第七章 遊女名香①
「どうしたんだい?子供のくせに朝から溜息なんかついちゃって」
母のおさきが、兵助の様子がおかしいことに気づいて聞いた。
「昨日清さんと何かあったのかい?二人で出かけたのに遅くに一人で帰って来たりして。大方喧嘩でもしたんだろう?」
兵助は昨日、自分の気持ちを隠すために清三郎に当たってしまった。
だが雲厳老師の言葉を聞いた今では、自分が間違っていたことが分かる。
謝りたい気持ちはあったが、清三郎に顔を合わすのが気恥ずかしく、素直に会いに行けずに悶々としていた。
その時、
「ごめんくださいよ。兵助いるかい?」
玄関の戸がガラッと開いて、清三郎がいつもと変わらぬ調子でやって来た。
清三郎は昨日の吉原での話を兵助に報告しに来たのだが、仲直りがしたい兵助にとっては渡りに舟であった。
清三郎が話出す前に、兵助はこれまで隠していた気持ちを包み隠さずに吐き出した。
「清さん昨日はごめんよ。おれ本当は、真剣に将棋を指すことが怖かったんだ。負けちまったらどうしようってそればっかり考えて、良い将棋が指せなかった。でも今は違う。勝つために自分の指せる精一杯の将棋を指すって決めたんだ。印将棋も今までは嫌だって言ってたけど、人のために指すんだったらもう嫌じゃない。浦上様の助太刀もしようと思ってる」
「様子がおかしいとは思ってたが、おめえがそんな風に思ってたとはね。そら勝負なんだから勝つ時もあれば負ける時もある。だがおめえが何でも背負いこむことはねえんだ。おめえの将棋の才は俺が一番よく知ってる。おめえは間違いなく本物だぜ。余計な心配はすんな」
兵助は清三郎に褒められて心底嬉しかった。
兵助自身も、自分の将棋の一番の理解者は清三郎だということを知っている。
兵助と清三郎は、お互いによき相棒であることを改めて認識したのである。
首尾よく仲直りができた兵助は、これまでとは打って変わって明るく話し出した。
「ところで清さんはあの後何か分かったことはあったかい?」
「ああ。あの後吉原へ行ってみたんだが、どうやら中万字屋は浦上様の娘を返してやりてえって思ってるらしいんだ。だが大和屋の野郎が横槍を入れて返しちゃくれねえ。大和屋は中万字屋抱えの名香ってお女郎の上客で、楼主も強くは言えねえ様子よ。何か俺たちに策があるってんなら楼主は合力してくれるってんだが、何も策なんざあるはずもねえ。中万字屋みたいな上等な妓楼にゃ俺みてえな風体じゃ上げちゃくれねえし、仕方ねえから太夫の道中を見物して帰って来たってわけよ。おめえも何か妙案はねえのかい?」
兵助は難しい顔をして考えているようだったが、何も妙案がないであろうことは傍から見てて明らかだった。清三郎はあきれ顔で、
「こりゃ浦上様に一度話してみる他ねえな」
と溜息をついた、この時兵助が、
「その前に紀文さんに話してみるのはどうだろう。あのおじいさん、昔は大和屋と商売敵だったっていうだろう?」
紀文と大和屋が、同じ材木商として互いにその権勢を競った仲というのは、江戸に住む者なら誰でも知っている。
当然清三郎も承知だが、
「紀文ってあの紀文大尽のことか?何寝ぼけていやがる。どうやって話を持って行くつもりだよ?昔は大和屋なんかより金持ちで、吉原で相当豪遊をしたっていうが、近頃めっきり噂も聞かねえし、生きているのか死んでいるのか、どこに住んでいるのかも知れねえ」
「おれあの人の家知ってるよ。ついこの間遊びに行ったばっかりだ。今はそこまでお金持ちじゃなさそうだったけど、いろんなことを知ってるみたいだし、顔が広そうだった。いつでも訪ねて来いって言ってたから、行ったら何かいい案をおせえてくれるはずだよ」
兵助は以前紀文にあった時の出来事を、嘘偽りなくそのままに話したが、
「どうも信じられねえな。変な野郎に担がれたんじゃねえのか?大体今の紀文の家はどこにあるっていうんだ?まさかこの深川にございってわけじゃねえだろ」
結局清三郎はブツブツと文句を言いながら、兵助の後に続いて深川八幡の参道を歩いている。
二人は直ぐに一の鳥居までやってきた。
紀文が居住する裏路地にあるごく地味な一軒店は、外から見ると相変わらず営業しているのか分からない。
戸に閉まりはなく。兵助は手慣れた様子で戸をガラガラと引いた。
