第十二章 晦夜の譜⑤
驚いて振り返ると、さよが、一輪の花の如くそこに佇んでいる。
どうやら名香が目で合図して、兵助を案内するよう指示をしたようだ。
これもかむろとしての職務の一つなのだろうか。
兵助は驚いて、どうしたらいいか分からずにぼんやりと座り込んだままでいると、さよは唐突に兵助の手を握りしめた。
ひんやりとした手の感覚が、重ねた指先を通じて伝わってくる。
兵助は自分で、みるみるうちに顔が紅潮していくのが分かった。
さよはそんな兵助のことに気づいていないのか、そのまま手を引いて厠へと案内してくれるようだ。
兵助は俯きながら、馬子に引かれて畦を歩く馬の如く、頼りない足取りで廊下へと向かった。
兵助は夢心地のまま、さよに手を引かれていた。
向かいの座敷では、今でも宴が続いている。
だがその喧騒さえも、暇の兵助の耳には入らない。
雲の上の歩くような、ふわふわした心地で廊下を進んでいると、さよが急に立ち止まって、兵助のほうを振り返って言った。
「兵助様、形勢はよろしくないのですか?」
表情は真剣そのものだが、手は握ったままでいる。
急な問いかけに、兵助は我に返った。
「あの棋士はお強いのですか?」
さよはもう廓言葉ではなく、武家の娘らしい口調に変わっていた。
さよは、父である市之進から、武家の嗜みとして幼少の頃より将棋の手解きも受けていて、ある程度の形成判断もできるようだ。
兵助が応えに窮していると、さよは少し悲しげな表情になって、
「さよは、兵助様しか頼る方がいないのです…」
薄暗い廊下の灯の中で、その眼が微かに潤んでいるのが分かった。
さよは市之進が浪人して以来、両親に迷惑がかからないよう努めて暮らしてきた。
それは母の里香が亡くなる前も、亡くなった後も変わらない。
親に甘えたり、わがままを言ったことはほとんどなかった。
そんな生活は、さよの年齢を考えれば酷なことだったろう。
だが、それが武士の娘だと思って暮らしてきた。
だから兵助が、さよにとって初めて弱みを見せた相手だった。
兵助の町人としての気楽さがそうさせたのか、或いは同い年どうしということで気を許したのか、それともこの極限の勝負における不安から、そのような行動に出たのか。
本当のところはさよにも分からない。
とにかく兵助にだったら、自分の素直な気持ちを打ち明けられるような気がした。
さよは兵助の右手を胸に抱いて、祈るように懇願している。
その手の冷たさを通じて、さよの孤独が兵助にも伝わってくるようだった。
兵助には、両親もいれば清三郎もいる。
市之進、紀文、老師、喜内、みんな兵助を支えてきてくれた。
思えばずっと彼らに甘えっぱなしだったような気がする。
なのにさよは、兵助しか頼る者がいないという。この広い世の中で、今頼るべき人がたった一人しかいない。
想像しただけで、痛ましさに似た哀しみを覚える。
兵助は、何としてでも、この娘を守ってやりたいと思った。
「お嬢様、おれに任せてください。おれは絶対に負けやしません。多川勾当はとんでもなく強いですが、必ずや勝ってお嬢様を救い出してみせます」
兵助は根拠なく言った。
さよを姿を見ると、そう言わざるを得なかった。
それでもさよは、ほっと安心した様子で、兵助に屈託のない笑顔を見せる。
「兵助様ありがとう。さよは嬉しいです。どうか、太夫とお父様をお助け下さい」
こんな時でもさよは、まだ他人を思いやる気持ちを忘れない。
そんな姿を見て、兵助はより一層、さよのために勝ちたいという気持ちになった。
「遅かったじゃねえか。もう残りはあまりねえぞ」
兵助が厠に行っている間にも、蝋燭の火は燃え続けている。
