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第三章 袴と扇子①

 兵助たちの居住する深川は、徳川家康の江戸入府以前には、江戸の他の地域と同様、あしの生い茂る広大な荒野、或いは湿地帯に過ぎなかった。


 文明年間、堯恵きょうえによって書かれた『北国紀行ほっこくきこう』には「隅田川にうかびぬ。東岸は下総、西岸はむさし野に続けり。東のなぎさに幽村あり。西のなぎさに孤村あり」と描写されるほど、侘しい場所であった。


 明暦の大火以降、幕府は江戸の町の再整備に力を入れることになるのだが、拡大する江戸市中に伴い、特に隅田川東岸の本所及び深川は、未だ開発の余地が残されていたことから整備の対象となった。


 明暦三年には、大火の犠牲者を弔うために、本所に回向院えこういんが建てられ、寛永年間には、深川に富岡八幡宮が砂村より移転してくる。

 そして万治二年に、回向院参拝客のために両国橋が架けられたことを契機に人の行き来が増え、元禄十一年には永代橋が架かったことで、深川周辺は急速に発展し、門前町としての賑わいを見せるようになる。


 この本所・深川地域には、十七世紀末期には既に大名・旗本・新興の豪商の屋敷がこぞって建設されている。

 そして門前町としてだけでなく、材木の流通を扱う港町として、交通・商業の要衝となりつつあった。


 富岡八幡宮の門前には、商人の接待を行うための料理屋が立ち並ぶようになり、遂には花街が誕生したのは自然な流れであったろう。

「社から二三町の手前の中は皆茶屋であって、其処そこには多数の女たちが居て、参詣人の弄ぶのに任せている云々」と記録にはある。


 ここで評判をとった芸者たちは、深川が江戸城から見て辰巳たつみの方角にあることから、辰巳芸者として呼ばれ、江戸の粋の象徴として讃えられていた。


 深川は江戸文化の一端を担う場所として、老若男女問わず人が訪れ、特に文化人・通人とされる人々も多く居住する地域になっていたという。


 兵助はまだ子供で、粋や通とは程遠い生き方をしているが、彼らの醸成した空気が、兵助を将棋という技芸の道へと後押ししたのかも知れない。


 炭屋大助とのあの一戦は、兵助の中でも強く印象として残っていた。

 大助の言う通り、印将棋にうつつを抜かすつもりは毛頭ないが、棋力だけで言えば、道楽で将棋を指している者よりも、印将棋を指している者のほうが、遥かに上だというのが真実であった。

 兵助は今や町内には敵なしで、少し足を延ばした先でも、兵助の相手になるような強豪には中々出会えなかったのである。


       *


 大助との対局があってから一年後、享保十四年の四月のこと。

 或る日兵助は、暇をもて余し、大家の長兵衛のところへとやって来た。

 長兵衛の住居は、兵助たち長屋の木戸脇にある一室で、そこから長屋の全体を逐一観察できるようになっている。


「大家さんこんちは」

「おお兵助かい。今日はどうしたね」

「暇だから遊びに来たよ。清さんも出かけちまってるし、誰も将棋を指してくれる人がいないんだ」


 長兵衛は老妻のおみつと二人暮らし。

 長屋の住人に色々と世話を焼いているが、子もなく日々退屈そうにしていることも多い。

 だから兵助がたまに顔を見せると、本当の孫の如く可愛がってくれる。

 例え暇潰しにやって来たのだとしても、長兵衛にとっては嬉しかった。


「そうかいそうかい。ならそんなところに立っていないで、お上がり」

 兵助は、ちびた下駄を脱いで部屋へと上がった。

 大家とはいえ、長兵衛の住む部屋も、間取りは兵助たちの所と変わらず狭苦しい。


「ねえ大家さんって町役人ちょうやくにんをしているから顔が広いだろう。誰か将棋の強い人を知らないかい?いつも清さんと指してばかりで飽きちまったよ」

 兵助はあくびをしながら、本当に退屈そうに言った。


「そいつは困ったねえ。あたしもこの町内で将棋を指す人は粗方あらかた知っているつもりだけど、兵助より強いのってなるともう思い当たらないねえ。この江戸には将棋がえらく強い、名人ってのがいるらしいけど、あたしらみたいのには会えるもんじゃないだろうし…」


