2
リガデア国と同盟国ウィズニアス国との婚姻の取り決めは、オリヴィアが生まれる数年前に作られた協約だ。
当時、周辺諸国では内乱や戦争による小競り合いが多く、余計な火の粉を被らないためにも、この二国は関係を強化する必要があったのだ。まず行われたのがウィズニアス国王女のリガデア国への輿入れで、これがオリヴィアの母親である、現リガデア国王妃にあたる。
そうして次世代ではリガデア国の王女がウィズニアス国へ嫁ぐことが既に決まっていた。対等な立場の同盟国であるということを示すための取り決めだ。第一王女であるオリヴィアは生まれた瞬間に、まだ生まれてもいない結婚相手が決まっていた。
しかしながら──。
その、まだ存在していない結婚相手は、オリヴィアが生まれて十八年近く経った今でも、まだ存在していなかったのである。
「……何て仰いましたか、お父様」
オリヴィアはこの日初めて、父親であるリガデア国王に言い直しを要求した。
私的な場ではないので、父親であれど国王に今のもう一回言って、などとお願いするのは礼儀知らずである。しかし国王は娘の心情を慮って要求どおりに繰り返した。
「ウィズニアス国にはエリオットが婿に行くことになった。オリヴィア、お前は国内で結婚相手を探すように」
オリヴィアは茫然とした。生まれてすぐ、言葉がわかるようになるよりも前から、ずっと言い含められていた人生最大の決定事項が覆されたのだ。そんなにあっさりと一言二言で済ませられても、脳の理解が追い付かない。もちろん言葉の意味はわかるのだが、国王が嘘を吐いているのではないかと疑うくらいには、処理しきれない内容だった。
「理由はわかるだろう。既に見込みは薄い上に、万が一王子が生まれようとも歳が開きすぎている。男女逆ならともかく、それでは都合が悪い」
多少同情しようとも、一国の主であるリガデア国王は娘に対して素っ気ないほどに淡々と告げた。
国王の背後に控えている宰相や数名の大臣、ウィズニアス国大使のほうが沈痛な眼差しを向けている。それに気づいたオリヴィアは、反射的に背筋を伸ばして無理やりにでも理解しようと努めた。しかし、彼らが具体的にオリヴィアの何に痛ましさを感じているのかはわからなかった。恐らく彼らもポーズとしてそんな表情をしているだけなのだろう。もうすぐ十八歳になる娘が、少なくとも十八歳以上年下の王子に嫁ぐ予定を反故されたからといって、嘆き悲しむとは思わないはずだ。
「かしこまりました。それではわたくしの次のお相手はまだ決まっていないのでしょうか」
次のという言い方もどうかとは思ったが、他にどう言えばいいのかわからずオリヴィアはそう聞いた。
「お前の好きに決めていい。国内の高位貴族ならばな」
「……え?」
オリヴィアは今度こそ言葉を失った。
「この婚姻に関しては長い間、お前に気苦労をかけた。よって、結婚相手はお前の好きに決めてもよい」
鷹揚な態度で国王は言う。しかし、それが父親としての親心だと感じられるほど、オリヴィアはこの目の前の人物に親しみを持ってはいなかった。
まさか決めあぐねて面倒になったから本人に丸投げしたのでは。そんな疑惑が浮上する。
だいたい好きに決めていいなどとは言っていたが、本当にオリヴィアの好きに決めていいわけがないのだ。相手のこともあるのは当然だが、王女の嫁ぎ先として相応しい相手でなくては、きっと国王は許しはしないだろう。
オリヴィアは大臣たちに視線を向けた。何人かがすっと目を逸らす。疑惑が確定された。
「寛大なお心遣い感謝いたします、陛下」
腹立たしさを隠しながら、オリヴィアは丁寧に腰を下げた。
頭の中では仕返しに父親のハゲが進行していることを親切ごかして教えてやりたい衝動と戦っていたが。
王女らしく粛々とした態度で執務会議室を退出した後は、さすがに顔が強張っていたらしい。扉の前に控えていた護衛騎士のハワードが心配そうな顔を向けてきた。
夜会に出れば必ず女性の視線を集める彼は、半年前からオリヴィアの護衛騎士になっている。おかげでオリヴィアにも余計な視線が集まることがあるが、彼は護衛騎士らしく、無駄口は一切聞かない。
オリヴィアも何も言わず自室へと戻る廊下を歩いた。
「疲れた……」
自室に帰ってきたオリヴィアが最初に言った言葉がそれであった。