清三郎の言う通り、兵助の蝋燭はもう三分の一を残すばかりになっていた。
併し、兵助は慌てなかった。
さよとの語らいのお陰で、今は頭の中もすっきりと冴え渡って、気持ちも落ち着いている。
盤に座すなり、盤面に受けの妙手がパッと浮かんだ。
多川の攻めを緩和させる好手で、差は明らかに縮まったように見える。
それから数手は兵助のほうが良い手を指し続けて、今度は多川のほうが時間を使うことが多くなった。
やがて、多川の蝋燭も、今はあと三分の一を残すのみとなった。
蝋燭の火は、恨めしいようにゆらゆらと揺れていた。
茂右衛門は、揺らめく蝋燭の灯を見ながら、意識が朦朧としていくのを感じていた。
もはや死期が迫っていることは、誰よりも自分が一番よく分かっている。
この蝋燭が燃え尽きた時に、自分の命までもが燃え尽きるような、そんな錯覚までしてくる。
兵助と盤を挟んでいると、一言も会話をしていないはずなのに、名香とさよを救い出したいという強い意志が、痛い程に伝わってくる。
それが何故かは分からない。
これまでに何度も将棋を指してきたはずなのに、こんな経験は初めてであった。
そして、こうして兵助と向かい合って将棋を指すことで、確かに今生きているという実感を、茂右衛門は感じることができた。
金で全てを手に入れてきた茂右衛門であったが、今思うと、どれだけ金を使おうとも、心が満ち足りたことなど一度もなかった。
使っても使っても、虚しさが募るばかりであった。
併し、今この瞬間、ちっぽけな将棋盤を挟んでする勝負に、かつてない程の興奮を覚えている。
兵助の意志、多川の執念、名香やさよの不安と緊張。
その全てが、茂右衛門にとって新鮮で色鮮やかに見えた。
いつまでもこの勝負が続けばいいとすら、思い始めていた。
「おい大和屋、早く手を読み上げてくれ」
多川の言葉に、茂右衛門は我に返った。
兵助が既に手を指したのを、気づかないでいたのだ。
慌てて指し手を読み上げたが、この時名香太夫だけは、茂右衛門の異変を感じ取っていた。
灯心がジジッと微かな音を立てて、兵助の蝋燭が燃え尽きた。
清三郎が、
「ここからは線香が燃え尽きたら、その時点で負けだぜ」
と、神妙な面持ちで、一寸ばかりの線香に火を点けた。
これからは時間切れとの重圧とも戦いながら指すことになる。
いざ置かれてみると、想像以上に厳しい状況だが、それでも攻めの手を緩めない兵助に、これまで無表情だった多川も、皺深い顔を僅かに歪めるようになった。
いつ終わるとも知れぬ終盤戦が続いて、いよいよ多川の蝋燭も尽き、お互いが線香の一寸将棋となった。
ここまで来たら、どちらか悪手を指したほうが負けとなる。
張り詰めた空気が座敷内には充満し、誰一人として声を上げる者は無くなっていた。
そして最終盤、形勢はまだ難解であったが、兵助は時間に追われて、▲8三銀(図)と王手をかけた。
一目無理攻めの感があり、正確に受けられれば形勢は一気に後手に傾いてしまう。
兵助は、指した瞬間「しまった」と思ったが、もう遅かった。
後悔と焦りで、顔がカーッと火照っていくのが分かった。
全身から汗が噴き出しているのに、手は氷のように冷たくなっている。
この焦りを引きずったままでは、悪手を続けてしまうであろうことが自分でも分かる。
先ずは冷静になろうと思った兵助は、無意識に、腰に手挟んだ扇子を引き抜いて、顔を煽いでいた。
扇子の風からは、白檀と伽羅の混じった独特の香りが、ふわりと薫ってくる。
頭に血が上った兵助には、この香りで、少し冷静さを取り戻せるような気がした。
するとその時————。