「ごめんください」
兵助が大音で声をかける。店の内部はこの前と変わらず、三和土には空のざるが二、三個あるだけだ。帳場にも人の姿はない。
「おい本当にここが紀文大尽の家だってのかよ?」
店の奥からは何の反応もなく、清三郎が訝しんで兵助を問い詰めていると、廊下を宗匠頭巾の老人がゆっくりと現れた。
「やあ兵助か。久しぶりであったな。元気にしておったか?おやそこに居る御仁は、お主の親父どのか?」
まだそんな歳ではない清三郎は、兵助の父親扱いをされてムッとしている。
「この人はおれの将棋仲間で、鳶をしている清三郎さんだよ」
「おおそうか。ところでお主、本所の御屋敷では上手いこと将棋を指せたようじゃな。七郎から便りが来たが、随分とお主のことを褒めておったぞ」
「本当ですか!おれも七郎様からはいろんなことをおせえてもらいました。お礼に来なきゃいけなかったんだけど、つい来そびれちゃって。その節はありがとうございました。紀文さんの名前を出したらすぐに通してくれましたよ」
それまで眉間に皺を寄せながら二人の会話を聞いていた清三郎は、紀文の名前を聞いて、ハッと気づいたようにして、
「じいさん本当にあの紀文大尽なのかい?若い時分は随分と吉原で遊んだって聞くが、そいつも本当ですか?」
「ははは。疑るのも無理はないかもしれぬが、わしが如何にも紀伊国屋文左衛門じゃ。今はこうして俳諧に興じて気ままにひっそりと暮らしておる。わしがここに居ることは内緒にしておいてくれよ」
「じゃあ紀文さん、あんた大和屋茂右衛門とは顔見知りですかい?」
「む、大和屋とな」
大和屋の名を聞いて、紀文の目許は少し引き締まった。
「先代の大和屋とは商売で競った仲じゃ。先代は一代で江戸屈指の商人となりおった。恐るべき商才であったのう」
「その倅については何か知っておりますかい?」
「当代の大和屋についてはよう知らんのう。吉原での放蕩ぶりは、俳諧仲間からわしの耳にも入ってきておるがの」
「そいつは名香太夫とのことですかい?」
「よく知っておるの。当代の大和屋は、名香太夫に入れ込んでおると聞くぞ」
「じゃあ浦上市之進って侍についちゃ何か知っちゃいねえですか?」
「さあ聞いたことないのう。どこの侍じゃ?」
清三郎は事の顛末を最初から詳しく説明し出した。
最初は無表情で聞いていた紀文の眼つきは、次第に鋭さを増していった。
そして清三郎の話を聞き終わると、
「その浦上氏というお侍、富山前田家の浪人と申しておったな?」
「はいそいつは間違いねえですよ」
「そして将棋の強豪であるとな?」
「浦上様の将棋は筋が好くて強かったよ。江戸でもきっとめったにいないくらいだよ」
「大聖寺前田家の話は何かしておったか?」
「そういや大和屋から大聖寺家中に誰か知り合いがいないか聞かれたって言ってたな」
「————読めたぞ。大和屋が何を企んでおるかの」
「ええっそいつは一体なんですか!」
兵助と清三郎は声を合わせて驚いた。
清三郎の話と、二つ三つ質問をしただけで、この事件の背景が分かったのだという。
二人は興奮を抑えきれなかったが、紀文は敢えて抑えた口調で語り始めた。
「大和屋茂右衛門がその余りある身代に任せて、絶世の遊女名香太夫を身請けしようとしているのはもはや周知のこと。身請けに要するその額は千両でも足りぬと世間では言われておる。だがこれには、廓内でも一部の限られた者しかしらぬ話がある。それは、大聖寺候前田備後守が名香太夫の落籍に動いているという噂じゃ。なぜ大聖寺候が名香太夫を身請けしようとしておるのかは分からぬが、こうなった以上、大和屋と大聖寺家は敵同士。お互いに腹の探り合いをしようと試みるであろうが、いくら江戸屈指の豪商と雖も大名家の内情を伺い知ることは難しい。大和屋は大聖寺家中との縁辺を浦上どのに求めたが、何か不審を察した浦上どのは、主家を慮って断るのが道理。そこで見せしめの意味で、或いは大和屋の権勢は武士をも恐れぬことを示すために、浦上どのの息女を奪っていったのであろう。お主らの話を聞く限り、中万字屋は大和屋に身請けをさせたくないのかも知れない。だが大名家が絡んでくるとなると事は厄介じゃぞ。あまり深く首を突っ込むことになると、お主らも只では済まんかもしれん」




