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長居するつもりがなかったオリヴィアたちは、深夜になる前に夜会会場を出ることにした。
「ヴィア様、どなたか気になる方はいらっしゃいました?」
マーシャがオリヴィアにぴたりとくっついて内緒話をする。あまり期待していなさそうな声は、オリヴィアの反応が誰に対しても薄かったからだろう。
「……どうかしら?」
オリヴィアはもう、恋愛に興味なんてないという態度を取るのは、ちょっと恥ずかしくなっていた。ルイスにだって少しずつ好意を示さなければいけないのだから、ここで誰もいないと言うのはよくないはずだ。でも嘘ではないとはいえ、気になる人がいると言うのも、いらぬ誤解を招きそうで、思わせ振りな答えになってしまった。それをマーシャは恋愛に興味を持ち初めたのだと解釈したらしい。僅かに目が輝いた。
「今日はまだ一日目ですからね! いつかヴィア様に相応しい方が見つかりますわ」
「そうかしら」
困り顔でオリヴィアは首を傾げる。
そんな人は見つからなくていい。相応しい人なんていらない。ずっと一緒にいてほしい人がいるのだから。
なぜこんなことをしているのだろう。
結婚相手を探すために、好きな人にエスコートされて、夜会に出席するなんて。オリヴィアは急に虚しくなってきた。これじゃあ、今までと変わらないのではないか。
「マーシャ、男二人で退場させる気か?」
不満そうなルイスの声が後ろから聞こえてきた。
振り返れば、マーシャがオリヴィアと腕を組んでいるせいで、ルイスとハワードが連れ立って歩いている。
「ほら、交代だ」
ルイスはやんわりとマーシャをハワードがいる後ろに下がらせて、笑顔でオリヴィアに腕を差し出してくる。
男性のこんな対応は当たり前のことなのに、やっぱり耐性のないオリヴィアは嬉しくなってしまう。
「いたの? 気になる男が」
「え? 何が?」
「さっきマーシャと話していただろう。いつものヴィア様ならいないってはっきり言うのに、違ったから」
屋敷の玄関ホールを出て階段を下りながら、ルイスはオリヴィアのほうを見ずに静かに言った。
少し声が平坦な気がして、オリヴィアは思わずルイスの腕を掴んでいる手に力を入れる。すると彼ははっとしたようにこちらを向いた。
「そういうわけじゃなくて、ただ、その……」
オリヴィアが珍しく言葉を詰まらせると、ルイスは困ったように眉を下げた。
「ごめん、こんなこと無理に聞き出すべきじゃないな」
「違うのよ。別に気になる人なんていなかったわ。ただ、いつもはエリオットにエスコートしてもらって、義務で出ているだけだったのに、今日はルイスにエスコートしてもらって、ルイスもいつもと違う感じがするから」
オリヴィアは何が言いたいのか自分でわからなくなってきた。これは質問の答えになっているのだろうか。
「……僕がいつもと違うのは嫌だった?」
「そんなことないわ!」
オリヴィアが即座に否定すると、ルイスは口元を弛めて呟いた。
「それはよかった」
ずっと近くにいたはずのオリヴィアが見たことのない表情をルイスはしていた。いつもの穏やかな印象が消えて、艶めいたものを感じる。深い部分に強い意思が隠れていそうな新緑色の目に、囚われそうになった。
「ヴィア様、次も僕がエスコートするからね」
「え、ええ……」
なぜか恥ずかしくなってオリヴィアは顔を逸らす。
違う。これは慣れないオリヴィアを心配しているだけ。ルイスはずっと妹に対するような態度を取り続けていたのだから。
エスコートしてくれるのは嬉しい。でも、こんなあやふやな状態を続けてはいけないのだ。ちゃんと前に進めなくては。
「ルイスだって……いないの? 気になる人が」
探りを入れるために聞いたことだった。
でも返事が返ってこない。顔を上げる勇気がなくて黙っていると、ルイスは不自然な間のあとにようやく答えた。
「いないよ」
