第二章 上方からの棋客①
清三郎は明らかな不利を自覚していた。
手合いは清三郎の香落ちである。だが冷静になってみると、香落ちで勝てるような相手ではなかったのかも知れない。
勝負師を自称している清三郎ではあるが、生まれつきの性格からか、どうにも狡猾さや老獪さを欠いているようなところがある。
過度な盤外戦術も潔しとはしなかった。
それでもこれまでに潜ってきた修羅場の数は、そんじょそこらの将棋指しには負けないと思っている。
賭場で鍛えられた危険を察知する能力に関しては、他に引けを取らないという自負があった。
清三郎が男と対峙した時、本能的に悪い予感がしたが、勝負を受けないわけにはいかなかった。
とある寺に、上方から来た棋客が逗留しているという噂を聞いたのは、つい二、三日前のことだ。
その棋客は、一見するとどこぞの旅商人のように見えたというが、本当のところは分からない。
その男の棋力は確かで、深川近隣の愛棋家を次々に相手にしては、勝ちを上げ続けているらしい。
額は不明だが、もちろん印将棋であろう。
暫くの間江戸に滞在して、荒稼ぎをした後に上方へ帰る算段に違いない。
ここまではよくある話で、初め清三郎はその棋客に何の関心も持たなかったのだが、その男が「江戸の将棋指しは取るに足らない」と嘯いているのを聞いて、頭にカッと血が上った。
だから、弟分の佐吉から、「助っ人に来てほしい」と頼まれた時、初手から断るつもりはなかった。
上方の将棋指しに馬鹿にされたままでは、江戸っ子の面子に係わる。ここは何としても一矢報いなければならない。
男が逗留していたのは、深川東端の洲崎弁財天近くにある無住の阿弥陀堂である。
洲崎弁財天は、元禄十三年護持院隆光大僧正の尽力により、五代将軍綱吉の生母桂昌院の守本尊である弁財天を祀ることにより創建され、元々は護持院の末寺として、海潮山増福院吉祥寺と号した寺であった。
その阿弥陀堂は、弁財天の裏手の、人通りもまばらなところにひっそりとあった。
清三郎が佐吉と連れ立ってお堂の中へと入ると、窓のない堂内は、昼だというのに真っ暗で、ゆらゆらと蝋燭の光が怪しく揺れて、阿弥陀如来と一人の男の姿を照らしていた。
男はどうやら、将棋盤の前で胡坐をかいて座っているようである。
手甲脚絆に股引履きの旅装のままで、菅笠だけは脱いで傍らに置かれていた。
小柄な体型で、清三郎が入ってきてもこちらには背を向けたままでいる。
やはりただの愛棋家ではなく、ささくれ立った雰囲気を身に纏っているのが一目で分かった。
恐らく土地の旦那衆を相手にし、路銀を稼ぎながら全国を旅してきたのだろう。
江戸で大きく稼ぎ、郷里で一旗揚げようという企みが、透けて見える。
「お初お目にかかりやす。あっしが深川蛤町の鳶、清三郎ってもんです」
清三郎は男の顔を覗き込むようにして言うと、男は清三郎の存在に今気づいたかのようにして、
「へえまいど。わいは大坂炭屋の大助ちゅうもんだす。わいに何ぞ用でっか?」
と、とぼけた調子で言った。
大助の顔は、長旅のせいで色は黒いが、思いのほか童顔で無頼の棋客のようには見えない。
歳はまだ三十前のように見えた。
「何か用かって、おめえさんと将棋を指しにここへ来たに決まってるじゃねえか」
「ハテ?わいはにいやんのようなお強そうなお人と指すつもりはありまへんで。何かの間違いやないでっか」
「それが俺のほうにはあんたと指すわけがあるのよ。あんたは江戸の将棋指しは大したことねえって、そう方々《ほうぼう》で言いふらしてるらしいじゃねえか。本物の江戸の将棋指しがどんなもんか、俺がおせえてやるよ」
清三郎の威勢のいい台詞を聞いて、大助はふっと鼻で嗤ったように見えた。
「わいもそろそろ大坂へ帰らなあかんさかい、あんさんみたいな若造を相手にしてる暇はないんやがなあ」
大して歳の違わない清三郎を、殊更に子ども扱いしてくる。
清三郎は腹の中で憤ったが、努めて平静を装って、
