第三章 袴と扇子②
紀文は、元々京橋本八丁堀三丁目に住み、材木を細々と商っている小店主だったという。
本郷丸山より出火した、所謂明暦の大火により、江戸市中は悉く灰燼に帰し、紀文の屋敷もまた類焼したというが、それでも紀文は意に介さず、咄嗟旅装を整え、即日江戸を発して木曽へと赴き、大いに材木を購いこれを木曽川に下して江戸へと廻送した。
当時の江戸市中は、大火の後とあって材木が底をついており、売値は平時の倍ほどにもなっていたから、紀文の仕入れた材木が江戸に達するや否や、人々がその店頭に雲集して争ってこれを求めたという。
故を以て紀文は、一挙にして巨万の富を作り、三都に並ぶものなき豪商になったとされている。
八丁堀の屋敷は、全盛時には一町四方もあったほどで、更に一日に千両かかると言われた吉原の貸し切りを、生涯に三度もやったと記録にはある。
言ってみれば当代随一の成金で、そのような分限者が、深川に逼塞しているとは、実際に見た兵助であっても、俄かには信じられない話だった。
併し、「文左衛門家衰への後、移り住せし深川の宅は八幡宮一の鳥居北側に在り、寛延のころ俳諧師存義といふものその跡へ引移りしことありといふ。其の家は極めて矮小なりしものと聞ゆ」と文献にあるように、深川の陋屋にて俳諧に親しんで余生を過ごしたのは真実で、俳諧師宝井其角・鯉屋杉風、書家英一蝶・佐々木文山、彫刻家横谷宗珉などを取巻きとして、風流の道を遊んでいたと伝わっている。
また一説には、深川の侘び住居に在りながらも、千両箱を四十箱も所持し、長持に入れ保管していたともされているから、商売に失敗して零落した結果深川に住んだというのは巷説に過ぎないようだ。
その紀文が記してくれた住所は、深川からほど近い、本所亀沢町のとある一画であった。
本所は深川からは一里もない程の距離で、子供の脚でも半刻もあれば行くことが出来る。
紀文の指定した晦日が近づいてくると、その前の晩、兵助は興奮で中々寝付かれなかった。
七郎という者がどのような将棋を指すのかは知らぬが、おそらく紀文のような、老獪な人物なのであろうと想像した。
兵助の武器は、詰将棋で鍛えた斬れ味鋭い終盤力である。
如何に老練な序盤巧者であっても、終盤の力比べならば負けないと、兵助は信じている。
紀文は粗相のないようにと忠告したが、将棋の上では遠慮はいらない。
例え七郎が目上の者であっても、教わるという気持ちは微塵もない。
兵助は、隙あらば打ち取ってやろうと、真剣で立ち会う兵法者の如き心境でいた。
*
当日、母のおさきからは手習いに行かないのを咎められたが、兵助にはどこ吹く風、逸る足取りで本所へと向かった。
紀文の指定した屋敷は、深川から北へ、仙台堀に架かる海辺橋を渡り、霊厳寺の門前を抜けて、小名木川の高橋を渡って、堅川の二ツ目橋を少し行った辺りにあるはずであった。
赤穂四十七士が討ち入りをしたという吉良邸はこの辺りにあったらしいが、兵助が生まれる前のことなのでよく分からない。
いずれにしても、この辺りは大名の下屋敷や旗本の屋敷が多く、屋敷替えも頻繁にあるから、兵助にとっては不案内であった。
しばらく探し回ってみると、どうやらそれらしい地番と屋敷は見つかった。
予想外に広い敷地で、開き門が誂えてあるが門番の姿は見えない。
その門構えから推察するに、兵助は武家の屋敷と思い逡巡した。
紀文は武家だということは一言も言っていなかったし、兵助もこれまで武家の屋敷へと足を踏み入れたことがないので、どうしたらいいのか分からない。
この辺りは深川とは違って、周りには屋敷の土壁が並んでいるだけで、町家も店もない。
人通りも少なく誰かに尋ねようにもそれも叶わない。
兵助は紀文の言っていた「表門から挨拶をして入るように」という言葉を思い出したが、町人が武家の屋敷へ表玄関から入るなど通常あり得ることではなく、兵助が躊躇うのも無理はなかった。
しばらく屋敷の前で様子を伺っていると、商家の旦那風の男や、剃髪した僧体の者、さらに二本差しの武士が、次々に表門を通って入っていくのが見えた。
