第十一章 大聖寺梅鉢①
深川八幡の祭囃子が遠くから響いてくる中で、兵助は、喜内の作った詰将棋を解くことに没頭していた。
茂右衛門が指定した対局日は、八月の晦日。
その日までは、あと十五日しかない。今はただひたすら、技を磨くほかない。
父の政五郎も母のおさきも、今日は兵助のことを放って祭りの見物に行ってしまっている。
いやむしろ、稽古に集中したい兵助が、無理やりに追い出したといったほうが正しかったのかも知れない。
両親に限らず、近所の住人は皆出かけてしまっているようで、長屋からは物音一つ聞こえてこない。
兵助はふと、「清さんはどうしているかな」と思った。
きっと清三郎も、今頃は神輿でも担いで祭りを楽しんでいるのだろう。
そんな想像がされて、少し気分が滅入るようだった。
本当は兵助も、この日くらいは将棋を忘れて遊びたい気持ちはある。
八幡様のお祭りは、深川っ子にとっては特別なものだ。
いくら将棋が強いと言っても、兵助は、やっぱり普通の少年だ。
それでも利章から託された思いを顧みると、この限られた時間を無為に過ごすわけにはいかない。
利章、名香、市之進、さよ。皆の行く末が、兵助の小さな肩に圧し掛かっている。
兵助の胸の内にも、様々な想いが交錯していた。
疲れた頭を休めるため、兵助は畳に大の字になった。
ぼんやりと天井を見つめていると、玄関の戸がガラリと開いて、
「よう、しけたツラしてどうした?」
清三郎が、祭の文字が入った法被を着て、ねじり鉢巻きでやって来た。
「あれ清さんどうしたの?お祭りに行ってたんじゃないのかい?」
「ちょいと顔出してみたんだけどな。おめえのことが気になって戻ってきたのよ。あと十五日しかねえし、俺のほうでもいろいろと支度しなくちゃなんねえのを思い出してな」
照れ隠しをするとき、鼻の下を人差し指で擦るのは清三郎の癖だ。
「支度?清さんは支度なんか要らないでしょ。見てるだけでいいんだから」
兵助は嬉しかったが、素直になれないでつい皮肉っぽい言い方をした。
二人にはどこか似たところがあるのだ。
「なんでえその言い草は。その見てるだけにも支度が必要だってことに気づいたってわけよ。おめえも例外じゃねえぞ」
「おれにも支度が必要なのかい?」
「いいか、大和屋の定めた場所は吉原の中万字屋だ。ああいった大見世にゃ俺たちみてえに半纏や法被を着てたんじゃ上げてくれねえんだ。客で行くわけじゃねえから構わねえのかも知れねえが、股引に半纏じゃ格好がつかねえや。おめえだってそうだ。まさかその筒っぽ一枚で行くわけじゃねえだろうな?前田様の名代だぞ」
「でもおれは着物これしか持ってないよ」
「だから俺にいい考えがあるのよ」
そう言うと、清三郎は兵助を表へ連れ出した。
八幡宮の参道は、祭り見物の客でごった返していて、歩くのも一苦労といった有様だ。
そんな喧噪も、ここのところずっと家に閉じこもっていた兵助には、いい気分転換になる。
息抜きのために祭に連れ出してくれたのだろうか、と兵助は思っていたが、どうやらそれは違ったようだ。
清三郎はある一軒の店で立ち止まって、
「俺たちが用があるのはここよ」
「ここって紀文さんの家じゃないか」
「そうよ。紀文のじいさんから着物をちょいと拝借しようって寸法よ。あのじいさんなら、きっと上等な着物をたっぷりと持っているはずだぜ」
清三郎は怪しげな笑みを浮かべると、
「ごめんくださいよ。じいさんいるかい?清三郎だが上がらせてもらうよ」
閉まりのしていない戸を開けて、勝手知ってる我が家の如く、紀文の店に上がった。
「なんだお前ら急に」
紀文は居間で、短冊を手にして文机の前で座していた。
どうやら句を練っているところのようだ。
「祭の誘いなら無用じゃぞ。わしゃ賑やかなところは飽き飽きしておるんでな」
素っ気ない態度で、短冊に眼を戻して言う。
