第八章 二人の異才①
兵助が市之進と将棋を指した時から、若干の月日が過ぎた。
あれから市之進にも茂右衛門にも何の動きはなく、ある意味平穏な日々が戻ってきたように見えた。
だがそれは束の間の平和に過ぎなかったようだ。
或る日の夜、兵助が夕食直後一家団欒のひと時を過ごしていると、無言で長屋の戸を叩く者がある。
長屋の者ではないらしく、父の政五郎が警戒して応対に出ると、そこには編笠を手に持ち、羽織袴に大小の二本差し、提灯を持たせた中間を一人、傍らに控えさせた男が立っていた。
言うまでもなく、正装をしたどこぞの武士である。
「大工政五郎が倅、兵助の居宅はここであるか?」
武士は周囲を気にするように低い声で言った。
侍の目的が予想外にも兵助であったので、政五郎とおさきは思わず互いに顔を見合わせて、
「へい、いかにも兵助はあっしの倅でございますが、お侍様が何ぞ御用でしょうか?」
緊張した口調で返答する政五郎の背中の後ろで、兵助は小さくなっている。
「ならばチト話がしたい。む、その方が兵助か」
背中に隠れた兵助を認めて、武士は眼つきを鋭くした。
「おれが兵助だけど…何か御用ですか…?」
青ざめている母のおさきを横目に見て、兵助は観念して応えた。
「そのように案じなくともよい。拙者は大聖寺前田家家中、高木長十郎と申す。家老生駒監物の使いで参った」
男はまだ二十代くらいの若侍で、自身も緊張しているのが口振りから分かる。その様子は両親を幾分安心させたようだが、まだ二人とも事態は飲み込めずにいる。
一方で兵助は、大聖寺家と聞いてピンと来るものがあった。
「打ち付けに誠に忝いが、兵助にひとつ頼み事があり参った次第である」
長十郎は兵助に向かい、少し頭を下げる素振りをした。
至って丁重な態度ではあるが、むしろ侍がそのように下手に出てくること自体が、政五郎にとっては訝しい。
「お侍様、どんな頼み事かは知りませんが、兵助はまだ餓鬼です。このような餓鬼が、お武家様に何か満足にできることもねえでしょう。何かの間違いじゃねえですか?」
「それが間違いではない。我らは兵助の力がどうしても必要なのだ。話を聞いてくれるな?」
長十郎は兵助の眼をじっと見つめた。兵助には、きっと市之進や大和屋と何か関係があるのだろうと、この時察しがついた。
ひょっとすると、いよいよ大和屋との戦いが近づいたのかも知れない。
兵助は黙って頷いた。
「忝い。人払いを願いたいが、ここではそうもいかぬであろう。隣の清三郎が部屋に、拙者と共に参ってくれい」
驚く両親を尻目に、兵助は長十郎と共に隣へ向かった。
薄暗い部屋の中では、清三郎が不貞腐れた様子で胡坐をかいている。
どうやら最初にここへ来て話を付けてきたようである。
清三郎には遠慮をせずに、率直に話をしたのだろう。
一息つくと長十郎は、周囲に聞かれぬよう細心の注意を払ってここに来た理由を語り始めた。
「我らが殿は、故あって吉原の遊女名香太夫を落籍しようとしておられる。だが拙いことに、彼の大和屋茂右衛門も同じく太夫の身請けをしようと動いているという。お互いに才覚を巡らしておったところであるが、十日ほど前、大和屋より一通の書状が届いた。その中身は、太夫の身請けを懸けて争い将棋をしようということであった。太夫の提案であったそうだが、潔く将棋で白黒を付けようということなのだろう。知っての通り、我らが殿は将棋の腕には折り紙付き。大和屋と指して万に一つも負けるはずはないが、大名直々に争い将棋を指して、公儀に知られようものならそれは拙い。そこで代指しを申し出たところ、大和屋のほうも代指しを立てるということで合意となった。家中には名うての将棋指しが二、三いるが、主家を代表して争い将棋をするわけにもいかぬ。誰か我らに縁のある在野の棋士がおらぬか探し回っていたところ、先日殿が墓参りに行った折、そこの和尚より面白い話を聞いた。それがお主のことじゃ。まだ童子なれど将棋の腕甚だ強く、この江戸市中にて敵う者極めて稀なりと。これは正に天啓の導きによるもの。和尚よりお主の居所を聞き、斯様にして参ったわけじゃ」
下谷広徳寺は多くの大名家からの帰依を受けており、加賀前田家一門の菩提寺でもあった。
藩侯は忌日には直々に広徳寺へ日参するのが習わしで、愛棋家の利章であるから、雲厳老師との会話で兵助の名前が出てきても少しも不思議ではない。
話し終わってから長十郎は、兵助の顔色を窺った。
大名家の代指しというのは、尋常に考えれば一介の素町人には荷が重すぎる役割だということを、長十郎自身も重々承知している。
「お侍様、そいつはいくらなんでも無茶だ。こいつはいくら将棋が強えと言っても、まだ小僧っ子だ。こいつに背負わすには荷が重すぎますぜ。な、兵助よ」
清三郎が呆れたように言った。
すると、間髪を入れずに兵助が、
「おれ、この話受けます。おれが指して、大和屋をやっつけてみせます」
「お、おめえ正気か?市之進様の代指しをするのとわけが違うんだぜ。大名の代指しなんかできるわけねえだろ。負けたら首を刎ねられちまうかもしれねえんだ。おめえに得なんざ一つもねえんだぜ」
「いや、おれはやるよ。大和屋を倒さなくちゃ市之進様のお嬢様も救えない。おれの将棋を必要としてる人たちがいるんだ。それを裏切るわけにはいかないよ」
兵助の顔には、自信と決意が漲っていた。人を活かすための将棋を指そうと、既に心に決めていたのである。
「きっとおれと大和屋はいつか戦わなくちゃならない運命だったんだ。大和屋の代指しをするのは市之進様を倒した盲人棋士だろうけど、おれは絶対勝つから心配いらないよ」
兵助の言葉を聞いて、清三郎は何も言えなくなってしまった。
兵助はいつだって、強敵を前にしても一歩も引かなかった。
自分が信じてやらないでどうする、と清三郎は考えを改めた。
「おおっ受けてくれるか。これは忝い。これで我らの顔も立つというものだ。それに負けたからとて首を刎ねるなどと言うことはない。将棋は勝つ時もあれば負ける時もあることを、一番よく知っているのは我らが殿じゃ。だが油断召されるなよ。大和屋の代指しは、今は老齢なれど、昔は名人に勝ちを得たこともあると聞くぞ」
さっきは絶対勝つと啖呵を切った兵助であったが、今の実力で確実に勝てるという保証はない。
雲厳老師の言っていたように、一層心の修業と技の修業に励まなくてはならない。
「お侍様、勝負の日はいつですか?」
「それは未だ定まっておらぬ。ひと月後を目安に考えておるがいかがであるか?大和屋は場所を、吉原は中万字屋に指定してきておる」
兵助は力強く頷いた。あと一ヶ月の間に厳しい修業をして、きっともっと強くなってやる、と改めて気合を入れ直した。
長十郎は詳細を伝え終わると、夜の闇へと消えていった。
兵助は何食わぬ顔で自宅へと戻ったが、政五郎とおさきは気が気でない様子でいる。
どうやら隣での会話は、二人には聞こえていなかったようだ。
兵助は平然として、「お殿様がおれと将棋を指したいんだって」と適当な嘘をついて誤魔化したが、それだけでも両親は大騒ぎであった。