身分関係なく表門を利用するのは不思議な光景で、これならば自分も平気かも知れないと、兵助は少し勇気が出た。
意を決して玄関の戸をそっと開けると、半纏を着た使用人らしき男が、門番の如く土間に佇立しており、兵助としっかり目が合った。
男は直ぐに不審そうな表情を浮かべ、ずかずかと兵助に向かって詰め寄って、
「何か御用ですかな?お使いならば裏手へ廻ってくださいよ」
と、きつい口調で言った。
兵助の風体ならば、商店の丁稚と間違えるのもやむを得ない。
男の威圧的な態度に兵助は一瞬怯んだが、
「あ、あの違うんです。紀伊国屋さんからの口利きで、七郎様と将棋を指したくて参りました。どうかお手合わせ願えませんでしょうか」
と丁寧に頭を下げた。
すると男は何かに気づいたかのように、
「おや若様のお客様でしたか。これは大変失礼をいたしました。暫しお待ちください」
先ほどとは打って変わって丁重な態度に改まった。
男が紀文のことを知っていたのか、兵助が子供にもかかわらず、切紙を見せる必要もなく、直ぐに七郎との面会の機会を与えられるのは意外であった。
男に言われた通り、そのまま玄関で待っていると、廊下を誰かが歩いて来る気配がした。
七郎かと思ってそちらのほうへと眼を向けると、やって来たのは一人の少年だった。
切れ長の大きな眼に、女人のように肌の色の白い、まだ前髪の美少年である。
理知に富んだ顔つきと、よく躾けられた華麗な足運びは、一見して町人とは違うというのが分かる。
小柄な兵助に比べて、身長はスラリと高く見えるが、ひょっとすると年齢は同じくらいかもしれない。
若竹色の小袖袴姿に白足袋を履き、脇差ではなく扇子を帯に手挟んでいる。
一方の兵助は、木綿の筒っぽ一枚に素足だ。
「あちらがお客様でございます」
使用人の男が少年に伝えると、少年は少し不思議そうな表情を浮かべた後、兵助の前まで歩みを進めて、膝を折れ頭を垂れ、
「私が七郎でございます。どちらかでお会いしましたでしょうか?」
穏やかに笑って言った。
「あっ貴方様が七郎様でいらっしゃいますか?」
兵助は、七郎が自分と同年代の少年であったことに驚きを隠せなかった。
紀文は、七郎が少年だとは一言も言わなかったが、同様に年齢を特定するようなことも言わなかった。
兵助が勝手に、七郎は老練な将棋指しと決めつけたに過ぎない。
そして兵助は、使用人がなぜさしたる疑問も挟まずに、七郎に案内してくれたのか合点がいった。
兵助も少年だというので警戒されなかったに違いない。
だが一方で、七郎が少年であったことに、兵助は少し不満を覚えた。
同年代の少年が、自分と勝負になるとは、到底思えなかったのである。
「おれは深川蛤町の兵助と言います。紀伊国屋さんの口利きで、将棋の手合わせをしてほしくて参りました」
兵助も形だけは頭を下げて、紀文の切紙を差し出すと、
「紀文さんのお知り合いでしたか。これは失礼をしました。将棋でしたら歓迎いたします。私もたまには子供同士で指したいと思っておりました。是非お願いします」
七郎は屈託なく言った。
すんなりと願いが聞き入れられたことに、兵助は拍子抜けしてしまった。
こんなに簡単に事が運んでいいのだろうかと思ったが、七郎のほうも嬉しそうにしているので、兵助と指したいというのは本心なのだろう。
だが七郎の言葉の中で、一つだけ兵助には引っかかったことがあった。
それは、「たまには子供同士で指したい」という台詞である。
これは、七郎は普段大人とばかり指しているということであり、高い棋力を保持していることを暗に意味している。
自然と兵助の表情は引き締まった。
七郎と兵助の二人は、連れ立って広い屋敷内の廊下を歩いた。
七郎の歩く姿や立ち居振る舞いは、不思議な気品に満ち溢れている。
屋敷は武家造りに近いが、七郎からは武張った雰囲気は微塵も感じられない。
兵助はそんな七郎の後姿を眺めながらぼんやりと廊下を歩いていたが、ふと廊下の右手を見ると、開け放った襖の奥には、異様な光景が広がっているのが眼に入った。