あらゆる遊びをし尽くした紀文にとっては、祭など子供の遊びと同様に思えるのだろう。
「いやそうじゃねえんですよ。実はじいさんに折り入って頼みてえことがあって来たんでさあ」
「なんだ?わしは面倒なことはご免だぞ」
「面倒と言えば面倒なんですが、実は兵助がとうとう大和屋と決着をつけることになりやして。それも大聖寺候の名代として」
清三郎が、事の概要を紀文に語ると、
「なんとやりおったな。それで、わしに何をしろというのだ?」
「実は、大和屋の定めた場所が名香太夫のいる中万字屋でして、そいつは別に構わねえんだが、俺たちゃ情けねえことに着ていく着物がねえんでさあ。半纏じゃ上がれねえし、こいつなんかこの着物一枚しか持ってねえてんだから始末に負えねえ。そこでじいさんに着物を貸しちゃくれねえかって頭を下げに来たわけですよ」
「なんだそんなことならばお安い御用だ。昔に比べれば随分と着物も捨ててしまったが、今でも羽織の一枚や二枚はあるから貸してやろう。奥の部屋にある長持に入っておるから見てみようじゃないか」
紀文の宅にはまだ奥に一部屋あるらしく、そこは普段あまり使われていないらしい。
三人は連れ立ってぞろぞろとその部屋へ入ると、室内には、埃の被った長持が、いくつも並んで置かれていた。
「こりゃ随分と荷物が多いねえ。何が入ってるか知らねえが、じいさん少しは片付けたほうがいいぜ。じいさんがくたばっちまったらこれを残された方が災難だ」
清三郎が憎まれ口を叩きながら長持を勝手に開けようとすると、
「おいそれは触っちゃならん。着物が入っているのはこっちだ。こっちからならば何でも好きなように取るがいいぞ」
「なんでえ小判が入ってるわけでもあるめえし。どっちだいこっちかい?じゃあ開けるぞよっこらしょ」
兵助と二人で長持の蓋を開けると、そこには仕立て上がりと見紛うほどの見事な着物が、何枚も保管されている。
「はあこれで随分と捨てたってのかい?俺は今まで生きてきて、こんなたくさんの着物を一度に見たことすらねえよ」
「ねえ清さん、これすべすべしててすっごく気持ちいいよ。おれの着物と全然違う」
「馬鹿、汚え手で触るんじゃねえや。ここに在るやつは俺が着るんだぞ。おめえはあっちに行ってろ」
と、一度兵助を手で払ってから、
「あっ!そういやおめえの着物はどうしたらいいんだろうな。じいさん、何か子供向けの着物なんざ持ってやしねえかい?」
眉根に皺を寄せて尋ねた。
その表情は、どことなく芝居がかって見える。
だが紀文も釣られて深刻な顔になって、
「さすがに子供向けの着物はないの…。ならば兵助にはこの文佐から誂えたものをやろう。どのようなのがいい?」
清三郎はしてやったりとほくそ笑んだ。
ここまで計算に入れての行動だったのだろう。
「紀文さん本当ですか!ならおれは袴を穿きたいです」
紀文の厚意に、兵助は眼を輝かせて答えると、清三郎が呆れ顔で言った。
「おめえ袴穿いて吉原行くなんざ野暮のすることだぞ。上等な羽織でも誂えてもらえばいいじゃねえか」
「おれはどうしても袴を穿きたいんだよ。紀文さんお願いします!おれは袴に白足袋で指してみたいんです」
実は兵助の頭の中には、あの日の七郎の凛々しい姿が浮かんでいた。
袴に白足袋姿の七郎は大人びて見えて、自分も一度だけでいいから、あのような姿で将棋を指してみたいと、子供心に思ったのだ。
「分かった分かったわしが誂えてやろう。対局は晦日だったな。ならばその日の朝に取りに来なさい」
「じゃあおれはこいつとこいつを借りるとしよう。俺も晦日に来るからよろしく頼んますよ。何から何まで世話になっちゃってすまねえけど、このお返しはきっとしますからね」
清三郎の調子のいい台詞を、紀文は笑って聞き流した。
この回の冒頭が、小説自体の冒頭シーンなんですが、時系列があっちこっちに行って分かりづらいですよね。




