前世持ちが多い世界で、前世がない令嬢が「前世の縁」を理由に愛される話
私が王太子殿下に初めて会ったのは、十歳のときだった。
春に王宮のバラ園で開催される昼の茶会は、幼い令息令嬢も参加できた。私も内政大臣である父と母に連れられて、三つ年上の兄とともに参加した。兄はすでに何度も参加していて王族と面識があったし、殿下と同年のため学友としてしょっちゅう登城している。
王族一家に挨拶したとき、私を見た殿下は目を見開いて驚いていた。
何かおかしなところがあったかしら、と首を傾げる私に、さらに彼は息をのむ。
それからにっこりと笑った。
「はじめまして、パトリシア」
「はじめまして、殿下」
殿下は私の手を握った。
「あとでバラ園を案内するよ」
社交辞令だろう。父の宮殿での地位がそこそこ高いせいで、その子どもにまで気を使わないとならないなんて、王子様も大変なのね、と私は思う。
「お気遣いありがとうございます」
笑顔を返す私に殿下は一瞬黙り、何度か咳払いをした。むせたのだろうか、顔が赤くなっている。
「殿下、もしかして」
「ジョナス、君にも後で話がある」
殿下は何か言いかけた兄を制し、兄の視線はなぜか殿下と私を何度も往復した。
色とりどりのバラの木の間を縫うようにカーブを描いた小道が続く。分岐して合流して、行き止まりになって。バラの木は子どもには高くて視界もきかず、その一角は迷路のようだった。
噴水を囲む幾何学的な配置の広々した区画もあったのに、殿下は私たち兄妹をこちらに誘った。
社交辞令だと思っていたのに、殿下が私たちの元にやってきたときには驚いた。何人かいる学友の中でも兄が一番親しいのだろうか。
殿下に手をひかれてバラの迷路を進む。後ろからは兄がついてきていた。
「右の道は何色だと思う?」
「えっと、さっきは朱色だったから、今度は黄色でしょうか?」
「僕は濃桃だと思うな」
ほら、と角を曲がって殿下は笑う。
「もう! 殿下はご存じだったんでしょう? ずるいです」
本で読んだ探検のようで心が躍った。
ちょうど行き止まりにあったベンチに殿下と並んで座る。「兄様は?」と見上げると、兄は少し肩をすくめ、首を振ってベンチの横に立った。兄はなんだかずっと不機嫌だった。
小さな黄緑の花をたくさんつけた木の下。バラの香りが立ち込める。風に飛ばされてきたのか、赤い花びらが一枚足元に落ちていた。
「パトリシア」
殿下は私の手を取った。顔をあげた私の瞳を覗き込む。
「君は僕の前世で妻だった人だよ」
「え?」
この国では、三人に二人くらいの割合で前世を覚えている人がいる。
父も母も兄もそうだ。
でも、私は……。
「私は前世を覚えていません」
「ジョナスから聞いているよ」
「それなら……」
前世を思い出せない人は前世がないとされている。
私に前世がないのに、それが殿下の前世と関わるわけがない。
視線を揺らす私に、殿下はぎゅっと手に力を込めた。
「僕が間違っていると思っている?」
「あの……はい……」
「思い出せない君に僕が間違っているってわかるの?」
「それは……わかりませんけれど、でも思い出せないのは前世がないからで」
「思い出せないなら、前世がないかどうかもわからないだろう?」
「…………」
それ以上言い返せずに私は口ごもる。
「前世を覚えている僕が、君の前世を覚えているんだから、信じてくれないか」
殿下の宝石のような緑の瞳が私を見つめる。
「君は僕の前世の最愛だよ」
「殿下……」
「クリフォードだ」
「はい?」
「名前で呼んで? パトリシア」
「……ク、クリフォード様」
嬉しそうに微笑まれて、私の顔が赤く染まる。
「さっそく父上たちに話して婚約しよう」
「え?」
「当然だろう。僕たちは前世で夫婦だったんだから」
前世の人間関係は今世に影響を与えると言われている。前世で親しくしていた相手なら今世でも仲良くなれるし、前世で敵対していた者同士は今世でもそうなる可能性が高いため最初から避けて暮らしたりする。恋愛関係にあった場合は今世でも惹かれ合う。最初から前世の相手を探して交際を申し込むことも多い。前世で夫婦だったなら今世は身分違いでも問題にならないくらいだ。
前世持ちの友人たちは「前世の恋人にまた出会えますように」と夢見ていたけれど、前世がない私には縁がないことだと思っていた。
それが、王太子殿下?
