第十章 采女とおこう②
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切腹の沙汰が下る間際、采女は利章に遺言を預けていた。
妻と、一人娘の玉姫に向けてのものだった。
采女は正室を娶ることはなかったが、たった一人だけ、その短い生涯の中で愛した女性がいた。
まだ采女が十九歳の頃。
既に元服を済ませ、名目上は万石の所領を有する大名ではあったが、実際には大名としての政務をする組織を持つわけではなく、部屋住みの如き暮らしであった。
大身旗本の次男坊などは、部屋住みの身分でありながら、暇と金を持て余して享楽に傾く者も多かったというが、采女は常に倹約に努め、性格も生真面目で、町へ出歩くこともほとんどなかった。
この頃、采女の御殿に屋敷奉公に来ていたおこうという娘がいた。
大聖寺新田藩は小藩ゆえ、万事収入が少なく、人を雇うにも思うに任せない。
口入屋に依頼して漸く探してきた娘だった。
口入屋の話では、おこうの父はとある高名な蒔絵師某の次男であったが、ある時馴染みの料理屋の娘と恋仲になり、その娘と駈落ち同然に、修業と称して北国より江戸に出て、そのまま指物職人として神田須田町にて暮らしていたという。
おこうは神田で生まれ育ち、すっかり垢抜けた江戸の町娘のようであるが、所作にどことなく風流な趣があるのは、父の流れが美術を家芸とする家系だったからだろうか。
その両親は、数年前に流行り病で既に他界していた。
父母ともにその馴れ初めのせいもあってか、郷里のことはめったに口にしなかったから、おこうは自分の出自のこともよく知らなかったし、江戸には親戚縁者も一人もいなかったようである。
今では長屋の大家が親代わりとして身元を引き受けている。もしお屋敷勤めになったことを知ったら、両親もさぞかし喜んだろうと、大家は涙を流して喜ぶほどであった。
おこうは裏長屋の侘しい暮らしではあったが、生れながらに容貌優れ、肌の色は抜けるように白く、大きな瞳と長い睫毛をした、神田一の美人と町でも評判だった。
併し真に称賛すべきはその人柄で、大らかで気品があり、明るく心根は優しく、誰からも好かれ、働き者のまじめな気性であった。
屋敷の人々は、よくぞあのような善き娘を寄越してくれたと、口入屋の手柄を口々に喝采した。
名家の四男として何の苦労もなく過ごしてきた青年藩主の采女には、この町娘が甲斐甲斐しく働く姿が新鮮に思え、事あるごとに采女のほうから親し気に言葉をかけたという。
以前こんなことがあった。
奥御殿のどこからか、三味線の音が聴こえてきた。
小藩ゆえに表と奥の区別が厳密にはなされていない状況であったから、采女はその音色につられて何とはなしに音のする部屋を覗き見た。
するとその部屋では、おこうが何やら舞を踊っている。
町人の間で踊られるような素朴な風流踊りの舞であったが、その姿は殿中の誰よりも品があって可憐で、采女には天女が舞い降りたかの如く見えたという。
采女が奥御殿にいたことを知らぬとは言え、おこうは仕事をせずに戯れていたことを大いに恥じて詫びたが、采女は笑って不問にした。
そしていつしか二人は恋に落ち、おこうは子を身籠った。
だがこの時采女は若干十九歳。
藩主として独立したばかりであり、その地固めのために後ろ盾となる某大名の娘を正室に迎えるという縁談が、本家加賀藩の指示で進められていた。
それでも采女のおこうを思う気持ちは変わらず、せめておこうを側室として側に置くことを主張したが、正室を娶るのと同時期に側室を迎えるのは先方が難色を示すであろうとして受け入れられなかった。
それに、もし生まれてくる子が男子の場合、今後正室を迎えるに当たっても世継ぎ問題が起きることも懸念されていた。
幸いなことに生まれた子は女子であったが、家老たちは一計を講じ、その子玉姫を加賀本家江戸家老奥村家の養女とし、おこうはその乳母として、これまでと変わらず奉公人の立場で仕えることになった。
仲を引き裂かれた形となった采女の傷心はいかばかりであったろうか。
結局正室を迎えるという話は、諸事情ありとしてこの時破談になっている。
采女の御家に対する精一杯の反抗であったのかも知れない。
おこうは藩主である采女の将来を慮り、涙を飲んで身を引くことが最善と判断したようである。
だが誰より苦しかったのは、おこうのほうだったろう。
江戸家老奥村兵部は、玉姫を自身の娘として養育することになったが、それには相当な苦労があったようである。
玉姫が采女とおこうとの間に出来た子だということはごく限られた人々しか知らない。
それを悟られぬよう主家の血筋の姫を育てるのは容易ではなかった。
結局奥村兵部自身が病に倒れ、わずか一年もせずに卒してしまった。
家中は混乱に陥ったが、最終的に玉姫は江戸在府となっている藩主の子弟たちと共に奥御殿で秘かに暮らすようになった。
この時奥御殿には、加賀藩主前田綱紀の五男で後の大聖寺藩主である利章も居住していた。
利章がまだ十五歳で、富五郎と名乗っていた頃である。
利章は、歳の近い采女のことを兄のように慕っていた。
そしてまた采女も、利章を弟のように可愛がっていた。
利章は玉姫と暮らすことになった時、采女から直々に宜しく頼むと告げられていた。
采女としては、家中では利章が一番気の置けない人物だったのだろう。
元服前とは言え、既に十五になっていた利章は、ある程度采女の事情を理解していたに違いない。
玉姫の境遇に対しても同情があった。
だから利章は、玉姫のことを本当の妹のように慈しんだ。
玉姫はまだ一つで、二人の年の差はかなりあったが、利章は采女の言いつけ通りまめに玉姫の面倒を見た。
利章は子供の頃より将棋を愛好し、その才能も秀でていたのだが、まだ赤子である玉姫にも駒を触らせて一緒に遊んだりもした。
玉姫はどんなにむずがっている時にも、将棋の駒を握らすと不思議と泣き止んだという。
一見平穏な生活が流れているようだったが、そんな日々は長くは続かなかった。
宝永六年、玉姫が五歳の時、寛永寺であの事件が起こるのである。