「馬鹿言っちゃあいけねえよ。この深川中探したって、俺くらいの将棋指しはそうそういるもんじゃねえ。大坂から来たか知らねえが、余所者にデカいツラさせとくわけにはいかねえもんでね」
清三郎は精一杯啖呵を切ったつもりだったが、大助は平気な顔をして、
「さよか。ほならお手合わせ願いますわ。手合いはどないする?わいの香落ちでええか?」
将棋に於いて、手合割の設定は非常に繊細な問題である。
敢えて自分の棋力を低く申告するようなことがあれば、実力差が正確に反映できず、勝負が成立しなくなるおそれがあるからだ。
特に賭け将棋の場合は難しく、通常は顔見知り同士や知人の紹介があって、事前にお互いの棋力を知った上で指すのがほとんどだった。
もし知らない人物と指すような場合には、細心の注意を払わねばならない。
大助が清三郎を挑発してきているのは明らかであったが、頭に血が上った清三郎は、挑発に乗ったら拙いと知りつつも、どうにも我慢が効かなった。
「いや俺が香を引こう」
この時、大助の口元がニヤリと歪んだ。
「ほいで、なんぼ張りますんや?わいはいくらでもかまへんで」
「俺もいくらでも構わねえと言いてえとこだが、あいにく持ち合わせがねえ。まずは一両ってとこでどうだい?」
博奕で五十両だ百両だという金額が出てくるのは、所詮芝居や戯作の中での話で、実際には一両か二両の金が動くのがせいぜいだったようである。
だが宵越しの銭は持たないと自負する清三郎が、一両の金を持ち合わせるはずもない。
それを悟られぬよう平然と言って見せると、
「随分としわいことを言いますの。まあわいはいくらでもかまへんさかいこの勝負受けたりますわ」
大助は余裕の表情をして言った。
*
早朝、兵助長屋の戸を叩く者があり、一家の安眠は破られた。
「ごめんください、兵助さんはいらっしゃいますか?ごめんください」
どうやら若い男のようではあるが、聞いたことのない声だった。
時間は明六ツの頃で、外はまだ少し薄暗い。
周囲に配慮してか男の声は低かったが、その感じからは焦っているような様子が伺える。
「どなただか知らねえがこんな朝っぱらから何の用ですかい?」
政五郎が部屋の中から声だけで応対すると、
「へいあっしは清三郎兄貴の弟分で、佐吉と申しやす。実は兄貴から兵助さんを呼んでくるように頼まれたんで。朝早くで申し訳ねえんですが、ちょいと顔を貸していただきてえんです」
相変わらず佐吉の声は低い。
清三郎の名前が出てきたので、政五郎は兵助と顔を見合わせたが、兵助は無言で頭を振って事情が飲み込めないといった表情をしている。
佐吉という名前にも聞き覚えがなかった。
政五郎は夜具から起き出して、戸を薄く開けて用心しながら、
「清三郎のやつに何があったから知らねえが、いってえ何の用だい?随分と慌ててるようだが」
佐吉は、政五郎の姿を戸の隙間から覗き見ると、少しほっとしたように太い息をついてから、
「実は今、洲崎弁天の裏で将棋をやっていやして。大坂から来た野郎だっていうんですが、どうにもキツい指し手で、清三郎の兄貴が苦戦をしてるんです。だから兵助さんに助っ人に来ていただきてえんで」
「おめえそいつは印将棋をしてるってことかい?」
「へえ実はそうなんで。もう昨夜っから随分とやられちまって、負けを取り返すためにゃひとつデカい勝負に出なくちゃなりません。ただこっちが駒を落としたんじゃ勝つ見込みはねえ相手でして、是非兵助の兄貴に助けてほしいんです」
佐吉は頭を下げて頼み込んでいるが、この台詞を聞いて政五郎の顔色は変わった。
戸をガラッと全て開け、仁王立ちになって佐吉に向かって、
「馬鹿を言うな。兵助はまだ餓鬼だぞ。博奕なんかさせられるかい!」
近所に響き渡る大音で一括した。
「えっ兵助さんは将棋の腕じゃ清三郎の兄貴以上。ここいらじゃ敵なしの指し手だって聞きましたぜ。あ、あなたが兵助さんじゃねえんですか?」
佐吉は政五郎の突然の怒号に怯え切っている。
本当に政五郎のことを兵助だと思い込んでいたようだ。
「兵助は俺の倅よ。確かに将棋は強えがまだ餓鬼なのも本当だ。悪いが他を当たってくんな」