展開についていけない私の手を握ったまま、殿下はベンチを降りて私の前に膝をついた。それだけでも驚くのに、殿下はそっと私の手に顔を寄せた。
「君は今世でも僕の最愛だよ」
自分の手の甲に口づけられるのを、私は呆然と見つめた。
「僕とバラ園を巡るのは楽しかった?」
「はい……」
「僕のことは嫌い?」
「いいえ」
「じゃあ、結婚してくれるよね?」
有無を言わせない綺麗な笑顔に私はくらりと目を回す。
「えと、あの……」
「パトリシア、今決めなくていい」
なんて言えばいいのかわからなくて困っていた私に兄から助け船があった。
殿下から舌打ちが聞こえたのは気のせいだろうか。
「殿下。パトリシアも困っているので、まずは交際からにしてください」
「婚約してから交際すればいいだろ」
「あなたは王太子なんですから、陛下にもご相談しないとなりません。殿下の場合は、前世うんぬんでは押し通せないですよね?」
王太子はさすがに前世で夫婦であっても誰でも許されるわけではないのだろう。
兄の言葉に殿下は「そういえばジョナスにだけは話していたんだった……」とつぶやく。
「ああ、仕方ないな。交際から、ね。わかったよ、ジョナス」
殿下は軽くため息をつくと、私に向き直った。
「パトリシア、僕と交際しよう」
「交際って何をするんですか?」
「今日みたいに庭を散歩したり、お茶会をしたり。まず最初はそのくらいかな」
いずれはいろいろね、と殿下は付け加え、兄が咳払いをした。
「お友だちになるということですか?」
「まあ、そうだね。それならいい?」
「はい。わかりました」
私がうなずくと、殿下はにっこりと笑った。彼が喜んでくれたことに、私もうれしくなる。
「ありがとう」
「いえ、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしく」
殿下はもう一度私の手に唇を落とした。そしてそのまま私を上目遣いに見る。
「言っておくけれど、結婚を前提としたお友だちだからね」
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――それから三年。
殿下との交際は楽しかった。
定期的に王城を訪れ、殿下と過ごした。お茶を飲みながらいろいろな話をして、庭を散歩したり温室で珍しい植物を見せてもらったり。兄たち学友との剣の稽古を見学したり、図書室で一緒に本を読んだり。国王陛下や王妃陛下とお茶を飲むこともあった。両陛下とも気さくに私と話してくださった。
少し前からは「勉強しておいて損にはならないから」と外国語や政治学の教師をつけられ、授業のためにも王城に通っている。
今日も、授業のあと、私は殿下の居間でお茶を飲んでいた。
「クリフォード様の前世はどういう人なのですか?」
私がそう尋ねると、お茶を飲んでいた殿下はごほごほと咳き込んだ。
「聞いてはいけないことでしたか?」
「いや、大丈夫だよ。今まで聞かれたことがなかったから、ちょっと驚いただけ」
自分が思い出せないから、私はあまり人に前世のことを尋ねることはなかった。
交際を重ねて今の殿下を知って、前世の殿下のことも知りたいと思ったのだ。
「クリフォード様のこと、もっと教えていただきたいと思ったのです」
素直に伝えると、殿下は目を細めた。
「うれしいことを言ってくれる」
前世は人によっていろいろで、近い人だと三世代くらい前に生きていた人だったり、遠い人だと別の国、別の文明、別の世界という人もいる。そういう人の中には前世の知識を生かして技術革新を起こしたり、医療を発展させたり、商売や国政で力を発揮したり、なんてこともある。
「僕の前世は農民だったよ」
「え? そうなんですか?」
私は目を丸くする。
王太子殿下の前世なのだから、同じように特別な立場の人なのかと思っていた。
「大出世ってわけだ」
殿下は笑って続ける。
「五百年くらい前かな。もっと気温が高い国で、芋を育てていた」
「まあ!」
「パトリシア、君もだよ?」
わかってる? と殿下は私の頬をつつく。
最近よく殿下は私に触れる。
