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「僕は侯爵家の跡取りだから身分は問題ないし、婚約者も、噂になっているような令嬢もいない。ヴィア様が恋愛する気になれないなら、信頼関係のある僕と結婚するのは、すごくいいことと思うんだ。僕だってそうなったら嬉しい」
ルイスが何やら説明している。
思考が固まったオリヴィアは、数秒経ってからようやく言われた意味を理解した。
つまり、お互いに条件がよさそうだから、結婚しないかという提案らしい。
オリヴィアは数ヶ月前にルイスが言っていたことを思い出した。結婚相手はもう父親に決めてもらおうかという言葉を。彼にとってはそういう結婚のほうがいいのだ。別にオリヴィア自身を望んでくれたわけではない。
それがわかると、オリヴィアは胸が締め付けられるように痛んだ。
「ヴィア様!?」
ルイスが驚愕に目を見張った。その顔を見て、オリヴィアは自分が泣いていることに気がつく。
「え。違う、違うの、これは」
なぜ泣いているのだろう。ルイスが結婚しないかと言ってくれたのに。
最終的に周囲を固めてでも彼と結婚したいと願っていたのだから、これはとても嬉しいことのはずなのに。なのになぜこんなに悲しいのだろう。
「違うのよ」
こんなのルイスと結婚することを嫌がっているのだと思われてしまう。幼い頃と違って、オリヴィアは普段はほとんど泣かないのに。
「ヴィア様……」
呆然としたようにルイスが呼ぶ。
「違うの。嬉しいの」
手のひらで涙を拭いながら、オリヴィアは必死にルイスに訴えた。しかし説得力がないことは自分で嫌でもわかった。どう見ても嬉しくて泣いている姿ではない。
「ヴィア様、いいんだ」
どうにかしなくてはと焦るオリヴィアに、ルイスは静かに言った。
「いいんだ、断ったって。こんなことを言った僕が悪いんだから」
掠れて苦しそうな声に、オリヴィアは目を見開いてルイスを見た。無理やり笑った顔の中に、隠しきれない悲哀があって息を飲む。
「誰かに話したわけじゃないから大丈夫だよ。さっき言ったことは忘れてくれたらいいから。それで普段通りにしてくれたらいい。それで問題ないから。母さんもマーシャも何も知らないから、悲しんだりしない。……驚かせてごめん」
どこまでも優しいルイスの言葉が、もっともっと泣きたくなるくらいに辛い。
なかったことにされてしまう。
オリヴィアはルイスが離れようとしていることを感じて、必死で腕を伸ばした。
「違うから、ルイス。嫌じゃないの、嬉しいの。わたしはルイスのことが好きだから」
懸命に訴える。しかし、ルイスの表情は悲しげなままだ。
伝わっていない。オリヴィアの、好きが。
「嘘じゃないから。好きなの。だから嬉しいの」
ルイスは泣き続けるオリヴィアの赤くなった目を見てから視線を落として、どこにも行かせまいと上着の袖を握りしめてくる彼女の手を見た。
オリヴィアの心の内がルイスにはわからない。それでも自分が馬鹿なことをしたのだということはわかった。
「ごめん、ヴィア様」
「ルイス!」
「いや……本当に僕が悪いんだ。プロポーズをあんな言い方でするなんてどうかしている。肝心なことを隠したまま、あんなことを言った僕が悪い」
ビクリと肩を揺らし、何を言われるのかと不安そうに見上げるオリヴィアの濡れた頬を、ルイスはそっと拭った。
「ヴィア様にとってそのほうがいいからとか、そんなのは建前だよ。僕がただヴィア様と結婚したかった。それだけなんだ」
「え……」
「ずっと前から好きだったよ。一人の女性として好きなんだ。他の男となんて結婚してほしくなかった」
切なげに眉を寄せるルイスは、オリヴィアがその気持ちを受け入れないことを前提としているかのようだった。
「嘘……」
受け入れる以前に信じられないオリヴィアは思わずそんな言葉を口にしてしまう。ルイスの手がオリヴィアの頬から離れた。
「嘘じゃない。好きだから結婚したいって言ったんだ。あなたが望むような存在になれなくて、ごめん」
ルイスはオリヴィアが彼に何を望んでいるのだと思っているのだろうか。オリヴィアにはわからなくてじっと見つめることしかできない。
「本音ではヴィア様が僕を異性として好きにはなれないのだとしても、できるなら結婚したいし、今は無理でもいつかそういう気持ちになれる可能性が少しでもあるなら、勝手に待っているつもりではある。でもヴィア様は、幸せな結婚をしなくちゃいけないんだ。だから嫌だと思うならちゃんと振ってくれ。どんな結果になってもあなたのせいじゃないから」
これ以上ないくらいにルイスは誠実な表情でオリヴィアに向き合っていた。
でもお互いの認識の差が、オリヴィアを混乱させる。間違いなくわかったことは、自分が何を言わなくてはいけないのかだった。
「わたしもルイスが好きだわ」
今度こそ伝わるようにとオリヴィアは願った。
「ずっとずっと好きだった。ルイスだけが好きよ。他の人と結婚なんてしたくない」
オリヴィアの目にまた涙が溢れた。ルイスと同じ言葉を口にしたことで、ルイスと同じ気持ちなのだと、そのことを実感した。
「……え?」
自分の耳を疑っているかのように、ルイスは首を傾げる。
「ルイスが好き。本当は恋愛に興味がないなんて嘘だから。だって、わたしがずっと好きな人は、好きになってはいけない人だったから。自分の気持ちを隠し通すために、恋愛に興味がないフリをしていただけ」
必死に話すオリヴィアは、ルイスの頬が段々と赤くなっていることに気づかなかった。
「だ、だから、結婚相手を自分で選んでいいことになって、ルイスに好きになってもらおうと思ったの。でもずっと隠してたから、どうしたらいいのかわからなくて、ちょっとずつ気持ちを伝えようとしても上手くできなくて。……ここまで伝わっていないとは思っていなかったけど」
恥ずかしくなって最後は俯いていると、ルイスは何も言ってこない。おかしいと思い顔を上げてみると、ルイスは赤くなった顔を手で覆っていた。隙間から見える目は信じられないと言っている。
オリヴィアの頬が伝染したかのように赤くなった。
「本当に? ヴィア様」
「……本当よ。さっきからずっと好きだって言ってるのに」
まだ確認されることに拗ねた気持ちが出てくるが、喜びが滲み出る上擦った声に、それもすぐ霧散してしまう。
ルイスが足を踏み出した。急に近づいた距離は、次の瞬間にはもうなくなっていた。
抱き締められている。ルイスの熱い体温を直に感じるどころか包み込まれて、オリヴィアは更に顔が赤くなった。
「……好きだ」
噛み締めるようにルイスが呟いた。
「結婚してくれ、ヴィア様」
懇願するような囁きが耳に入って、オリヴィアの胸がじわじわと熱くなる。
ずっと好きだった人に好きだと言われてプロポーズされるのは、オリヴィアだってやっぱりまだ信じられなかったが、ルイスがしっかりと抱き締めてくれているから、夢ではないのだとわかる。
オリヴィアはこくりと頷いた。
「……ルイスと結婚したいの」
抱き締める腕の力が強くなった。
オリヴィアは安心して身を委ねる。これから先ずっと、いつだってこの腕の中にいていいのだと思うと、涙が溢れて止まらなくなった。