第六章 下谷広徳寺③
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一方その頃清三郎は、吉原にいた。
暮六ツの時間帯で、丁度夜見世が始まった頃である。
廓内には段々と人が集まりつつあった。
各妓楼では一斉に清掻が始まり、そかしこから三味線の音色が聞こえてくる。
赤い提灯を掲げた辻占売が、よく通る声で唄を吟じながら、横丁に佇んでいる。
その辻占売の前を、周りには目もくれず、清三郎がつむじ風の如く通り過ぎて行った。
通りでは料理屋の奉公人が、台の物を頭に乗せて、急ぎ足で揚屋や妓楼へ向かう姿が見える。
清三郎の足取りも、そんな奉公人たちと少しも変わりがない。
それとは対照的に、登楼を目論む遊客たちは、じっくり品定めするように、当てもなく廓内を徘徊している。
人影に紛れて清三郎は、まずはさよがいるという中万字屋の辺りで情報収集をしようと試みた。
中万字屋は、角町に楼閣を構える吉原随一の大見世で、高級妓楼だけあってここの遊女は張見世をしないから、見世の外から得られる情報は限られてくる。
当然辺りには、素見の客も見当たらない。
清三郎は仕方なく、見世の若い衆に直接話を聞いてみることにした。
「ちょいとごめんなさいよ。聞きてえことがあるんだがね」
「へいなんでございましょう」
若い衆はまずは威勢よく応答したものの、清三郎のなりを一瞥すると、一転冷淡な表情を浮かべた。
この頃の吉原では、半纏や法被を身に着けているような者たちは、中流以上の店には上がれないというしきたりがあった。
大見世の客は主に豪商であり、清三郎のようなただの町人などは端から相手にしていないのだ。
それでも清三郎は、持ち前の図々しさで、気にせずに質問を続けた。
「この見世に、さよって娘は働いちゃいねえかい?」
若い衆は清三郎の勢いに押されている。困惑しながらも一寸首をひねって思案する様子を見せたが直ぐに、
「さよねえ、知りませんねえ」
その表情から嘘をついているようではない。それでも清三郎は食い下がって、
「武家の娘って話なんだがね。まだ十やそこらの子供なんだが知らねえかい?」
若い衆は武家と聞いて何かピンと来たようだった。
「ああそれならうちにいるちさとのことかもしれません。一年くらい前に見世に来て、かむろとして働いてますよ。何でもどこぞの浪人の娘だって聞いてます。器量もいいし頭もいいから、引込にして育てるのかと思ったら、どういうわけかお女郎に付いてますがね」
かむろとは、吉原に居住する六、七歳から十三、四歳の童女のことを言う。上級の遊女について仕えて、身の回りの世話をしながら遊女としての在り方を学んだ。
引込かむろというのは、かむろの中でも特殊な例で、見世には出さず、遊女の世話を離れて、内所で行儀・茶道・華道・香道などの芸事を仕込まれた者のことをいう。
多くのかむろの中より容姿の優れたる者を選抜し、常に振袖など上等な着物を着せ、老齢の付き合い客などに出して座敷の様子を見習わせるようにしたのだという。
若い衆の言う通り、さよは武士の娘で教養にも優れ、誰もが口を揃えて器量よしという位なので、将来的に店に出すのであれば、引込かむろとして育てるほうが妓楼の利益になるように思える。
「そういや旦那が、ちさとを訪ねて誰か来るかもしれないって言ってたんだ。ひょっとしてあんたのことですか?今旦那を呼んできますからちょっと待っててください」
もちろん清三郎と妓楼の主とは面識はなく、人違いであるはずである。
だが話を聞けるのであれば好い機会だと清三郎はそのまま待っていた。
暫くすると、背の低い小太りの男が、内所から辺りを気にしながらやって来た。
その風貌から、市之進の話に出てきた中万字屋の主勘兵衛に間違いない。
絹縮緬の丈の長い着物に羅紗の羽織を着た贅沢な出で立ちである。
片手を懐手にして、横柄な態度で清三郎に話しかけた。
「なんだお前さんかいちさとに用があるってのは。うちの客じゃないようだけど」
「いえね、用ってわけじゃねえんですが、ちょいとばかりそのちさとって娘の親御さんを見知ってるもんですから。元気にしてるなら報せてあげてえなって思いましてね」
「なに?お前さんは浦上様の知り合いか。ならば是非伝えてほしいことがある」
勘兵衛は態度を一変させ、清三郎の袖を引いて店の奥の階段下へ、人目を避けるようにして連れて行った。
階段下では下男たちが車座になってカルタ賭博をしていたが、勘兵衛はそれを蹴散らした後、声を潜めて、
「お前さん、本当に浦上様の知り合いかい?何か証しになるもんでもあるかい?」
「いや証しになるもんなんざ持っちゃあいませんが、あっしは確かに浦上様の知り合いでさあ。大和屋の手先なんかじゃありませんぜ」
「馬鹿!声が高いぞ。誰かに聞かれたらどうするつもりだ。お前さん、なぜ大和屋と浦上様のことを知っている?」
清三郎は内心で「余計なことを言ってしまった」と思ったが時既に遅し。勘兵衛は睨みつけるように清三郎を見上げ、無言で圧力をかけてくる。
「いや実はひょんなことから浦上様から事の顛末を聞きやして。そいで様子を見に来たってわけです。何もちさとを取り返そうって料簡じゃねえんですが、浦上様のほうへ勘兵衛さんから便りが届いたっていうから、ひょっとすると何かあるんじゃねえかと思ってね」