「そいつは困ります!このままじゃ清三郎の兄貴が身ぐるみ剥がされて大川に放り込まれちまいますよ」
佐吉はひしゃげたような顔をして、政五郎に縋りついて泣声を上げた。
これまで仁王立ちで腕を組んでいた政五郎は、一つ大きな溜息をつくと、その場にどっかりと座り込んだ。
兵助のほうをチラと見ると、
「おれは別に助けに行ってもいいよ」
兵助は子供ならではの無邪気さで言った。
「馬鹿なこと言っちゃいけないよ。兵助が博奕を覚えたらどうすんのさ。いくら将棋が強いといったって、この子はまだ子供なんだよ。危ない目に合うかもしれないし、そんなとこに行かすわけにゃいかないよ」
そう反論したのは母のおさきである。
さっきまで黙って男たちのやり取りを見ていたが、とうとう我慢ならなくなったようだ。
「だが清三郎のやつをほっとくわけにゃいかねえだろう」
「清さんはもう子供じゃないんだよ。自分の尻くらい自分で拭いてくれなくちゃ困るよ。これで博奕狂いも治るかもしれないしいい薬だよ」
「おっかさんそれはかわいそうだよ。清さんにはいつも世話になってるし、おれは近頃強い人と指してないから、その大坂の人と指してみてえな」
「どうかお坊ちゃんもこの通り言ってますし、お願いいたしやす」
佐吉はこの機を逃すまいとばかりに、低頭して懇願した。
おさきがまた何かを言おうとしたその時、そこにひとりの人影が、薄闇からのっそり現れた。
「朝っぱらから何してんだい?煩くってしょうがないって近所から文句が出てるよ」
やって来たのは長屋の大家長兵衛である。
眠そうな目を擦りながら、うんざりした表情で言った。
長屋の大家というのは一般的に、その長屋の所有者ではなく、差配、所謂管理人である。
長屋の持ち主は家持や地主と呼ばれ、大家とは区別されていた。
大家は管理人として、地主に代わり店賃を店子から集め、地主の義務である公用と町用を代行する。
自身の管理する長屋から犯罪者などが出れば、連座して大家も罰せられるという危険もあったから、大家は常日頃から店子の行動を監視し、積極的に関わり合いを持とうとしていたのである。
「あら大家さんいいところに来てくださいました。実は清さんが印将棋で負けてるってんで、うちの兵助を助っ人に寄越してくれなんて言ってるんですよ。こんな子供を博奕の助っ人になんかやるわけにはいきませんよ」
おさきが大仰な口調で訴え出ると、それを聞いた長兵衛は、漸く目が覚めたような表情になって、佐吉に問うた。
「なんだって?清三郎がそんなことになってるとはあたしも知らなかったよ。そいつはどこでやってるんだい?」
「へい洲崎弁天裏のお堂で、夜明かしでやっておりやして」
「ふむすぐ近くじゃないか。それで清三郎は無事なのかい?」
「今のところは無事でしょうが、このままじゃどうなるか知りませんぜ」
佐吉は真顔で応えた。
この言葉を聞いて、さすがに長兵衛の顔は曇った。
もし清三郎に何かあったら、自分にとっても面倒なことになると、咄嗟に判断したようである。
「政五郎さんはどう考えているんだい?」
「あっしは兵助をやってもいいと思ってるんですがね。清三郎のやつを見捨てるわけにもいかねえし、倅を買いかぶるわけじゃねえが、こいつなら何とか上手いこと収めてくれるんじゃねえかって思ってまして」
政五郎が熱く語る姿を見て、おさきは半ば呆れている。
その横で長兵衛は俯いて考え込んでいたが、やがて意を決したようにして言った。
「よし分かった。あたしが兵助と一緒に清三郎のとこまで行ってあげよう。子供をひとりでやるわけにはいかないし、政五郎さんは仕事があるだろう。あたしゃ暇だからね」
「大家さんそいつはありがてえ。大家さんがついていりゃあ百人力でさあ。なあ兵助よ」
「ちょいと大家さん、余計なことしちゃ困りますよ。兵助に何かあったらどうするつもりなんですか?」
「まあまあおさきさん、あたしだってこの長屋で何か事を起こされちゃ拙いんだ。大家と言えば親も同然、店子といえば子も同然。悪いようにはしないから任せておきなさい」