
澄んだ水が太陽光を反射してキラキラ輝いていた。
川幅は五メートルほどだろうか。そこそこ大きい川だし、一部、水深もありそう。
遠くでは可愛い小鳥たちが水浴びしているのも見えた。この森にも普通の動物はいるみたいでちょっと安心する。
私は慎重に川に近づき、川原に膝を着いて水面を覗き込んだ。とはいえ端の方は浅いので、転んで川の中に入ってしまっても服が濡れるだけで済むだろう。
そこで視線を感じて右を見上げると、怪物がじっとこっちを見ている事に気づいた。片手を中途半端に上げていて、まるで私が川に落ちたらすぐに助けられるように準備しているみたい。
「大丈夫だよ」
怪物に言ってから川の水を両手ですくう。この水、飲んで大丈夫かな?
透明で澄んでいて匂いもなく、一見すると綺麗だ。だけどああやって小鳥が体を洗っていたりするし、不安は残る。
結局、試しに二口ほど飲んでみて、今日はこれでやめておく事にした。明日お腹が痛くならなかったら、もう少し飲んでみようかな。
昨日、怪物がリンゴを持ってきてくれたし、パッと周りを見渡しただけでもみずみずしそうな果物が生っているのが見えるから、喉の渇きはなるべくそちらで潤そう。
川に来たついでに顔を洗い、口をゆすぐ。これから歯磨きとかどうしたらいいんだろ。工夫すれば、草や木の枝なんかで代用できるかな? インドア派だからキャンプすらした事がないし、サバイバル知識なんて全く無い。
体も洗おうかどうしようか迷ったけど、昨日森を歩いて汗をかいたし、冷や汗もいっぱいかいたので軽く洗っておく事にした。気温は暑くも寒くもないけど、日なたにいるとぽかぽかと暖かいので凍える事はないだろう。
怪物はただの動物だと思い込む事にして、服と下着を脱ぐ。服は乾くのに時間がかかるし、洗うのはまた今度にしよう。汚れているとは思うけど、まだ二日目だし匂いは気にならない。
裸になっても怪物はとくにリアクションは見せなかった。まぁ、この怪物もずっと裸でいるようなものだもんね。
裸体に興味はないみたいだけど、代わりに気を遣って目をそらしてくれる事もない。相変わらず私が溺れるんじゃないかとじっとこっちを見ている。
そして私が川に入っていくと、怪物も同じように水の中に入って来た。
(冷たっ! 髪を洗うのはやめておこうかな)
水の冷たさに怯んで、そう考えた。日本にいる時みたいに毎日体も髪も服も洗っていたらそのうち風邪を引きそうだし、大体、水だけで洗ってどれだけ綺麗になるのかも分からない。石鹸がほしい。
川底に座るとお腹の下まで水が来るような、溺れる心配のないちょうどいい深さの場所で、ばしゃばしゃと体に水をかけて擦る。冷たさにはだんだん慣れてきた。
怪物はしばらく私の様子を見ていたけど、暇になったのか自分も水浴びを始める。
と言っても私の方に顔を向け、腹ばいになってお腹を水に浸けているだけだ。しかも浅いのであまり濡れていない。
あごもぺたんと川底に浸けているけど、鼻で呼吸もできている。
「そんな適当な水浴びで、よくそのふわふわの綺麗な毛皮を保っていられるね」
羨ましい。
なんとなくいたずら心が湧き、私のすぐ目の前にある大きな鼻に濡れた手で触れてみた。
すると怪物は鼻をひくつかせる。
今度は手で水をすくって、怪物の顔にパシャっとかけてみる。
そうすると怪物は微動だにしないまま一瞬目をつぶって、また開けた。
怒ったり、やり返されたりするかと思ったけど、何がしたいのかと不思議そうな顔をして反撃してこない。
だから私は調子に乗ってもう一度水をかけた。
目まで届いていないのに、怪物はまたぎゅっとまぶたを閉じる。
「あはは! 可愛い」
口まできゅっと閉じたのが可愛くて、私は自然に笑っていた。なんだかとても久しぶりに笑った気がする。
私の笑顔を見た怪物は目を丸くし、がばりと顔を上げる。
「何? そんなびっくりしなくても――って、え? 小さな波が……」
川なのになんで波が? と思ったら、怪物が短いしっぽを水面に浸けたままブンブンと振っていた。
「一体、何がそんなに嬉しいの?」
尋ねてみるけど、言葉が通じないので怪物から答えが返ってくる事はなかった。