オリヴィアはとにかく話を聞いてくれる人間を欲したので、侍女に乳母のグレースかマーシャのどちらでもいいからすぐに来てくれるように頼みに行ってもらった。
それからすぐに来客があると告げられる。彼女たちがすぐに捕まったのかと思ったが違った。やって来たのは弟のエリオットだった。
「ヴィアもさっき聞いた? やっぱこうなっちゃったねー。ハハッ」
ソファーに座るよりも前に、見た目通りの軽いノリでエリオットが言った。
「やっぱりって何よ」
「そりゃ、僕があっちに婿入りするってことだよ。あれ? まだ聞いてなかった?」
「聞いたけど、どうしてやっぱりなの?」
エリオットは驚いてソファーから身を乗り出した。
「だって、ここ数年は両国とも諦めモードだったじゃないか。向こうの王妃様が何度も妊娠はするからここまでずるずる来ちゃったけど、全員王女だったしさ。僕の婚約者も決められなかったし、これはもう、僕が行くことになるだろうなって、ほとんどの人が予想していたと思うよ。まだ決定はしていなかったっていうだけで。……もしかしてヴィア、考えたことも聞いたこともなかった?」
信じられないという顔を弟に向けられて、オリヴィアは動揺しながら自分の思考をたどった。
「……ないわ。だって、子供の頃からずっとウィズニアス国に嫁ぐんだって言い聞かせられていたのよ。他の未来なんて考えたこともないわよ」
「あー、刷り込みってやつ? そうだよなぁ、ヴィアってちゃんと聡明で優しいお姫様を演じているし、バカじゃないもんなぁ」
「言い方! エリオットこそ大丈夫なの? 面倒臭がりで甘ったれのくせに。つまりあなたが王配になるってことなんでしょう?」
オリヴィアは自分のことは脇に置いておいて、にわかにこの弟のことが心配になった。エリオットはやろうと思えばある程度のことはできるが、他にやってくれそうな人がいれば、全力でその人に寄り掛かるような人間だ。典型的な末っ子気質なのである。
「向こうだって他国の王族である僕が政治に深入りすることは望んでないと思うよ。期待されているのは外交だけだって。それさえちゃんとしていれば、年上の綺麗な女性が養ってくれるんだから、願ったり叶ったりだね」
「……そう。うちの信頼が落ちない程度にしてね」
オリヴィアは心配したことが馬鹿馬鹿しくなった。この弟は昔から要領がよく、年上キラーなのだ。妻の方が立場が強くとも、全く気にしないに違いない。
「あなたが行ったほうがうまく行くかもしれないわね」
「そうそう、だからヴィアは安心してこの国にいたらいいよ」
そこはそんなことはないと言うところではないのかと思うが、これがエリオットなりの気遣いであることは理解している。おかげで少し吹っ切れた。
「ふふ、そうね。じゃあちょっとした自由を満喫しようかしら……って違ったわ。結婚相手を探さないといけないのだったわ」
大きな問題が発生していることを思い出して、オリヴィアは顔に手を当てて項垂れた。
「へぇ、ヴィアが自分で探すの?」
「そうよ。好きに決めてよい、だなんて言われたわ」
そんな言われ方をしたら、逆に誰を選べばいいのか全くわからなくなる。オリヴィアはため息を吐いた。
「へぇえ。自分で選んでいいならハワードに頼んでみなよ。嫁にしてくださいってさ」
完全に面白がる顔でエリオットが部屋の隅に控えているハワードを指差して言った。
オリヴィアは思わず示される方を見て困った顔のハワードを認め、それから弟に視線を戻した。
「…………はぁあ?」
王女にあるまじき声が出てきた。
「えっ。ヴィアってハワードのこと好きじゃないの?」
「違うけれど。どうしてそんな話が出てくるのよ」
「だって侍女たちが噂していたよ。あんな格好いい人に側で護衛なんかされたら、いくら姫様でも恋に落ちてしまうって。間違いないってさ」
「……ただの予想じゃないの。落ちてないわよ。あと、エリオット。さっきのがもし事実だったらかなり酷いわよ。意中の人がいる令嬢の気持ちを当人にばらすようなこと、今までしていないでしょうね」
「してないって。さっきはヴィアが言い出しやすいように、わざと言ってあげただけだって」
信用ないなぁとエリオットは笑う。
彼の予想は大ハズレだ。オリヴィアの意中の人は別にいる。
しかし、エリオットのこの的外れな気遣いのおかげで、オリヴィアは全く意識していなかったことを、考えさせられることになった。