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第十章 采女とおこう③

 采女は武士としての面目を保つために秀親を斬りつけるに至ったが、我に返ってみると、脳裏に浮かんだのはおこうと玉姫の姿である。

 もはや己の命は惜しくないが、二人の行く末が案じられ、それだけが心残りであった。


 大聖寺藩上屋敷で沙汰を待っている間、采女は至って冷静ではあったが、利章が来訪したとの報せを受けるとこれまでの態度を一変させて、すぐさま利章を呼び寄せ人払いを願った。


 采女が案じていたのは、織田家側が前田家に報復に出るのではないかということである。

 よもや大和柳本一万石の織田家が、加賀百万石の前田家一門を敵に回すとは思えないが、幕府の判断で織田家断絶の憂き目を見るようなことがあれば、主家を失った過激派の浪人は何をしでかすかは分からない。

 兎に角、おこうと玉姫の二人は、世を忍ぶ仮の姿であっても、息災に生き延びることが出来るよう才覚してほしいと、采女は利章に涙ながらに訴えた。

 その訴えには、愛する家族への強い思いが見て取れた。


 采女のこの懸念は、結果的には杞憂きゆうに終わった。

 吉良義央が斬られた時とは異なり、この度は織田家側の主君が死亡しているため、改易かいえきを避けるために家臣たちは世継ぎを立てるのに奔走せざるを得ず、報復を企てる暇はなかったのである。

