第三章 袴と扇子③
「お願いします」
両者深々と頭を下げた。
上手である七郎が、まず初手を指した。
舞を踊るような、しなやかな手つきであった。
兵助のほうは、気合を込めて荒々しい手つきで、二手目を指した。
兵助は序盤から慎重に駒組を進めていた。
七郎はおそらく、角落ち定跡について熟知をしており、序盤から形勢を悪くすることはないであろう。
兵助は、自分が角を落とすことはあっても、相手の角落ちで指すのはほとんど初めての経験と言っていい。
定跡なども知らぬから、自分の頭で考えながら指す必要がある。
まだ序盤のうち、何故だか兵助は、早くも心理的に追い込まれた気持ちになっていた。
相手の角落ちだから、悪手さえ指さなければ兵助のほうが形勢は良い筈である。
だが、自分が良い手だと思って指しても、七郎は何事もなかったかのように正確な手を返してくる。
大きな失策はしていないはずなのに、一手指すごとに、徐々にその差は詰まって来るような気がしてならない。
中盤に入って、兵助の角一枚分の優位は既になくなっていた。
兵助は攻めの陣形を整えて猛攻をしかけるが、七郎は柔軟な指し回しを見せ、兵助の手をいなしながら反撃に出てくる。
兵助の攻め筋は全て七郎に見切られているようで、逆に七郎は細かい技を駆使して、真綿で首を絞めるように、兵助を追い詰めていく。
この繊細で懐の深い指し回しは、これまで対戦した相手には決してみられなかった戦い方であった。
終盤の入口辺り。苦しい時間が続いて、兵助は満面に朱を注いで考え込んでいるが、局面を打開するような妙手が見つからずにいた。
もはやこれまでかと思って顔を上げると、七郎と不意に眼が合った。
七郎は素知らぬ風で眼を逸らしたが、どうやら兵助の考えている姿を凝視していたようだ。
七郎の視線が何を意味するか、兵助には分からないが、今はそれを詮索している余裕はない。
直ぐに盤面へと顔を戻し、改めて読みを再開したが、心のどこかに引っかかりを覚えた。
七郎は、扇子で顔を煽いで平静を装ってはいたが、実は心の中は乱れていた。
兵助の将棋を、驚きを以て見つめていたのである。
正直に言うと、対局前までは、兵助の将棋など町人の素人芸だろうと思って軽視していた。
だが実際に指してみると、誰に教えを乞うたかは知らないが、実に筋が好く、これまでに指した誰よりも、才能を感じさせるものだった。
七郎は幼少の頃から、毎日血の滲むような努力をして将棋の腕を磨いてきた。
だから誰にも負けないという自負があるし、負けられない理由がある。
七郎には、兵助がどのようにして将棋の腕を磨いてきたかは分からないが、兵助と盤を挟んでいると、きっと将棋が大好きで、毎日楽しみながら力を付けてきたのであろうことが想像できた。
それを想うと、自分のためにも、なおさら絶対に負けられないという気持ちが湧き上がる。
最終盤、兵助はとうとう寄せに出た。
持ち前の終盤力で、七郎玉に詰めろをかけていく。
このまま詰めろが続けば、いずれ兵助の勝利となる。
七郎からも、これまでの冷静な表情は消え失せ、鬼気迫る顔となって兵助の攻めを凌いでいる。
だが今までに、兵助の寄せから逃れたものはいない。
兵助は自信を持って攻めに出た。
併し、七郎の終盤の斬れ味は兵助を超えていた。
七郎の受けは見事で、兵助の詰めろを悉く消していく。
とうとう兵助の詰めろは続かなくなり、一旦攻めるのをやめて手を戻した。
その瞬間、待ってましたとばかりに七郎が寄せに出る。
その速さと正確さは、兵助をもってしても圧倒的と言わざるを得なかった。
気がつくともう、兵助玉には受けがなかった。
「負けました」
兵助は駒を投じた。
