第二章 上方からの棋客③
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「平手で勝負しよか」
大助は低い調子で言った。
散々挑発を重ねて相手に駒を落とさせるのが、大助がカモと指す時のやり方である。
金の為に指すのであれば、将棋指しとしての矜持や意地はむしろ邪魔だった。
だが今は違う。
兵助とは平手で、全力を尽くして勝負をしてみたいという気持ちが先に立った。
「うん平手でいいよ」
兵助は堂々と胸を張って応えた。
阿弥陀堂内、妖しく揺らめく蝋燭の炎の前で、兵助と大助の対局が始まった。
清三郎・長兵衛・佐吉の三人は、遠巻きに車座になって二人の対局を見守っている。
大助はやや緊張した面持ちで、だが駒音高く初手を指した。
この勝負にかける並々ならぬ気合が、その手付きからは感じられる。
兵助は落ち着き払って、いつもと変わらぬ気負わぬ調子で、スッと二手目を指した。
大助は序盤から時間を使ってじっくりと考えて指していた。
その様子からは、一手の間違いもしたくないという気迫を感じることが出来る。
だが真剣勝負から遠ざかっていた大助にとって、昇日の勢いを思わせる兵助の将棋には、如何とも埋め難い差がある。
どんなに慎重に読みを入れたつもりでも、予想外の好手が兵助からは飛んでくる。
次第に大助の形勢は苦しくなっていた。
大助としては、兵助の攻勢を何とか躱して反撃に転じたいところだ。
併し、どれだけ考えても、一発逆転を狙えるような妙手は見えてこない。
大助は苦悶の表情を浮かべながら、前のめりになって考え続ている。
もうどれくらい考えているのだろうか。
一向に指す気配を見せない大助に対して、とうとう兵助が痺れを切らして口を開いた。
「おじさん早く指してくれよ」
「やかまいしいわ。わいは今まじめに考えてるんや。少しは黙っとかんかい」
「でも早く指してくれないと日が暮れちまうよ」
「何言うてんねんまだ昼やろ。日が暮れるにはまだたっぷりあるで。せや、昼いうたらそろそろ腹が減ってきたわ。わいはちょいとばかり蕎麦ちゅうもんを食うてくるさかい待っといてくれや。屋台がその辺に出てたさかいにな」
大助は胡坐を崩してそそくさと盤の前から立ち去ろうとすると、
「おいあんたそんなこと言って逃げるつもりじゃねえだろうな?」
清三郎が慌てて口を挟んだ。
相手は海千山千の印将棋指しであるから、警戒するのは当然だ。
だが大助は、心外そうな表情で清三郎に向かって、
「アホ抜かせ。わいは兵助はんとの勝負を楽しんでるんや。誰が逃げ出したりするかいな」
「でもいつ帰って来るのさ?おじさんが帰ってくるまでおれたちは待ちぼうけだよ」
兵助の主張も当然である。
手番は大助なのだから、大助が指さなければ兵助には何もできることはない。
「刻限を区切らんかったんはあんさんらの手落ちや。ゆっくり考えたらあかんのなら、始まる前にいうてくれへんとかなわんわ」
大助は少しも悪びれる様子はなく反論した。
確かに大助のいうことには一理あった。
当時、素人同士の対局では、持ち時間はお互いの信頼関係に委ねられていた。
信頼できないのであれば、事前に何らかの「決め」を作っておくべきだったのだ。
それゆえ兵助たちは、暗いお堂を抜け出して白昼の門前へと繰り出す大助の後姿を、黙って見送るほかなかった。
洲崎弁天の参道には、常設の店こそなかったものの、昼時には屋台がずらりと並んで、菓子や近隣の漁村で獲れた魚介類を食べることが出来たという。
ざる蕎麦の起源は、江戸中期に洲崎弁天門前にある伊勢屋という店が、蕎麦を竹ざるに乗せて出したものが大いに評判となったことにより、他の蕎麦屋がこの手法を真似て広まったのだとされている。
そのざる蕎麦の誕生にはまだ月日を待たねばならないが、この時代にも、蕎麦の屋台は洲崎弁天門前にはいくつも出ていた。
大助が蕎麦を食べて腹を満たしたのに嘘はなかったが、本当のところは、この昼休憩を利用して、局面を読み進めようとしていたのである。
さっさと蕎麦を食べ終えた後、大助は海岸に独り座り込んで、広大な海に向かいながら、頭の中で局面を思い浮かべて必死に読みを深めていた。
印将棋をしている時の大助ならば、形勢が悪いと見たら、さっさと姿をくらましていただろう。
だが今は、兵助に読み勝って、何としても勝利を手にしたい。
大助の言う通り、時間を決めていない以上、この姿勢は卑怯とは言い切れまい。
大助は、小半刻過ぎたあたりでお堂に戻ってきた。
「ほなぼちぼち指しまっか」
などと余裕を見せている。
時間を使った甲斐があり、大助の指した手は、兵助の意表を衝く好手であった。
これまでは守勢に回りっぱなしであったところ、一転して大助が攻める番となっている。
形勢はまだ兵助が有利だが、その差は僅かなように見えた。