交際当初は向かい合わせだった椅子は段々と近づいて、今は同じソファに並んでお茶をしている。
「クリフォード様、くすぐったいです」
それは優しく触られたところだけではなく、胸の奥の方もだ。
ふわふわして、温かい気持ち。
私はくすくす笑って殿下の手から逃れると、殿下の耳を軽くひっぱる。
「仕返しです」
手を離すと、殿下は口元を押さえて震えている。
私は慌てた。
「そんなに痛かったですか?」
「大丈夫、痛くないから」
「でも、赤くなってます!」
真っ赤になった耳を撫でようと手を伸ばしたら、殿下に掴まれた。
体を引き寄せられて、ぎゅっと胸に抱きしめられる。
「クリフォード様?」
「パトリシア、君は僕をどうしたいの?」
「え?」
凶悪だ、と頭の上で聞こえた。髪に吐息がかかる。
「僕からの仕返しは、婚約、いや結婚したら、思う存分してあげる」
「ええっ?」
「覚悟していて」
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――それからさらに三年。
私の社交界デビューと同時に、私と殿下は婚約することになった。
前世のことは思い出せないままだったけれど、私は今の殿下が好きになっていた。
殿下が前世の縁で私を選んでくれているから思い出せないのは心苦しいけれど、私には殿下の求婚を断る理由はもうなかった。
デビューと婚約発表を三日後に控えた日。私はとある侯爵令嬢主催の茶会に招待された。
「今日のお茶会、イースト公爵家のジャクリーン様のためのものらしいわ」
行きの馬車で同じく招待された従姉のハリエットが教えてくれた。
「お会いしたことはないわよね?」
王城のバラ園の茶会などで、主要な上位貴族の令息令嬢は面識があるけれど、イースト公爵家の令嬢の記憶はない。
「ジャクリーン様は病弱で、ずっと領地のお屋敷で静養されてたんですって」
「まあ、それで」
「パトリシアと同じ夜会でデビューされるみたいよ」
デビュー前に同年代の令嬢と交友を持ちたいということだろう。
実際は公爵家から頼まれたのかもしれないけれど、ジャクリーンに招待主の侯爵令嬢が友人を紹介するという体裁の茶会だ。
綺麗に刈り込まれたトピアリーが整然と並ぶ庭園を望むテラスには、伯爵家以上の令嬢が十人ほど招待されていた。パトリシアとハリエットの友人も何人かいる。
ジャクリーンは確かに病弱らしく、線の細い少女だった。白い肌に白金の髪も相まって、日の光に溶けて消えそうな儚さがある。
自己紹介しながら穏やかに歓談する。
令嬢の一人が前世の夫だった人を見つけて婚約したと話すと、ジャクリーンが声を上げた。
「わたくしも、前世の夫がわかっているのです」
「まあ素敵!」
「うらやましいわ」
「それで、お相手はどなたですの?」
ジャクリーンはゆっくりとテーブルを見回し、私の顔で目を止めた。
「王太子殿下ですわ」
皆が息をのんだ。
「えっ!」
「でも、王太子殿下は」
視線が私に集まる。
交際が始まってから六年。王家も私の侯爵家も反対していない交際だ。貴族どころか国民にも知られていた。正式な婚約はまだだったけれど、どこに行っても私は殿下の婚約者のように扱われていた。
「殿下は、前世の妻はパトリシアだとおっしゃっていますわよ」
驚きに固まる私の手を握って、ハリエットが横から反論してくれた。
「でも、パトリシア様は前世を覚えてらっしゃらないんでしょう?」
何人かの令嬢がうなずく。隠すことでもないため、私はいつも正直に話していた。
「殿下はきっとお間違いになっていらっしゃるんですわ」
ジャクリーンはうっとりと微笑んだ。
「わたくしを見たら思い出してくださるはず」
あとのことはあまりよく覚えていない。茶会が終わったのか、ハリエットが中座させてくれたのか、気づいたら自室にいた。
「お嬢様? 起きてらっしゃいますか?」
ベッドの天蓋の外から声をかけられて、私はのろのろと起き上がった。
「王太子殿下がお忍びでいらっしゃっています」
「クリフォード様が……?」
ぼんやりとしていた頭が一気に事態を認識する。
