第四章 両国広小路①
将棋家及び名人の歴史は、「将棋の上手」であった初代大橋宗桂が、慶長十七年に徳川家康より俸禄を与えられたことによって始まる。
即ち、それまでは市井の遊技に過ぎなかった将棋が、幕府公認の技芸として認められたことを意味している。
初代宗桂の後を長男の宗古が継ぎ、まずはこの系譜に連なる家系が大橋本家となった。
宗古の異母弟である宗与の興したのが大橋分家、宗古の娘婿である初代伊藤宗看の興したのが伊藤家で、この三家の中で最強の者が、将棋の家元として名人の称号を名乗るのである。
将棋家は寺社奉行の管轄下に置かれ、その家人は、御用町人として名字帯刀を許されていた。
厳密にいうと、将棋家は幕府の公式な機関ではなかったが、その権威は幕府により直々に認められたものであり、将棋家の敗北は即ち徳川幕府の権威に対する辱めと受け取られかねない。
だから代々の名人達は、その矜持と権威のために、必死に将棋の修練に励んだのである。
ちなみに、七郎の幼名を政福とする説があるが、これは諱の誤りであろう。
将棋家の人々は、諱とは別に、宗看・看寿というような号を用いて棋士としての活動をしていた。
将棋家には幕府により拝領屋敷も与えられており、伊藤家は麻布は日ヶ窪に本屋敷を構えていたのだが、菩提寺は本所にある本法寺で、代々の伊藤家当主は墓参のために本所へ足を運ぶことがあった。
それが縁で本法寺周辺には門人が増え、請われて本所に将棋道場を構えることになったようである。
門人には様々な身分の者がいて、中でも商人の数が一番多かったとされている。
道場の普請は、商人をはじめとした門人たちの寄付によるものと思われる。
更に将棋家は、通人・粋人とも繋がりがあって、紀伊国屋文左衛門の取り巻きであった宝井其角もその中の一人であった。
其角は俳諧を論じる時、常日頃から、「器用さと稽古と好きと三つのうち、好きこそものの上手なりけれ」と口にしていたとされているが、それは四世名人・五代宗桂が、この狂歌を度々誦じていた影響だという。
残念ながら、それ以外の記録は残されていないが、他にも深い縁があったのだろう
。二人とも没後、芝二本榎にある上行寺に埋葬された。
そんな其角を通じて、紀文も将棋家とは旧知の仲だったようである。
現在上行寺は、神奈川県伊勢原市に移転したが、今でも其角と大橋家代々の墓をそこに見ることが出来る。
*
兵助と清三郎が、回向院の門前を何やら風呂敷に包んだ荷物を抱えて足早に歩いている。
享保十四年の七月。まだ四ツ刻だが、既に日差しがじりじりと照りつけて二人は玉の汗をかいている。二人の目的地は、両国橋東広小路であった。
両国橋は回向院への参拝客のために架けられた橋で、武蔵国と下総国の国境にあったことから両国橋と呼ばれた。
元々両国橋東西にある広小路は、火事の延焼から橋を守るために設けられた火除け地で、常設の建物の建造は許されていなかった。
だが有り余る土地と人の往来があれば、そこで商売をして一山当てようとする者が出てくるのが世の常であり、両国橋広小路には、水茶屋・屋台などの飲食店のほかに、浄瑠璃・軽業・大道芸などの見せ物小屋も乱立し、江戸随一の繁華街となっていた。
この日も回向院へ向かう参拝客が、大勢両国橋を渡って来る。
兵助と清三郎も、ある企みがあってこの広小路までやって来た。
二人はとある水茶屋の店主と言葉を交わしたかと思うと、その茶屋の店先に出ていた床几を一つ拝借して、そこに風呂敷から取り出した将棋盤を置いた。
「さあさ、お立ち会い。御用とお急ぎでない方はゆっくりと見ておいで。今からこの小童が、俄かに詰物を作るよ。解けるもんなら解いておくれ。どうだい兄さん、やってみねえかい?」
清三郎が調子よく口上を並べると、水茶屋で休んでいた客が、何事かと将棋盤の周りへと集まってきた。
それに釣られて、往来を行く人々も、チラホラと足を止めだす。
その中の一人へ、清三郎は薄汚い小袋を差し出した。