「なるほどそういうことか。いかにもあたしから浦上様へ便りを送ったのは本当だ。お前さんがそれを知っているとなると、どうやら浦上様の知り合いというのも本当のようだな。詳しいことは言えないが、あたしとしてはちさとを浦上様へお返ししたい事情がある。だが大和屋の手前無断で返すこともできない。お前さんが何か策を講じるならばあたしが取り計らうが、何か妙案はあるのかい?」
清三郎は気まぐれに様子を見に来ただけで、妙案なぞあるはずもない。
かと言ってこの機をみすみす見逃すのは惜しいと思って必死に思案を巡らしてみたが、下手の考え休むに似たり。
無駄に時間を浪費するばかりであった。
するとその時、俄かに店内が騒がしくなってきた。そして見世の中で誰かが、
「おーいそろそろ道中に出るぞ」
と、叫んだ声が聞こえた。
その声を聞いた途端、楼主勘兵衛は急に慌てふためいて、
「あたしもこんなところで油を売っている暇はなかったんだ」
ドタバタと足音を立てて二階へと上がって行ってしまった。
清三郎が階段下に一人取り残されると、それを見咎めた若い衆に、部外者は見世の外に出るよう怒られた。
せっつかれながらも清三郎は、懲りずに若い衆へと尋ねた。
「一体これから何が始まるっていうんだい?」
すると若い衆は、胸を反らせて誇らしげにして、
「道中ですよ。太夫が今から桔梗屋に向かうんです。お客さんがお待ちですからね。ほらそこにいちゃ邪魔だから、仲之町まで行って待っててくださいよ。今に太夫が行きますから。見事なもんですよ」
花魁という呼称が使われるようになったのは宝暦年間以降のことなので、この頃は花魁道中とは言わずに、単に「道中」或いは「滑り道中」「道中行列」などと言った。
高級遊女との遊興には、客は一旦揚屋に上がり、そこに遊女を招くことがしきたりとなっている。
従って、松の位の高級遊女は、妓楼と揚屋を行き来する必要があった。
その移動を旅行に見立てて道中と称した。
例えば、江戸町の遊女が京屋へ至り、京町の遊女が江戸屋へ出るなど、東海道五十三次の起点と終点の如き遠方へ旅立ちをする心持に例えて、道中という名前が起きたのである。
清三郎は若い衆に言われた通り、吉原中央を走る大通りの仲之町で、道中行列を待つことにした。
噂には聞いていたが、実際の道中を見るのは、清三郎にとってこれが初めてだった。
いつの間には仲之町には、道中を一目見ようと人だかりができていた。
若い男に限らず、女から子供まで、キラキラと眼を輝かせて太夫の登場を待ちわびている。
誰かが「来たぞ!」と叫んで、水道尻と呼ばれる吉原の最奥を指さした。
観衆の視線が、一斉にそこへと向けられた。
若い衆が、定紋の付いた大提灯を掲げて先頭を歩いている。
茶屋船宿の提灯を星の如く連ね立て、その後ろを少女二人がついてくる。
晒木綿に若松の染模様をした着物を着て、天鵞絨の帯を締め、髪は垂れ髪にして、てっぺんに小さく髷を結って、そこに平打ちの簪と花を模した飾りが揺れる。
顔は白粉に紅を引き、子供ながらに目の覚めるような化粧をしている。
あれがかむろであろうか。
続いて九尺はゆうにありそうな長柄の傘が眼に飛び込んできた。
若い衆は誇らしげに傘を担いでいる。
その後ろに、尋常ならざる空気を纏った人物がいるのが分かる。
傘で隠れた顔が徐々に明らかになるにしたがって、観衆から大きな歓声が上がった。
いよいよ太夫がやって来たのである。
銀糸で花車紋の刺繍が施された打掛をはおり、緋縮緬の襦袢に、紗綾と白綸子の小袖を重ね、頭には玳瑁の櫛をひとつだけ挿している。
素足に高歯の塗下駄を履いて、両手を懐手にして、決して脇目を振らず水平に正面を見据えたままのすまし顔で、外八文字をしながらゆっくりと歩みを進めてきた。
煌びやかな衣装を召した太夫を、振袖新造、遣り手、幇間など総勢十余名が取り囲んだ風情は、この世のものとは思えぬ艶美な景色だったという。
清三郎は太夫の姿を見た刹那、そのあまりの美しさに体中に電撃が走ったかのような衝撃を受けた。
ほっそりとしたおとがいに、黒く大きな瞳と長く伸びた睫毛。
透き通るような白さの首すじが、妖艶な魅力を湛えている。
まさしく風姿嬋娟、花の顔柳の眉、一世一代の美人というべきであり、玉質たる仙姿はそこに居るだけでこの吉原廓中を圧倒する程であった。
「あ、あのお女郎、大層な美人ですがなんてお人ですかい?」
清三郎は思わず隣の見知らぬ中年男に尋ねた。
「なんだあんた知らないのかい。あれが当世随一の遊女名香太夫だよ。大和屋茂右衛門の馴染みで、今日も登るってんでこうやって道中に出たのさ」
「大和屋?あの太夫は大和屋の敵娼なんですかい?」
「ああそうだよ。あれくらいの遊女だ。大和屋のような余程の金持ちじゃないと手が届くもんじゃないよ。あたしらみたいな貧乏人にゃ、こうやって道中を眺めるくらいが関の山ってとこさ。あたしなんて嬶の目を盗んじゃせいぜい河岸見世あたりで———」
清三郎は男の自分語りを上の空で聞いていた。
名香太夫は、勘兵衛の妓楼、中万字屋抱えの遊女である。
中万字屋と茂右衛門が、名香という稀代の傾城を介して繋がっていることは分かった。
併し、市之進との関係は未だ不明である。
清三郎は大和屋との繋がりを耳にして、これまでの夢見心地が嘘のように、現実の世界に引き戻されたような気がした。