 そこへ、妻のおみつがお盆に茶を乗せてやってきた。

「鳥居裏のご隠居なら誰か知ってるんじゃないかねえ。あの人は江戸中にいろいろと知り合いがあるみたいだよ」

「そう言えば、あのご隠居は俳諧はいかいをしているから、偉い先生やらと付き合いがあるっていうね」


 当時俳諧師は、俳諧を通じて一流の通人との交流があった。

 芭蕉の高弟であった宝井其角(きかく)は、絵師の英一蝶はなぶさいっちょうや歌舞伎の二代目市川團十郎と、吉原で派手に遊興したという記録が残っている。


「その人どんな人なの?」

「近頃八幡様の一の鳥居辺りに越してきたご隠居で、とても風流なお人でな。たしか千山せんざんさんと言ったはずだよ。歳は六十を過ぎているだろうが、闊達かったつなお人だからお前が行っても相手にしてくれるだろうよ」

「いきなり行っても平気かい?」

「きっと大丈夫だろう。すぐそこだから行ってみるといい」


 長兵衛の長屋を出ると、太陽はそろそろ正午の高さまで昇っていた。


 深川八幡の門前町は、一の鳥居から本宮まで東に延びている。

 この辺りは兵助が幼少の頃から何度も通り過ぎている場所で、普段はどんな家があるかなどは気にもかけない。

 だが今日に限っては、眼を凝らして千山老人の住んでいるという家を探した。


 西念寺さいねんじという小さな寺が、一の鳥居裏にはあった。

 その脇にある横丁へ、兵助は何となく入ってみた。

 一本道に入るだけで、門前の喧騒からは想像できないほど、しずかな空間が広がっている。


 横丁には侘しい町家が数件並んでいて、その中にポツンと一軒だけ、間口の左程広くない裏店うらだながあった。


 看板は出ておらず、外からは何をあきなっているのかは分からない。

 そもそも営業をしているのかも分からない。

 だが戸は開かれており、外からは店の中を覗くことが出来た。


 表土間や帳場には人の気配はなく、これといった品物も置かれていない。

 だがこの店の他は全て戸の閉まった町家で人通りもないから、兵助は仕方なく中に入って声をかけた。


「ごめんください!」

 一度声に出してみたが、店内はしんと静まり返っており、何の返事もない。それでも諦めずに、二度三度と自棄やけになって声を張り上げてみると、誰も居ないかと思われた店の奥から、一人の老人が静かに現れた。


 宗匠頭巾そうじょうずきんに黒縮緬(ちりめん)の小袖、利休茶の袖なし羽織を着ている。

 腰は曲がっておらず、歳はとりながらも、端正な顔立ちに見えた。

 兵助は虚を衝かれ、小さくなって言った。


「あのう、ここら辺に千山先生のおうちはありませんか?俳諧の師匠をされているそうなんだけど…」

「む、千山はわしじゃが、俳諧は道楽でやっているばかりで師匠ではないがの。わしに何ぞようか?」

 老人は一瞬眉を張って驚いた表情を見せた後、笑って応えた。


「えっおじいさんが千山先生なんですか。ここはお店じゃないの?」

 ここを店屋だとばかり思っていた兵助には、この老人が千山だということを俄かには信じられなかった。隠居の身で、俳諧を道楽にしているのであれば、わざわざ店を開く必要はないはずだ。


「商いは昔からの癖でなかなかやめられんのじゃ。貧乏な隠居の独り暮らしでは食っていけんから、小遣い稼ぎのために店を開けている様なもんじゃがのほっほっほ」

 老人はそう笑ったが、粗末な店の外見に反して、老人の装いは上等なもので、それほど貧しているようには見えなかった。


「ところで、わしを訪ねてきたようじゃが、童子どうじが何の用じゃ?」

 兵助の姿をまじまじと見て、千山老人は不思議そうに問いかけた。

「おれは蛤町に住む兵助って言います。実は千山先生にお願いがあって来たんです」

 兵助は努めて丁寧な口ぶりで言うと、

「ふむ。どのような願いかは知らぬが…。ここじゃなんだからまずはお上がり」

 兵助は、店の奥にある客間の一つへと招かれた。


 書院造のしゃれた座敷で、建物の外観からは想像できないほど、凝った内装である。

 調度品には目立ったものはなく、文机と長火鉢が置かれているのみだが、襖や天井の唐紙は、ぱっと見ただけでも上等な物であることが分かる。

 柱には、竹筒に季節の花が生けてあり、床の間には格調高い掛け軸が飾ってある。

 自然と落ち着ける空間で、来客が多いであろうことが想像された。


「それで、わしに願いとはなんじゃな」

 千山老人は火鉢にかけた鉄瓶で、無表情に湯を沸かしている。

 その態度は、一見兵助のことをあまり歓迎していないようにも見える。

 ひょっとすると、顔の広い千山には、兵助のように何か頼み事をしてくる人物が多いのかも知れない。


 兵助は気後れしたが、長兵衛の言葉を思い出して、思い切って伝えてみることにした。

「そんな大層なお願いじゃないんだけど…。もし将棋の強い人を知っていたら、引き合わせてほしいんです。深川じゃもうおれの相手になる人がいなくて…。駒落ちでもみんなに勝っちまって、面白くないんだ」