 織田家家老たちは秀親が病死したことにして、世継ぎを立てるまでの時間を稼いでいたという。

 その実態を幕府が知らぬ筈はないが、これには赤穂事件を評定した大目付仙石丹波守久尚がかかわっており、事を大きくせぬよう見て見ぬふりをしていたようである。


 采女の死から一年の間、藩内は喪に服す風潮はあれど恙なく時が流れていた。

 織田家のほうからも何ら動静はなく、事件後にあった報復に怯え緊張した空気は消え去って、世の中も今は泰平そのものとなっている。


 采女の一周忌の法要は、下谷広徳寺にて無事執り行われた。

 加州候・富山候・大聖寺候が揃って列席する様子は、しめやかでありながらも壮観であったと人々は噂し合った。


 併しこの式には、おこうと玉姫の姿はなかった。

 徳川親藩に次ぐ家格となる前田家の法要であれば、当然幕府要人の出席がある。

 玉姫の素性を知られたくない前田家側は、家中申し合わせの上、二人の参列を見合わせたのである。


 おこうは、愛する人の法要に参加できなくとも、気丈にも表情に出すことはなかった。

 だがこの姿を不憫に思ったのが、利章である。


 利章はこの時二十歳になっており、次期大聖寺藩主を継ぐ準備のために、多忙な毎日を過ごしていた。

 そんな中でも、玉姫のことはずっと気にかけており、暇を見つけては将棋を指して遊ぶことがよくあった。


 玉姫はもう六つで、時々筋の好い指し手を見せるほどだ。

 利章と会うときはいつも無垢な笑顔を見せてくれるが、それは父の面影を利章に見るからなのではないだろうか。

 そう思うと利章は、命日くらいは采女の墓前に、華のひとつでも手向けさしてやりたいと思わずにはいられなかった。


 ある時利章は意を決して、采女の月命日におこうと玉姫と、ごく限られた家来だけを供に連れ、お忍びで広徳寺へ墓参りに行った。


 玉姫は、おこうが実の母親だということは知らない。

 おこうもあくまでも乳母として玉姫に接し、玉姫もそう認識していた。

 だからひょっとするとこの墓参りも、玉姫にとっては単なる散歩のようなものに過ぎなかったのかも知れない。


 併し、おこうにとっては、亡き采女の墓前で、親子三人水入らずの幸せな時間のように思えた。

 それを知っているからこそ利章も、おこうや玉姫が人目に晒され、采女との関係が露見するかもしれぬ危険を承知で、私的な墓参に見せかけて二人を連れて行ったのである。


 数ヶ月の間は何事もなく墓参りに行くことが出来た。

 本郷から下谷までは僅かな距離だが、下谷広小路や広徳寺門前は、日中でも人通りが多い。

 利章は目立たぬよう細心の注意を払い、若党と中間を一人ずつ付けただけで出かけていた。

 これは利章ほどの身分であれば、考えられぬ供の少なさである。

 当然駕籠も使わず徒歩で行った。

 梅鉢紋の駕籠が往来を行けば、直ぐに前田家のものだと分かってしまうからだ。


 利章に間を空けて、おこうと玉姫が続いて歩く。

 二人はあくまでも利章の付き添いのていである。


 だがおこうは人目を引くほどの美人であり、玉姫もまだ小児でありながら、その生れながらの品格は隠しようがない。

 身なりは乳母と上級武士の姫であるが、二人の美しい容貌は、まるで親子のようだと噂をする者も多かった。

 このような一行が、毎月決まって広徳寺へと参れば、否が応でも目立たずにはいられなかった。


 そしてとうとう事件は起きた。

 三人は月例の墓参に広徳寺へ行く予定であったが、この日は朝から不思議と玉姫の機嫌が悪く、わがままを言っておこうを困らせていた。

 おこうは仕方なく、赤子の頃のように将棋駒を二、三個握らせてなだめると漸く聞き分けたが、玉姫はどことなく不安そうな表情を浮かべたままだった。


 広徳寺へは滞りなく着き、それから墓前に香華こうげを手向け、皆で手を合わせて、切なくも穏やかなひと時を過ごすことができた。


 そろそろ本郷に戻ろうかと利章が言ったところ、背後の竹藪からガサッと物音がした。

 狸でも出たかと若党の一人が振り向いたその刹那、黒い影が竹藪より躍り出た。

 覆面をした野袴の武士で、手には脇差を抜いていた。

 賊は眼にも止まらぬ速さでおこうへと飛び掛かり、刃をその胸へと突立てたのである。


 おこうは「あっ…」と弱々しく叫んで、身を弓のようにしならせながら静かに地面へと倒れ込んだ。


 それまで玉姫としっかり繋いでいた手は、その衝撃でするりと離れてしまった。

 若党は刀を抜いて賊に斬りつけようとしたが、脇からもう一人の影が飛び出してきて、玉姫のことを抱きかかえて二人とも脱兎のごとく消え去ってしまったのである。

 利章にはどうすることもできないほどの、一瞬の出来事であった。


 賊は身なりから、二人とも侍のようであったが、家紋など付けているはずもなく、見た目からは詳しいことは分からなかった。

 利章は織田家の手合だと信じて疑わなかったが、それまではまさか今更報復には出てこないだろうという油断があった。

 おこうを討ち、玉姫をかどわかしたとしても、それが主君を殺された屈辱をそそぐことになるとは到底思えない。


 併し、世の中分別のある武士ばかりではない。

 武士の面目や主家のためではなく、嫌がらせのためだけに報復めいたことをする輩もいるということを、利章は知らなかった。


 おこうは胸を一突きされ即死だった。

 大名家の奉公人が殺害されたのであれば、本来なら大事件であり、公儀への届け出が必要である。


 事件は寺領内で起きたから、寺社奉行が事件を担当することになるが、この時広徳寺住職であった雲厳和尚は利章から事情を聞いて、奉行と掛け合って形式的な検視が行われただけに収めた。

 結局犯人も分からず終いである。

 事を大きくしたくない前田家としては、おこうのことも玉姫のことも真実は隠し続けるほかなかった。


 利章は己の油断を恨み、人目を憚らずに泣いた。

 おこうは奉公人の身分でありながら、采女と同じ墓に秘かに埋葬されたという。


       *


「————この時さらわれた玉姫が、中万字屋の名香太夫だと近頃知ったのだ」

 利章は兵助の眼を見つめて言った。

 これまで利章の語る過去に対して静かに耳を傾けていた兵助であったが、最後の言葉を聞いてハッとした。

 大聖寺藩主前田利章が、名香太夫を落籍しようとしていた理由が、今はっきりと合点がいった。


「兵助よ、予はどうしても名香太夫を、いや玉姫をこの手に取り戻したい。それが亡くなられた采女様と奥様への懺悔となるからだ」

 利章はおこうのことを奥様と呼んだ。


「予も何かいい方策はないか思案を巡らしてきた。だが今となっては天下に聞こえる遊女となってしまった玉姫を、どのような方法であれ身請けをすれば、民の耳目を集めてしまう。ひいては名香太夫が采女様の姫であったことが世に知れ渡ってしまうやもしれぬ。それに拙いことに大和屋が横槍を入れてきた。予はうつけの振りをして、放蕩に見せかけて秘かに千両の蓄財をしてきたのだが、あ奴は天下一の豪商なれば金の多寡では予に勝ち目はない。だが太夫と中万字屋が巧いことを才覚を致し、争い将棋へと持ち込んでくれた。本来ならば予が指して自らの手で太夫を救い出したいところであるが、然様さようなわけにもいかぬ。家中の者を代指しに遣るわけにもいかず、ほとほと困り果てておったところ、お主の噂を聞きつけたのだ。それに市之進の知り合いであれば我ら前田家との縁辺がないではない。予はお主に懸けてみることに決めた。予の名代として、どうか大和屋に勝ってほしい」


 利章は改めて兵助の顔を真っ直ぐに見据えた後、両手を畳について深々と頭を下げた。


 大聖寺七万三千石の大名が、素町人である兵助に対して、手をついて懇願している。

 兵助のみならず、その様子を見ていた清三郎や市之進も、気を失わんばかりに驚愕していた。

 家老の生駒監物は、主君の采女とおこうに対する深い思慕を目の当たりにし、男泣きに哭いていた。

「お、お殿様、もったいのうございます。この兵助、必ずや将棋に勝ち、玉姫を救い出してみせまする!」

 利章の心情にほだされ、兵助は思わず大見得を切っていた。

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