頭を下げたこの瞬間でも、兵助は自分が負けたことがまだ信じられなかった。
角落ちという不利な状況における序中盤の正確な指し回し。
そして終盤の斬れ味の鋭さ。
今までのどんな相手も比べ物にならぬほどの強さであった。
そして、その様な将棋を指しているのは、自分と同年代の少年である。
兵助がこれまで持ってきた将棋に対する自尊心は、一瞬にして脆くも崩れ去った。
兵助は、悔しくて悔しくて、奥歯を噛みしめてじっと下を向いていた。
すると七郎は、フーッと大きく溜息をついて、
「私は、どうしても負けるわけにはいかないんです…」
一言漏らした。
それは兵助に向かって発せられた言葉とも思えず、空しく室内に霧散した。
そこには勝った喜びなどは少しも見られなかった。
兵助は、紀文の言っていた、悲愴な覚悟というものの一端を見たような思いがした。
だがそんな七郎の態度は、逆に兵助の心を傷つけた。
七郎の将棋は、兵助を相手にしているのではなく、まるで他のもっと巨大なものに立ち向かうために指しているような、そんな気がしたからだ。
今の兵助には、七郎が何のために将棋を指しているのかは分からない。
それぞれ将棋を指す理由というものがあるのだと思う。
ただ、七郎と自分の違いが、対局を通してはっきりと自覚できた。
兵助は近頃、将棋に対して真摯に向き合っていなかった。
慢心していたのだ。
確かに、周囲には兵助に勝てる将棋指しはいなかった。
だがそれも狭い世界での出来事に過ぎず、江戸には七郎のように、恐ろしく強い将棋指しがまだまだいる。
七郎は強く、そして将棋に対して真摯である。
それは七郎の指す将棋からすぐ分かる。
日々研鑽を重ね、血の滲むような努力をしている姿が想像できる。
果たして兵助は、そのように将棋に対して向き合ったことがこれまであっただろうか。
「ありがとうございました」
兵助は自然と言葉を発していた。
色々なことに気づかせてくれた七郎に対して、どうしてもお礼を言いたい気持ちが芽生えたからだ。
併し、このお礼に対する七郎の答えは更に意外なものであった。
「私は、君の将棋が羨ましい———」
その表情は、どことなく憂いを帯びている。
兵助が真意を測りかねて黙っていると、七郎は元の笑顔に戻って、
「こちらこそありがとう。私も君のような強い棋士と戦えて嬉しかったよ。何かお礼になるものをあげたいんだけど…そうだこの扇子をあげよう。きっと勝負のお守りになるよ。兄から貰ったものだけど、私には要らないんだ。いつか自分で誂えるつもりだけど、今はまだ無理だから…」
七郎は対局中も、時折扇子を広げて顔を煽いでいた。
その愛用している扇子を、兵助にくれるという。
兵助は遠慮したが、七郎は、
「私は君の将棋を素晴らしいと思った。だからその証として、この扇子を渡したいんだ。どうか受け取ってほしい。そしてまたいつか指しに来てほしい」
兵助は、七郎が自分のことをそこまで評価してくれているのが意外だった。
七郎が兵助に寄せる親愛の情は、一体どこから来るのか、兵助にはまだ分からない。
でもそれは駆け引きなどでは決してなく、将棋で戦った者同士にしか分からない真情だということは理解できる。
だから兵助は、快く扇子を受け取ることにした。
帰り際、また二人で屋敷の廊下を歩いていると、正面から一人の青年がやって来た。
歳は二十過ぎくらいであろうか。
背がすらりと高く、濃く整った眉に、形の良い鼻筋が印象的な、眉目秀麗なる美丈夫である。
髪は総髪で、濃鼠の小袖に、紗の十徳を羽織り、七郎と同じように帯には扇子を手挟んでいる。青年は二人の姿を認めると、朗々たる声で
「七郎、珍しいな。お客人か」