それからはお互いが良くしようと、難解な捻じり合いの中盤が続いている。
だが相変わらず、時間を使っているのは大助で、兵助は、さして深く考える様子もないのに、手が大助の急所に行く。
一方の大助は、盤面を食い入るように見つめて漸く手を捻り出すといった形である。
我慢強く考え続けてきた大助であったが、段々と集中力が落ちてきているのが自覚できた。
難解であっただけに、一手の失策は、大きな差となって表れてくる。
今ははっきりと兵助の模様が好くなっている。
いつしか大助は、今眼の前に過去の自分が座っているような錯覚がしていた。
天才少年と称された昔の自分は、大人たちと戦っても、時間を使うことなく指していつも勝っていた。
だが今は、読みの速さは衰え、寄せの切れ味は鈍ってしまった。
大坂一の将棋指しになるという夢を持っていたのに、今では日銭を稼ぐために印将棋に手を染める毎日だ。
少年時代の自分が、今の姿を見たら何と思うだろうか。
兵助の指し手を通じて、過去の自分が今の自分に、疑問を投げかけているような気がしてならなかった。
眼の前に浮かぶ若き日の己に向かって、大助は何か言い訳をしようにも、上手い言葉は見つからない。
答えは盤上にしかないのである。
「おじさんの手番だよ」
兵助の言葉に、大助はハッと我に返った。
どうやらぼんやりとしていて、自分の手番だということに気づいていなかったようだ。
局面を改めて見直すと、まだまだ難解なように見えたが、大助には指すべき手が一つも解らなかった。
大助は、穏やかな眼で盤面を見つめると、
「わいの負けや」
ポツリと呟いた。
唐突な投了に、周りで見ていた清三郎や長兵衛はアッと驚いたが、兵助だけは、大助が投了するのではないかということを薄々感じ取っていた。
「わいはもう印はやめにするわ」
盤面を見つめたまま、大助は続けた。それから一つ大きく背伸びをすると、顔を上げて清々しい表情で、
「大坂に帰ってまた一から勉強し直しますわ。わいは心を入れ替えた。兵助はんのお陰や」
と、宣言した。
盤を挟みながら、大助は心ここに在らずで何事か思案しているのは分かったが、その中身までは当然読み取れない。
兵助が狐につままれたような表情でいると、大助は、問わず語りに自らの境遇を話し始めた。
「わいは昔大坂で、少しは名の知れた将棋指しだったんや。そやけど餓鬼の内からチヤホヤされて、それで勘違いして威張りくさっておったら、とうとう奉公先から追い出されてしもた。それ以来こうやって、将棋を指して飯を食うようになったんや。初めのうちは、将棋を指すだけで飯が食えるんやったら、こないに有難いことはないと思てたんやが、毎日毎日ヘボ将棋の相手ばかりして小銭を稼いで、いつの間にかそんな暮らしには飽き飽きしとった。そんな時たまたま江戸へ出てきて、あんさんらと出会うて、将棋指して、そんだらわいはいつしか昔の熱い気持ちを思い出して来たんや。そら昔に比べたら将棋の腕も鈍ってしもうたが、まだそこいらの素人には負けへん。大坂に帰って一から修業して、またええ将棋指せるように気張るつもりや。将棋はわいの人生そのものやからな」
大助は爽やかに笑って言った。
兵助や清三郎は、当然のことながら、大助のこれまでの生き方などは知らずに将棋を指していた。
出会ったのは今日が初めてで、その偶然は、湯屋の二階で、初顔の男と気まぐれに指すのとそう変わらない。
だがお互いに全力を出して将棋を指したことで、三人の間に目に見えぬ何かが生まれたのは事実であった。
最初は大げさに思えた大助の言葉も、じっくりと耳を傾けている間に、本当に大助の人生がいい方向に進んで行くような予感がして、兵助もなぜか嬉しくなった。
「兵助はんはわいのようになったらあきまへんで。あんたはえらい将棋指しやけど、いくら強いいうたかて偉ぶったらあきまへん。世の中にはまだまだ強い奴がぎょうさんおるんや。印将棋なんかに現を抜かさんと、しっかり精進するんでっせ。そないすれば、いつか江戸一の将棋指しに、あんさんならきっとなれる」
大助は一転厳しい口調で忠告した。
自分が犯した過ちを、兵助にはしてほしくないという実感が込められている。
大坂一の将棋指しになるという、自身の叶えられなかった夢を、兵助に重ねて託すような風にも聞こえた。
最後に大助は、
「あんさん方、もし大坂に来るようなことがあったら、絶対にわいに声かけてや。炭屋の大助いうたら将棋好きなもんやったら誰かしら知っておりますわ」
と言い残して去って行った。
印将棋の結果は、大助の一両勝ち、兵助の三両勝ちとなるはずであったが、二人とも金のことなどすっかり忘れていた。
清三郎と長兵衛は、後々までぶつくさと文句を垂れていたのだったが。
果たして大助の再登場はあるか、乞うご期待。