「ここに駒が入っているから、めくらで握っておくれ」
どうやら客に、握り詰を解かせようという趣向のようである。
握り詰とは、駒箱や駒袋から適当な駒を選び、選んだ駒で、盤面と攻め方の持ち駒を構成して作る詰将棋のことをいう。
無作為に選ばれる駒を元に即興で作るのだから、相当な棋力と感性が必要となる。
それを兵助がやろうというのだから、珍しいものが大好きな江戸の人々が、関心を示すのも当然であった。
一人の男が袋の中に手を突っ込んで、中で握り拳を作る。
それを袋から出して掌を広げて見せると、そこには数枚の駒が握られている。
「さあ今からこの駒を使ってこの小僧が詰物を作って見せよう。さあお立ち会い!」
「そんなすぐにはできねえだろ」
「何か仕掛けがあるに違いねえや」
観衆からは疑いの眼差しが向けられている。
兵助はそんな客たちを無視して、ちょっと思案したかと思うと、すらすらと駒を並べ始めた。
「さあできたようだよ。こいつを解けるお人はいねえかい?」
清三郎が号令をかけると、客たちは一斉に考え始めた。わずか数枚の駒にも関わらず予想外に難解で、中には「詰まないんじゃないか」などと言いがかりを付ける者もいる。
「ここをこうしたら詰みだろ」
一人の男が駒を動かした。
「じゃあおれはこっちに逃げるよ」
兵助の玉はスルスルと逃げて捕まらない。
「ならこうならどうだ」
別の男が横から手を出した。
「じゃあ今度はこっちに逃げちまおう」
簡単なようでもやっぱり捕まらない。
「さあさあ誰も解けないのかい?だらしがないねえ」
清三郎が客を煽る。
大正時代に流行していた珍商売に、大道詰将棋というものがあった。
道端や縁日などで詰将棋を出題し、一回いくらかの料金で客にそれを解かせ、解ければ金品を賞品として与えるという、言ってみれば賭博の一種である。
大道詰将棋には、簡単に詰むように見えて、実は意外な受けがあってなかなか詰まないという特徴があった。
解けなくて熱くなった客から賭け金をせしめようという悪どい商売である。
兵助の作った詰物にも、大道詰将棋的な要素は含まれているが、何も客から金を巻き上げようということではない。
「じゃあこうしてこうしてこうすりゃほら詰みよ」
解く者が現れると、清三郎はここぞとばかりに大げさに、
「お見事!お兄さんさすがだねえ。大層お強いお方だ。それにひきかえ他の人たちゃだらしがねえなあ」
観衆からわっと笑いが起きて、解いた男は満足げな表情をして兵助たちにいくらかの投げ銭をくれた。
解けなかった客の中にも、一本取られたと苦笑しながら投げ銭を寄越す者がいる。
この町の人々には、珍しいものや感動を与えてくれたものに銭を払うという、そういう遊び心や余裕があった。
だからこそ、この両国広小路にはたくさんの大道芸人や見せ物小屋が並んでいたのである。
そしてこの握り詰の商売を考えついたのは、言うまでもなく清三郎である。
「いい商売思いついたろ兵助よ。しかしおめえ、印将棋はしねえなんて偉そうなことを言っておきながら、ちゃっかり将棋で銭儲けてるじゃねえか」
「これは賭けじゃなくて商いだからいいんだよ。おれの芸で銭を稼いで何が悪いのさ」
「屁理屈言いやがって。だがその芸のお陰で俺もおこぼれに与れるんだから、おめえに感謝しなくちゃならねえな」
二人は時間ができると、度々両国広小路に立った。客からの評判も上々で、兵助たちの周りにはいつも人だかりが絶えない。
中には池袋や目黒ほどの田舎から、兵助たちの噂を聞きつけて見物に来る者もいたくらいである。
看寿の幼名は調べてもわかりませんでしたので、七郎というのは創作です。
将棋家が僧のような見た目をしていたと勘違いされている文献が見られますが、それを証明する史料はなく、能などほかの御用達町人と変わらないと考えられます。
最後の一文は、今では都会の池袋やおしゃれな街の目黒が、当時は江戸市外の田舎だったという皮肉です笑