「だめ。帰っていただいて!」
「よろしいのですか? お忍びでいらっしゃるなんて初めてのことですよ」
侍女の声に戸惑いが滲む。
「今日はお会いしたくないの。そう、あの、体調が良くないから」
お願い。
小声で付け足すと涙があふれた。
「お嬢様、あとで温かいものをお持ちしますね」
私が泣いていることに気づいたのか、侍女は気遣って退出した。
――会いたくないと断った私に、殿下は手紙を書いてくれた。
ホットミルクと一緒に侍女が持ってきたそれを読む。
追い返したことを怒っている様子はなく、私の体調を心配する言葉で始まる。
『イースト公爵令嬢のことは、ジョナス経由でスプリング伯爵令嬢から聞いた』
スプリング伯爵令嬢はハリエットのことだ。
『僕はイースト公爵令嬢には会ったことがない。だから間違っているのは彼女の方だと思う』
『僕とパトリシアはもう何度も会っている。六年間交際していたんだ。――君が好きなもの、好きなこと。君の声、表情。僕はたくさん知っているよ。君だってそうだろう?』
『前世のことは会ってきちんと話をしたい。とにかくイースト公爵令嬢は僕の前世とは全く関係がない』
『君は心配しないで。夜会で待っている』
うれしいのか悲しいのかよくわからない涙がこぼれる。
手紙の最後。流れるような署名のあとに、こう付け足されていた。
『もし夜会に来なかったら、寝室まで押しかけてでも迎えに行くからね』
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兄にエスコートされて王城の大広間に入る。
読み上げられた名前に多くの人が振り向いた。王太子と婚約発表することになっている令嬢としてなのか、ジャクリーンのことまで知った上での興味なのか、わからない。
しばらくのあと、ジャクリーンが入場した。私はびくりと肩を揺らし、兄の陰からそっと確認する。淡い桃色のドレスは儚げな彼女の魅力を引き立てていた。
さらに少し経ち、王族が入場した。
壇上の椅子に両陛下と王太子殿下が座る。陛下のお言葉をいただいて、夜会が始まった。
序列から考えると、私たち侯爵家より先にジャクリーンのイースト公爵家が王族に挨拶する。
――ジャクリーンと殿下が会う。
「パトリシア」
「ええ、大丈夫よ」
兄は心配そうに何か言いかけ、思い直したように笑顔に変えた。
「殿下は私があとで殴っておくからな」
「え、どうして?」
婚約解消――婚約はしていないのだけれど――になるから? と聞くと、兄は首を振った。
「それは殿下が許さないだろう」
兄はため息を吐いた。
「最初から全部、殿下が悪いんだ」
「え?」
首を傾げる私の背中を兄はそっと押した。
「それも含めて、殿下が話してくださる」
促されて前を向くと、殿下が立っていた。
「クリフォード様」
ちらりと壇上に目を向けると、それに気づいた彼は苦笑した。
「先に婚約発表をしたいって陛下にお願いしたんだ」
紺色を基調にした上品で、しかし豪華な衣装は彼によく似合っていた。緑色の瞳が私を見つめて細められる。
彼が何か言おうとしたとき、
「王太子殿下!」
横から声がかけられた。儚げな見た目に似合わずよく通る声はジャクリーンのものだ。
駆け込んできた彼女が殿下の視界に入る。
私は「ああ」と嘆息した。
「わたくしの前世は殿下の妻でございました。どうか、今世でも妻にしていただけませんか?」
「君は?」
殿下は硬い声で短く尋ねる。
ジャクリーンの後ろから彼女の父親らしき男性が現れた。
「殿下、娘がご無礼を。長女のジャクリーンと申します」
「イースト公爵」
「前世の最愛に出会えた娘を止められる親がおりましょうか」
「私の最愛は、サウザンド侯爵令嬢パトリシアだ」
殿下は私の手を引いて、抱き寄せた。
「しかしパトリシア嬢は前世を覚えていないそうではないですか。それなら前世はないのでは? 前世がない者が殿下の前世の最愛のはずがない」
息を詰めて体をこわばらせる私を殿下はぎゅっと抱きしめた。
「私の娘ジャクリーンは前世を覚えておりますよ。その娘が殿下を前世の最愛だと言うのです。一考に値しませんか?」
