第一章 序②
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兵助が将棋を覚えてから数年が経過した、享保十三年のある日の昼下がり。
家では母のおさきがいつもと変わらない調子で忙しなく部屋の掃除をしている。
左右に激しく振られる箒に煽られるように、兵助が玄関から飛び出してきた。
この日も朝から詰物を拵えていたが、家事に勤しむおさきに片付けられてしまったようだ。
そしてすることもなく、所在なげに長屋前の路地にしゃがみこんで、井戸端に植えられた朝顔の花を突いていた。
すると、隣の部屋の戸がガラリと開いて、若い男があくびをしながら出てきた。
隣人の清三郎である。
「どうした兵助。随分と暇そうだな」
清三郎の年齢はおそらく二十前後で、生国は上総だという。
子供の頃に奉公へ出され、それ以来この江戸で暮らしている。
生まれが江戸でないことに劣等感を抱いてか、必要以上に江戸っ子を自称するのが癖だが、実際にその様なさっぱりした気質なので、近所のおかみさん連中の評判は悪くなかった。
兵助一家とは家族ぐるみの付き合いで、清三郎も兵助を弟のようにかわいがっている。
兵助の父政五郎は生真面目な職人だが、清三郎の気楽な性格を気に入っているようで、色々と目に懸けてやっている。
清三郎も長屋の独り暮らしには何かと不自由が多く、掃除や洗濯・繕い物と、何かにつけておさきに頼みごとをしてくる。
おさきのほうも毎度手間賃を置いていってくれるので、いい家計の足しになるとして快く引き受けていた。
清三郎は、盲縞の腹掛けに、股引と紺木綿の腰切半纏を着て、麻裏草履をつっかけた粋な拵えで、今では鳶を生業としているというが、どうにも博奕が好きらしく、昼間っから鉄火場にいるようなことのほうが多かった。
丁半博打・盤双六など一通りの博奕には手を出してきたが、将棋のほうも鉄火場で鍛えた口である。
江戸の当時、賭け将棋のことを印或いは印将棋と言って、公には禁止されていたものの、町人の間では、賭けて指すのがごく当たり前であった。
「おめえ毎日詰物ばっかり作ってて飽きねえのか?」
「別に飽きないよ」
兵助は清三郎から顔を逸らして、拗ねたように言った。
口ではそう言っているものの、その顔つきからは明らかに現状に対する不満が見える。
詰物の創作も勿論楽しみの一つではあるが、この頃の兵助は、指し将棋の楽しさを漸く分かってきたところだ。
そもそも詰将棋を作り始めたのも、指し将棋で勝ちたかったからだということを、兵助は忘れてはいない。
「たまには誰か相手にして指したらどうなんだ?」
清三郎は伸びをしながら気怠そうに言った。
もうすっかり陽は高くなっていて、低い屋根に囲まれた棟割長屋の裏路地でも、庇の隙間から入る日差しが眩しい。
「おとっつあんこの頃湯屋の二階に連れてってくれねんだ。行っても指す相手がいないから、お足の無駄だって」
「何で指す相手がいねえんだ?あんなとこ、いつだって誰かしらいるもんだろ」
清三郎が不思議そうに問いかけると、兵助は曇った顔をしながら、溜息交じりに、
「いつもおれが勝っちゃうから、誰も相手してくれなくなっちまったんだよ」
「へっ生意気なことを言ってやがる」
言い終わってから清三郎は、兵助の顔が冗談を言っている風ではないのに気づいて、ますます不思議に思った。
その時、二人の話し声に気づいたおさきが、箒を片手に玄関から顔を出した。
狭い裏長屋での会話は、どこにも筒抜けだ。
「あら清さんちょうどよかったよ。この子の相手してやっておくれよ。家ん中閉じこもってばっかりで、掃除の邪魔ったらありゃしないんだよ」
「なんでえ藪から棒に。俺は餓鬼の子守なんざまっぴらごめんよ。これから仕事にも出かけなくちゃなんねえからな」
清三郎も退屈そうな兵助を気の毒に思わなくはなかったが、昼間から子供相手に将棋を指すのはいかにも冴えない。
「嘘おっしゃいよ。昼過ぎまで寝ておいて何が仕事だい。どうせ大方博奕にでも行くんだろう?後生だから頼むよ。断るんだったらもうこれからはおかずを分けてやんないからね」
清三郎は、兵助一家から余ったおかずや飯を度々貰っているから、それを取上げられるのは困る。
侘しい鰥夫暮らしの身にとっては、温かい手料理が何よりの御馳走だ。
それに、昼間から賭場に出入りするのも気が退けるし、種銭も充分には持ち合わせていない。
そして何より、清三郎も根っからの将棋好きである。
「そう言われちゃうとおかみさんには世話になってるから断れねえな。よし俺が一丁相手してやろうじゃねえか」
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「おい兵助、おめえいつもおとっつあんとの手合いはどうしてんだ?」
手合いとは、将棋に於けるハンディキャップのことで、将棋を指す時に棋力の差に応じた手合割を与えて、対等な勝負ができるようにするための仕組みである。