 想定していた願いとはどうやら違ったのか、千山は兵助の言葉にちょっと身を仰け反らせて、それから目許をほころばせながら、

「ほう将棋とな。わしは将棋にはそこまで明るくはないが…。ハテお前さん、皆に勝ってしまうとどうして面白くないんじゃ?」


 千山の態度が改まったことを感じ取って、兵助も気が大きくなって語りだした。

「だっておれはきっともう深川じゃ一番、いやひょっとすると江戸中でも敵がいないくらいに強くなっちゃったかもしれないんだ。本当なら上方へ行ったりして腕試しもしたいんだけど、まだ子供だしお足もなくて行けないから。だから江戸でできるだけ強い人と指したいんだ。弱い人と指しても、退屈しのぎにもならないよ」

「なるほどのう。併し、お前さんがこの江戸で敵無しと、誰が決めた?」

「誰かに聞いたわけじゃないけど、みんなおれに勝てないって言うし、こないだも上方から来た将棋指しをやっつけたんだ。上方の将棋指しも大したことないとすると、おれは天下一の将棋指しなのかもしれないな」


 炭屋大助は、将棋が強いからと言って偉ぶってはいけないと助言したはずだが、兵助はそのことをすっかり忘れているようだ。


 兵助が胸を張って語る様子を、千山老人は眼を細めて聞いて、

「ほほほ。その負けん気、まるで若い頃のわしを見ているようじゃな。江戸で強い将棋指し。わしも知らないわけじゃないが、それをお前さんに引き合わせてよいものか、悩ましいところじゃ」

「どうして?知っているならおせえてよ」

「時に兵助よ、おぬし何のために将棋を指しておる?」


 千山老人は鉄瓶から急須へ、ゆったりとした手つきで湯を注いでいる。

 不意の質問に、兵助は応えに窮してしまった。

「何のためって…」

「銭か?」

「銭じゃない!おれは印将棋は大嫌いだよ」

「では何のためじゃ?道楽ならばそこまで熱くなる必要もあるまい」

「道楽とも違う。なんだかよく分からないけど、おれは将棋が好きで、とにかく将棋が強くなりたいんだよ。強くなって、誰と戦っても勝てるようになりたい。今は何のために将棋を指すのか分からなくても、そのうちにきっと答えを見つけ出してみせるよ」


 何のために将棋を指しているか。そんなことを兵助はこれまで考えたこともなかった。

 兵助は物心ついた時から、知らぬ間に将棋という遊技のとりこになっていた。

 だから、今の素直な気持ちを、千山に対してぶつけてみるしかなかった。


「ほほほ。無垢な志というものは、時にまぶしすぎて見てられんのう。だがおぬしも、世の中には悲愴な覚悟をもって将棋を指している者がおるということを知らねばならん」


 言葉の最後の辺りでは、これまでの柔和な表情が一変して、千山は厳しい表情になっていた。

「悲愴な覚悟…?」

「年若い頃は、むやみやたらに勝ちたがるものじゃ。わしもかつてそうであったが、勝者の苦しみというものを、おぬしはまだ味わっておらん。勝つことを宿命づけられているということは、辛く苦しいもの。果たしておぬしの無邪気な将棋がどこまで通用するかの」

 千山は昔を懐かしむような遠い眼をしながら、独り言のように言った。


 千山が何を言わんとしているか、今の兵助には難しすぎてよく分からない。

 それでも兵助は、自分の将棋が批判されたような気がして、むっつりと黙っていた。


「そうねるでない。よろしい。わしがおぬしにとっておきの人物を引き合わせてやろう。本所にあるこの屋敷を訪ねるといい。ここに七郎という者がおる。その者と手合わせしてもらいなさい。おぬしとは立場が異なる故、粗相そそうをするでないぞ。毎月十五日と晦日みそかには本所の屋敷におるはずじゃ」


 千山老人は文箱ふばこを取り出し、さらさらととある屋敷の在所をしたためた。


「もし願い出ても手合わせが叶わぬようなら、深川の紀伊国屋文左衛門の案内で来たと言えばよかろう。切紙も書いてやったから、こいつを持っていくといい。表門から入って構わんだろうから、ちゃんと挨拶をするんだぞ」


 この一の鳥居裏に住む老人は、なんと、有名な紀文大尽きぶんだいじんこと紀伊国屋文左衛門であった。


 兵助は帰宅してから、母のおさきに紀文のことを話してみたが、一笑に付され全く信じてもらえなかった。それもそのはずで、紀文といえば、当時すでに伝説上の富豪であったから、深川の侘び住居にいるなど、おさきには信じられなかったに違いない。

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