それは私を前世の妻だと言ったときの殿下のセリフに似ていた。
「殿下、どうか私との前世を思い出してください!」
ジャクリーンが殿下の腕にすがりつく。
寸前で、殿下はそれを避けた。
「パトリシア様は前世を覚えてらっしゃいません。殿下はお間違いになったのですわ」
ジャクリーンの声が響く。
私はもういたたまれなかった。
「クリフォード様、もう……私……」
腕の中から逃れようと体をよじる。
「パトリシア。待ってくれ」
「でも、私は前世を思い出せないのです」
「そうですわ! パトリシア様に前世はないのです」
ジャクリーンが絶妙な合いの手を入れる。
「私……このままクリフォード様と婚約なんて……」
「パトリシア!」
殿下の大声が響いた。
「僕にも前世がない! 君に話したのは全部嘘だ!」
大広間全体が静まった。
「はい? 嘘?」
「一目ぼれだったんだ」
「ひとめ……ぼれ? どなたに?」
「君にだよ! 他に誰がいるの?」
殿下は私をさらに抱き寄せた。
「子どもだった僕は何て言って口説いたらいいのかわからなかったんだ」
ぷっと噴き出す声が聞こえたけれど、背後の兄ではないだろうか。
「前世の最愛だと言えば納得してくれるかと思って嘘を吐いた。君には前世がないとジョナスから聞いて知っていた。僕も前世がない。だったら、嘘をついても困ることはないだろうと思ったんだ」
「……はい……」
「僕に前世がないのは、両陛下もご存じだ。ジョナスも知っている」
だから兄は、私が殿下から聞いた前世の話をするたびに、複雑な表情を浮かべたのか。
「僕の最愛はパトリシアだ。君は?」
「私の最愛はクリフォード様です」
「それなら何の問題もないね?」
「……え、と……」
「ないよね?」
「はい」
殿下は私を離して、ひざまずくと手を取った。
「パトリシア嬢、私と結婚していただけますか?」
「はい。私でよろしければ」
殿下はにっこりと笑って、六年前のバラ園のときのように、私の手に口づけた。
その瞬間、会場に響き渡ったのは拍手ではなく、何かが倒れる音だった。
とっさに殿下は立ち上がり私を抱き寄せる。兄がその前に出た。
何事かと皆が見つめた先にいたのは、ウェスト公爵だ。どうやら遅れて入場したところらしい。
注目を集めて眉をひそめるウェスト公爵の後ろから、倒した小卓に構いもせずにふらふらと前に出てきた青年がいた。私も何度か会ったことがある、ウェスト公爵令息だ。
彼は「君は前世の!」と叫んだ。「あなたは前世の!」と叫んで彼に駆け寄ったのは、ジャクリーンだった。
ひしっと抱き合ってから、ジャクリーンは自身の父親を振り返った。
「お父様、やっぱり嘘はよくありませんわ。わたくし、全然病弱じゃありませんし、殿下の前世の妻でもありません」
呆然と立ち尽くすイースト公爵に嫣然と笑うジャクリーン。
「本当の前世の最愛が見つかりましたので、皆様、失礼いたしますわね」
ごきげんよう、とウェスト公爵令息とともに会場を出て行ってしまう。
「お、おい! ポール!」
彼らのあとを追いかけたのは、ウェスト公爵だった。
イースト公爵とウェスト公爵は、前世で敵同士だった縁で今世は交流を絶っていた。病弱でないならなぜ領地に籠っていたのかはわからないけれど、イースト公爵令嬢ジャクリーンが今までウェスト公爵令息ポールと会ったことがなくても不思議ではない。
「あー、イースト公爵?」
殿下が声をかけると、公爵はぼんやりと振り返った。
「前世がないのは私の弱みではないから、ああいうことを令嬢にさせても意味はなかったのだ」
「……ああ……」
返事とも言えない呻きを上げる公爵の両腕を兄が叩いた。
「イースト公爵閣下! 令嬢を追いかけなくて良いのですか?」
はっと目に光を戻した公爵は、殿下と壇上の両陛下に一礼して踵を返した。
「ジャクリーン様とポール様、お幸せになっていただきたいですね」
微笑んで殿下を見上げる私。
「君は何か大事なことを忘れていないかな?」
殿下は楽しそうに笑って、私の額に口づけたのだった。
終わり