「はい。一緒に将棋を指しておりました。兵助どのと申します。以後度々当屋敷に参ることもあるやもしれませんので、どうぞお見知りおきをお願いいたします」
七郎が丁重に頭を下げたので、兵助もペコリと頭を下げた。
「うむそうか。だがお前も伊藤家の男子として忙しい身であろう。子供同士で将棋を指すなど、無駄な時を過ごす暇はないのだぞ」
青年は兵助のことなど眼中にないようで、悪気なくさらりと言ってみせた。
すると七郎はムッとした表情を見せ、
「お言葉ですが、兵助どのは素晴らしい棋士でございます。私も兵助どのと指して、学ぶことも多くございました」
と反論した。
そこには、友人を庇う気持ちと、この青年に反発する気持ちの両方が見て取れる。
すると、この言葉を聞いた青年の眼は、みるみるうちに鋭くなって、
「お前、よもや負けたのではないだろうな?」
きつい口調で詰問した。
傍から見ていた兵助も、ただ事ではない殺気の様なものを感じるほどであった。七郎は躊躇いながらも、
「幸い勝ちを得ることが出来ました…」
と、だけ言った。
青年は鋭い眼つきのまま兵助を一瞥すると、
「ならばよい。お前もいずれは門人に教える機も増える。今の内からそのような将棋を指しておくのも悪くはないだろう」
と無機質に言った。
七郎は上目遣いに青年を見上げながら、
「分かりました兄上」
小さな声で応えた。
兵助はここで初めて、この二人が兄弟だということを知った。
「稽古してやるから後で俺の部屋に来い」
兄のほうはそう言い残すと、身を翻して去って行った。
廊下に面した庭から涼やかな風が入り込み、二人の間に音もなく流れた。
その兄の背中を見送りながら、七郎は「行こう」と兵助を玄関へと促した。
兵助は、二人のやり取りを見て、不思議な印象を持った。
どうやらこの家では、将棋の師匠をしているのだというのは分かる。
出入りしている人々は、皆門人なのであろう。
屋敷の造りは町家のように見えないが、屋敷の住人は武士ではない。
兵助も、三味線・常磐津・長唄、様々な師匠連中を知ってはいるが、皆長屋の一室で教えているだけで、暮らし向きは兵助たちと大差はないのに、七郎は、兵助から見ると大層裕福そうに見える。
だがそれ以上に腑に落ちなかったのは、七郎の兄に対する態度であった。
七郎と兄は、十歳以上歳は離れているだろう。
ただ年齢差だけでなく、それとはまた別の隔たりが、二人の兄弟の間にはあるように見えた。
それが何に起因するものなのか、まだ兵助には分からなかった。
玄関で七郎は、
「きっとまた遊びに来てください。約束だよ」
と名残惜しそうな態度を見せた。
兵助は、丁寧にお礼を言って屋敷を後にした。
門を出ると、初夏の太陽は少しもう傾きかけていて、西日が眼に眩しかった。
日差しを遮るように、兵助は貰ったばかりの扇子を広げて顔先にかざしてみた。
親骨に使われている白檀の香りと、扇面に炊き込められた伽羅の香りがフワッと兵助の鼻をくすぐった。
扇子には、何やら文字が揮毫されていたが、兵助には難しすぎて何と書かれているのか分からない。
三代宗看と書かれた署名は辛うじて読み取れたが、それが何を意味をするのか、兵助は気にも留めなかった。
七郎は、後の初代伊藤看寿であり、この時既に類稀なる棋才を秘めた麒麟児として将棋界にその名を轟かせていた。
そしてその兄は、天下無双の上手として、先頃齢二十三にして七世名人を襲位したばかりの、「鬼宗看」こと三代伊藤宗看であった。
そんなことなど、この時の兵助は知る由もない。
兵助と七郎は、後に終生の友人として将棋の技を磨いていくことになるが、それはまた別のお話である。