それが嘘なのか本当なのか、オリヴィアにはわからなかった。
ルイスを好きになったきっかけを、オリヴィアはよく覚えている。
あれはまだオリヴィアが幼かった頃、自分が将来同盟国に嫁がなくてはいけないことは理解していたが、そのことしか理解していなかった頃でもあった。
オリヴィアは全く想像していなかったことを教育係に言われてショックで、城の庭園の生け垣の間に踞って一人で泣いていたのだ。
ちゃんと護衛騎士は近くにいたのかもしれないが、その時のオリヴィアは誰もいない場所に一人で隠れていると思っていた。
そしてそんなオリヴィアを最初に見つけたのがルイスだった。当時から優しい兄のような存在だったルイスは、怒ることなくオリヴィアに尋ねた。
「どうして泣いているの? ヴィア様」
心配そうなルイスに、オリヴィアはほっとした。乳母であるグレースとその子供たち以外に見つけられていたら、王女なのだからこんな行動はと説教をされていただろう。でもルイスだったから、オリヴィアは甘えられた。
「わたし、一人でヴィズニアスに行かなくちゃいけないの?」
「え? どういうこと?」
「わたし大きくなったら結婚するためにヴィズニアスに行かなくちゃいけないんでしょう。それはわかってるけど、でも今日、グレースは一緒に行けないんだって言われたの。マーシャとルイスとエリオットもダメなんだって。わたし一人で行かなくちゃいけないんだって。そんなのいや。怖い……」
オリヴィアはぽろぽろと涙を溢した。
遠いところへ行って王族の義務を果たさなくてはいけない。それだけでも不安で怖いのに、大切な人たちは誰も一緒に行ってくれなくて、ずっと離れ離れにならなくてはいけないなんて、幼いオリヴィアには想像するだけで悲しくて怖くてたまらなかったのだ。そんなこと、耐えられる気がしない。
理由を聞けば、彼らは侯爵家の人間で義務があるからだと言われた。また義務だ。何かというと義務という言葉を使われる。オリヴィアはそんなものは大っ嫌いだった。
ルイスはオリヴィアの正面に腰を下ろした。
「そうだね。ヴィア様と一緒には行けない」
正直に言われてオリヴィアはまた涙が溢れた。そんなにはっきり言わなくていいのに。
「でもヴィズニアスに行ったヴィア様に何か困ったことがあったなら、僕は必ず助けに行くよ。約束する」
とても真剣な声でルイスは言った。
「誰かに助けてほしいって思った時は、僕を呼んで。絶対にヴィア様のところに行くから。だから、そんなに泣かないで」
オリヴィアは真っ赤になった目をルイスに向けた。
「でも、ルイスは将来侯爵になるんでしょう?」
「そうだけど、でも、ヴィア様が呼んでくれたら、必ず、何が何でもヴィア様のところに行くから」
「……絶対に?」
「うん、絶対に。だから怖いことなんてないよ」
ルイスの声は強くて優しかった。
オリヴィアはいろんな思いがせり上がってきて、また涙が溢れてくる。
幼かったから、この時は自分の気持ちを正確に理解することができなかった。だからオリヴィアは心が求めるままに、素直にルイスに手を伸ばした。
「ぎゅってして、ルイス。マーシャみたいに」
妹にしているみたいに優しく抱きしめてほしいというおねだりはすぐに叶えられた。
ルイスは温かい手で抱きしめて、大切なもののように髪を撫でてくれた。そして、安心したオリヴィアはルイスにしがみつきながら眠ってしまった。
一度も忘れたことがない、心の奥底にしまっている宝物のような思い出だった。
オリヴィアはこの思い出があるから、辛いことがあっても乗り越えられるはずだと、がんばってきた。たとえルイスが忘れてしまっていたとしても、あの言葉がオリヴィアを支えてくれたことに変わりない。
本当は寂しがりなオリヴィアにとって、あの約束は不安に押し潰されそうな心を守ってくれるものだった。
オリヴィアはきっと一生、ルイスのことが好きなのだ。
だからもし叶うのならば、好きだと告げて、一番近くにいられる存在になりたいのだ。