棋力に差がないときは、対局者両名とも二十枚の駒全てを並べて戦う。
これを平手という。棋力に差があるとき、その差に応じて上位者側の駒の一部を盤上から取り除いた状態で開始する。
これを駒落ちといい、駒を落とした側の対局者を上手、落とされた側の対局者を下手という。
「おとっつあんとはいつも平手だよ」
兵助は事も無げに答えた。
清三郎は更に訝しんだ。
清三郎と政五郎は好い棋敵だが、政五郎の将棋は堅実で、凡そ子供が相手になるようには思えない。
「平手でやっておめえ勝てんのか?」
「大体いっつもおれが勝つよ」
ふんと鼻を鳴らして、清三郎は我が意を得たりという顔をして、
「そりゃおめえ、おとっつあんが緩めてくれてんだろ。俺の場合はそうはいかねえぞ。本気で指すから覚悟しろよ。平手で一丁やろうじゃねえか」
百戦錬磨とまでは言わないまでも、清三郎も印将棋で様々な修羅場を潜ってきた自負がある。
昨日今日将棋を覚えたような小童に、簡単に負けるわけにはいかない。
清三郎は兵助を自分の部屋に招くと、押入れからよく使いこまれた将棋盤を出してきて、部屋の中央にどっかりと据えた。
祖父から譲り受けたものを、今でも大事に使っているのだという。
昼間だというのに室内は薄暗く、家具が少ないせいか将棋盤が異様な存在感を放っている。
その盤を挟んで、毛羽立った畳に直に座って、二人は対峙した。
清三郎はこの時、不思議な感覚を覚えた。
兵助が静かな手付きで駒を並べ始めると、部屋の中の空気がピリッと張り詰めたような気がしたのである。
祖父から昔話で、本当に強い者は、将棋を指すだけで空間の雰囲気を変えてしまうものだと聞かされたことがあった。
だがこれから指すのは、年端も行かぬ少年であって、段位持ちの棋士ではない。
それにこの薄汚い裏長屋の一室では、祖父の言うことも当てはまらないに違いないと、清三郎は頭を振って駒を並べ始めた。
兵助と清三郎の勝負は、二人きりでひっそりと始まった。
兵助は序盤から、時間を使わずにどんどん指してくる。定跡などは気にしない、荒っぽい駒組だ。
清三郎はこの時、やはりさっきのは気のせいで、この将棋は自分が勝つだろうと確信していた。
現実に、盤面は清三郎の模様が好くなっている。序盤に於いては、兵助の経験不足は明らかだった。
やがて兵助は、どうやら自分が不利な状況にあることを理解したようだ。
すると、これまでは鼻歌交じりで指していたのが、俄かに真剣な表情をしたかと思うと、前のめりになって盤面を凝視し始めた。
「今更考えたって遅いぜ。この勝負、悪いが俺の勝ちだ。ここまで差がついちゃもう逆転はねえよ」
清三郎の軽口を無視して、兵助はまだ考え込んでいる。
一見清三郎が優勢の局面に見えたが、兵助は、そこまでの差はついていないと評価していた。
まだまだ難解な局面で、一手で逆転の望みはある。
その一手を探すべく、兵助は深く読みを入れる。
最終盤になって、清三郎は△7八成銀(図)と兵助玉に詰めろをかけた。
清三郎の王将は金銀三枚でしっかりと囲われているのに、兵助のほうは丸裸に近い。
この状況で詰めろがかかればもはや成す術はないように思える。
清三郎は既に勝ちを確信していた。
昼飯に何を食べようかなどとのんびり構えていると、兵助は駒音高く次の手を指してきた。
やけに自信に満ちた手付きだった。
兵助の指した手は、▲6一飛車成の王手である。
清三郎はめんどくさそうに王手をはずした。
兵助は負けを悟って、闇雲に王手の連続で迫ろうとしているのだ。
初心者にありがちな指し方で、負けん気は買うが、まだまだ子供の将棋だな、と清三郎は少し笑みがこぼれた。
そんな清三郎にはお構いなしで、兵助は大駒をバッサリと切って後手玉に王手をかける。
その眼は爛々《らんらん》とした輝きを放っている。
清三郎は、未だかつてこんなに嬉しそうな顔をして将棋を指す者を見たことがなかった。
半ば呆れながら王手に応対していたはずが、気がつくと清三郎玉は隅に追いやられつつある。
それでも兵助の王手は止まらない。
そして清三郎は漸く悟った。
自玉が詰み筋に入っているのだと。
兵助が最初に王手をかけてから何手指したか、もはや清三郎は覚えていない。
最後は歩以外の駒が余らないピッタリの詰みであった。
それはまるで鎌鼬にあったかの如く、あっという間の出来事だった。
自分が負けたことすら気づかぬくらいの迅さで詰まされて、清三郎は投了するのすら忘れてしまっていた。
「清さんありがと」
兵助が満面の笑みで礼をして、やっとそこで清三郎は正気を取り戻した。
対局が終わった瞬間、部屋の空気が一気に緩んで、元の薄暗い長屋の一室に戻ったような気がした。
兵助はニコニコと笑顔で、局面を振り返っている。清三郎はそんな兵助の顔を眺めながら、この少年の持つ、類稀なる将棋の鬼才を感じ取っていた。
「こいつと一緒にいれば、何だかおもしれえことにいろいろ巡り逢えそうだな」
と、清三郎は何故だか分からないがそんな予感がしていた。