第一章
4.
後ろも見ずに駆け出した。聞こえるのは足が地面を蹴る音と心臓の音だけ。
ジェイド。もう一回会いたい。今行くから待っててくれ!
正面の小径を一心不乱に駆け出す。最初は緑だけだった道の両側には色とりどりの花を咲かせた茂みが現れた。いい香りがした。花のような、キャンディのような、とにかくそういう類のにおいだった。
あれ? このにおい。
間違いない。食べ物だ。
俺は、食い物にはめっぽう弱い。一瞬、ジェイドのことは頭の隅に追いやって足を止めた。
きょろきょろと見まわして気づいたのは、正面の茂みにたわわに実った赤い木の実。夕日に照らされたそれは真っ赤で、大きくてつやつやしていて、まるで宝石のよう……ラズベリーだ。
うまそう!
と思うと同時に、胸がぎゅっとつかまれたみたいに痛んだ。
一瞬、何かを思い出しそうになった。
その茂みからふと顔をあげる。家が建っていた。中世ヨーロッパみたいな豪邸。豪邸、といっても、うちの家の二倍くらいか。でもそれは古くて、屋根や壁の一部がはがれていて、それを覆い隠すように一面に枯れた植物のツルがおおっている。
そうだ、あのとき。
記憶のかけらが脳裏をかすめた。確かあの時もラズベリーが実っていた。一緒にいた友達がほおばった。そこにはジェイドがいて何か言っているのだけれど、友達は食べるのに夢中で気づかない。
ふらふらと茂みに近づいた。
友達……だれだっけ?
手をのばそうとして、はっとする。
いかんいかん。どんなに腹が減ってても、どんなにうまそうでも、これは人のもの。勝手に食べるとか、人としてどうよ。
全身にラズベリーの香りがねっとりとまとわりつく。
いくら木に生ってるものだからって、人のものは……。
思い出した。あの時と同じだった。吸い込まれるようにここまで来て、この実を食べようとした。そしたら、ジェイドが来て。
ジェイドが来て、どうしたんだっけ?
また、頭の中がもやに包まれる。
いや、違う。最初は、うちに来ないか、って……。……いや、そうじゃない。
記憶が混乱している。
息を吸ったら、匂いに包まれた。
うまそう……。
思わずぼおっとしてしまった。無意識に手が伸びる。
おっと、これはまずい。
触れかけて手を止める。けれど目の前の赤い粒が誘ってくる。目を閉じる。でも、息をして匂いをかいだらまた手が伸びそうになる。
こんなことするために、ここまで来たんじゃない。俺は、一体何をやってるんだ。
頭ではそんなことを考えているのに、手が勝手に動く。
一個だけ。一粒だけ……。
だから、ダメなんだって。
でも、ちょっとだけ。
気が付いたら震える指がラズベリーに触れていた。全身にビリっとした心地よい刺激が走った。一瞬記憶が飛んだ。と思ったら、気づいた時にはすでにその大粒のラズベリーを口にふくんでいた。噛んだとたん、粒がはじけた。香り高く甘酸っぱい汁が口の中いっぱいに広がった。
うま……。
頭がぼうっとしてきた。
めっちゃうまいんだけど……。
思考が消えた。ただ、目の前で輝く大粒のラズベリーを摘んで口に放りこむだけだ。まとめて十個ほど取って一気に口に放り込み、また別のを摘み、それを口に放りこんではまた先に進んだ。夢中で食べ進んだ。腹がふくれたら、今度は制服のポケットに詰めこんだ。
俺、なにやってんだ。
頭ではわかる。やめなきゃいけないとわかっているのに、止まらない。
と、その時だった。
かさっ、という音がした。
はっとして振り返る。
息をのんだ。