06
「奥様、旦那様がご帰宅されました。如何致しましょう?」
私の侯爵家の頃からの専属侍女プリメラが、神妙な顔で聞いてきた。
読んでいた本を閉じ、テーブルに置く。
いくら自分の夫であろうと、最近の夫婦の距離感は遠い。
何の知らせもせずに寝室を訪問するのは、もしかしたら不躾かもしれないわね・・・。
プリメラは「奥様が深夜になりますがお会いしたいと申しております。」と先にお伺いを立てた方がいいのか聞いているのだろう。
この一ヶ月程のアンドレ様は、私の事を避けに避けて来たと思われるし、先に伝えて「明日にしてくれ。」と言われても困る。
明日は屋敷から出て行くつもりだから。
寂寥を覚え、沈みがちになる気分を振り切るようにプリメラに声をかけた。
「何も伝えなくて大丈夫。直接行くことにするわ。明日はもうここにはいないし、王家に囲われてしまえばお会いすることも難しくなるわ。最後くらいアンドレ様と誰に聞かれることなくお話したいの。」
私がこの屋敷を出て、その後離縁が成立し、噂の浮気相手と婚姻を結べば、ここで隠し立てした所で「浮気が本気になり邪魔な奥方を追い出したのだろう。」と、事実はどうあれ噂になるのは間違いないだろうけど。
正妻が子供を産み、その後に愛人を持つ話なら珍しくもないので噂にもなりづらい。
今回アンドレ様の噂がプリメラの耳に入るまで広まったのは、婚姻から七ヶ月しか経ってない上に、勿論子もいない。妻が妊娠しているという話もない。
極めつけは婚約候補の令嬢だった女なのだ。醜聞と言っていい程だろう。
政略結婚とはいえ正妻は正妻だ。奥方の矜持を保ち愛人を囲うのが基本。
夫婦共に愛人を囲っていたとしても、同じ家名を守る同士としての関係は大切にする。
愛し愛される関係ではないが、尊敬し尊重される存在になる。
――――私はそれが無理だった。絶対に。
愛する人は一人だし、心の底から愛すからには愛されたい。
尊敬し尊重される存在になるのは、相愛する夫婦の当然の結果でありたい。
男女の愛は別の女に与え、伴侶としての尊敬は妻に。
そんな風に気持ちを分けられる男と添い遂げたいとは思えなかった。
だから、浮気は絶対に許さない。と条件を付けたのだ。
プリメラが夜着の上に羽織るガウンを持ち、着せてくれる。
腰まである長い艶やかな黒髪をサイドに緩く編み込んで邪魔にならないように片側に流してくれた。
「有難うプリメラ、行ってくるわね。貴方は先に休んでいても大丈夫よ。」
微笑みながらイルヴァが話すと、
「いえ、私は奥様がお戻りになるまで、お待ちしております。きっと心配で寝れませんから。」
真剣な眼差しでそう返した。
過保護ね・・・と微笑み頷くと、夫婦の寝室を出る。
プリメラを伴いながら、夫婦の寝室を出てから真っ直ぐ進む角部屋が、旦那様の私室だ。
扉前に立つと、喉が干上がる様に乾いた。
――――最後だわ、本当の。
プリメラがノックをする。
部屋の中から応答の声が聞こえた。アンドレ様の低くめな懐かしい声。
ドクンと大きく重く胸が鼓動する。
「旦那様、奥様が大切なお話があるそうです。入室の許可を頂けますか?」
少し間があった後「入れ。」と、聞こえた。
「では奥様、私は一度下がります。気をしっかりお持ちになって、言いたいこと全てを我慢せずぶつけてくるんですよ?」
心配そうに小声でプリメラが伝えてくる。
「ええ、最後ですものね。また後で・・プリメラ。」
「はい、お待ちしておりますから。」
扉を開けて、アンドレ様の私室に入った。
誰に見られても嫌なので、すぐに扉を閉め、背筋を真っ直ぐに伸ばすと、アンドレ様と対峙する。
「イルヴァ・・・・?」
問いかけたアンドレ様の声、表情に一瞬過ぎったのは罪悪感か。
最後に会ったのは1ヶ月程前、それから会いたくもなかなか会えなかった。
避けられてるとは思いたくなかったが、恐らく気まずかったのかもしれない。
浮気をしないと誓った妻に一年ともたずに浮気した自分の罪悪感を感じてしまうものね。
私が取り乱しさえしなければ、大事にはならないはず。
淡々と事実と要望を伝え、この部屋を去ろう。
きゅっと唇を噛み締めて、イルヴァは切り出す事にした。