そこは二十畳ほどの座敷になっており、五組十名ほどが盤を挟んで無言で将棋を指していた。
張り詰めた空気の中で、パチパチと駒音だけが鳴り響いている。
棋士の年齢は様々で、身なりからすると武士もいれば町人や僧侶もいるようだ。先程屋敷へと入って行ったのは、ここにいる人物たちのようである。
兵助はぎょっとしたが、七郎にとっては日常の風景なのだろう。
特に気に留める様子もなく、廊下を突き進んでいく。
この光景について仔細訪ねる間もなく、とある部屋へとたどり着くと、七郎は「こちらで指しましょう」と兵助を案内した。
六畳ほどのそれほど広くない書院の中に、脚付きの立派な六尺盤と座布団だけが置かれている。将棋を指すためだけに誂えられたような部屋である。
七郎は座敷に入ると、当然のように上座に着座した。兵助は促されて下座へと座ると、
「それでは、一局お手合わせをしましょうか」
七郎は微笑みを浮かべながら言った。
細やかな刺繍の入った、絹布の駒袋を手にしている。
「お、お願いします」
兵助は緊張しながら頭を下げた。
今までに使ったことがないような、立派な道具だから緊張するというのも確かにある。
だが理由はそれだけではない。
七郎の纏う空気が、兵助をより一層緊張させるのである。
この屋敷へ来るまでは、将棋を教わる気持ちなど微塵も持っていなかったのに、いざ七郎を前にすると、不思議な雰囲気に飲まれ、つい手習いの師匠に接するような態度になってしまう。
兵助が畏まって小さくなっていると、
「手合いはどうしましょう」
「えっ…」
緊張を振りほどこうとしてたところに不意を衝かれ、兵助は直ぐには返答できなかった。
ここに来る前までは平手で挑もうと思っていたのに、今はどうすべきか見当もつかない。
「二枚落ちでいいですか?」
七郎はにこやかな表情を崩さずに言った。
この言葉に、兵助の表情は曇った。
二枚落ちとは、大駒である飛車と角を落とす手合割で、その段位差は六段から七段と言われている。
かなりの実力差があると知っているか、或いは自らの棋力に余程の自信がないと提案できない手合いである。
兵助の年恰好から初級者と看做したのかも知れないが、それでも兵助の自尊心は傷ついた。
七郎はそんな 兵助の様子を感じ取ってか、
「では今から詰め物を作るので、解いてみてください」
そう言うと七郎は、ちょっと思案顔をしたかと思うと、盤に駒をすらすらと並べ始め、あっという間に詰将棋(図参照)が完成したようだった。
兵助は七郎の行動を見て、これは、詰将棋を解く速さで自分の棋力を測ろうとしているのだろう、と直ぐ理解した。
詰将棋ならば、兵助にとってはお手の物だ。七郎の鼻を明かすべく、兵助は気合を入れ直して、
「———の十三手詰めです」
僅かな時間考えただけで、鮮やかに解いて見せた。
七郎の創った詰将棋が簡単だったわけでは決してない。
手順を駆使し、見事綺麗な詰め上がりを見せるこの作物は、兵助が今まで見たことのないような良質の作品であった。
それを短時間で考えたのか、あるいは普段から詰将棋の創作をしているのか、兵助には判断はできないが、七郎には恐るべき才能があることだけは分かる。
兵助の回答を聞いて、七郎の顔も引き締まった。
その双眸は、兵助をじっと見つめている。
兵助も七郎の眼を負けじと見つめ返した。暫く沈黙が続いた後、
「お見事です。それでは私の角落ちでやりましょう」
角落ちの手合は、三段から四段の差があると言われている。
兵助の速さを目の当たりにしてもなお、七郎には自信があるのだろうか。
或いは駒落としたことを、負けた時の言い訳にするつもりなのだろうか。
兵助はこんな風にさえ思った。
併し、七郎の表情を改めて見てみると、そこまでの余裕は感じられない。
何か得体の知れない物に追い込まれているような、そんな表情にすら見える。
真意は兵助には測りかねるが、どんな形であれ、七郎は兵助と真剣勝負をしようとしてくれている。兵助もその気持ちに応えねばなるまい。
兵助は黙って角落ちを受け入れた。