第六章 下谷広徳寺②
「モクが知らぬ人に懐くとは珍しいのう」
老僧はじゃれ合う兵助とモクを見て目を細めている。
「和尚様はこのお寺の住職でいらっしゃいますか?」
「かつてはここの住職であったが、今では隠居の身じゃ。この草庵で悠々自適に暮らしておるわ」
老僧は広徳寺九世雲厳老師といい、広徳寺中興の祖、説叟和尚について修行すること多年、遂に禅の理を究め、印可を得た人物だという。
だが着物は襤褸と見紛うが如く至って質素であり、物腰も柔らかであった。
だから兵助は、この老人がそのような高僧だとは露知らずにいた。
「お主、喉が渇いておらぬか?」
老師は長火鉢にかけてあった鉄瓶から、直に湯を茶碗に注ぎ、茶を点て始めた。
「お主はこの辺りに住んでいるのか?」
老師は流れるような手付きで茶筅を動かしながら言った。
「いえ、おれは深川蛤町に住んでます」
「ほう深川とな。それはチト遠いのう。なぜにこの下谷を独り歩いておった?」
「実は…」
兵助は今しがた市之進のところであったことの顛末を、老師に包み隠さず語った。誰かに聞いてほしい思いがあり、自然と雄弁になっていた。
「おれはどうしたらいいか分からないんです。浦上様のお嬢様を助けたい気持ちはあるけど、自分の将棋を賭けに使うようなことはしたくないし…」
老師は黙って兵助の話を聞いていたが、唐突にその言葉を遮って語り始めた。
「兵法は人を斬るとばかり思うはひがごとなり。人を斬るには非ず。悪を殺すなり。一人の悪を殺して、万人を活かすは、はかりごとなり」
「———?」
「御公儀剣術指南役柳生但馬守様はその昔この様に言いなされた。剣術には、活人剣と殺人刀があると。これ即ち、剣の使い方次第によっては、人を殺すこともできれば、人を活かすこともできるということ。目先の出来事に囚われず、大局を見て判じ、天道に添った行いをするべきじゃ。わしも将棋のことは少しは知っているつもりじゃが、お主の将棋が例え金を稼ぐ手立てにされようとも、それで救われる者がおるならば、きっと天道に背いた行いではないはずじゃよ」
「……」
兵助は黙したまま俯いて、何事も応えない。
老師は慈悲に満ちた眼をして、
「お主、まだ何か自分の気持ちを隠しているようじゃな。この際正直に何もかも言ってみたらどうじゃ」
その語り口は穏やかだったが、兵助は背筋に水を垂らされたかの如く心臓が鳴った。
老師の見抜いたとおり、兵助にはまだ誰にも語っていない悩みがある。
実は、あの七郎との一戦以来、将棋に負けることに強い怖れを感じるようになっていたのである。
異次元とも思える七郎の強さの前で、自分の将棋に対してすっかり自信を失っていたのだ。
あの日の将棋を思い返してみると、七郎の広大無辺な指し手の前では、自分がこれまでに将棋に込めてきた努力や情熱は、取るに足らないちっぽけな物ではないかと想像された。
七郎との対局以降、不遜な態度を改め、稽古に励んできたつもりではある。
だが真摯に修業を積めば積むほど、果たして七郎の高みにまで到達できるかどうか、確信には至らなかった。
その不安が、いつしか畏怖へと変わってしまった。
今後、七郎と同じくらい強い者が現れたら、自分は益々自信を失って駄目になってしまうかもしれない。
そんな不安が頭を過ぎり、指し将棋に消極的になっていた。
だからあの日の勝負以来、兵助は自分より強そうな相手と将棋を指していない。
指そうという努力もしなかった。
あらゆる指し将棋の勝負を避けるようにしていた。
負けに対する恐怖が先行し、勝負に挑めなくなっていた。
市之進と指した時も、清三郎に促されなければ、きっと逃げ出していただろう。
そして清三郎が気づいていたように、兵助の将棋にも変化が見られた。
いつもならギリギリのところを読み切って、踏み込んで相手の玉を鋭く寄せていたのに、市之進との対局では、手が縮こまって受けの手ばかりを指してしまっていた。
自分でもこれは本来の将棋ではないと分かっていたが、どうしても手が伸びなかった。
そしてこのままこの様な将棋を指していけば、実力はやがて頭打ちとなり、いずれ無惨に負けてしまうだろう。
そんな将棋を指すことは、清三郎や市之進を失望させてしまうと思う。
兵助に掛る期待が大きければ大きいほど、指し将棋から逃げ出したくなってくる。
だから、さよを救いたい気持ちは強いけれど、話を受ける決心ができなかった。
兵助が賭け将棋を理由に勝負を拒否しているのは、単なる逃げ口上に過ぎないことを、老僧は見抜いていた。
兵助は心の底を見透かされ、何も言い返すことが出来ずに沈黙している。
平静を装ってはいるが、老師は兵助の眼が一瞬動揺したことを見逃さなかった。
「お主、何かを怖れているのだな」
老師の眼は今はもう厳しいものに変わっている。
その眼に見据えられると、兵助は金縛りにあったように動けなくなった。
そして、不思議と今抱いている心情を全て吐き出したい気持ちになっていた。
「和尚様…おれは負けるのが怖いんです。将棋に負けたら、これまでの自分の頑張りが消え去っちゃいそうで…。今まではこんな気持ちになったことはなかったのに、今は自分の将棋に自信がないし、おれが負けることで周りの人を不幸せにしちまうかと思うと、とても将棋を指す気にはなれないんです…」
「ふむ…。お主の顔からは、迷い怖れ不安、あらゆる負の感情が見て取れる。その気持ち、分からなくもないが、将棋で負けたところで命まで取られるわけではあるまい。何がお主の心を捕えているのか知らぬが、一度無心になって将棋に向かい合ってみてはどうじゃ」
「どうすれば無心になれますか?おれは和尚様みたく、何年も修業をしたわけじゃないから、無心になんかなれそうもありません…。おれだって本当は、前みたいに何も考えないで強い人と将棋を指してみたいんだ。でも今は…」
「まずは無理に無心になろうとせずに、目の前の対局に集中するようにすればよかろう。今のお主は、指す前から負けることに怖れすぎておる。例え将棋に負けたとしても、己が力を全て発揮できたのであれば、それは決して無駄ではない。勝つ時もあれば負ける時もあるのが将棋じゃ。負けから学ぶことができれば、それでいいんじゃよ」
老師の言う通り、兵助は七郎との対局で、負けはしたが多くのことを学んだ気がする。
七郎もまた、兵助から何かを学んだと言っていた。
あの時は七郎に完膚なきまでにやられたと思っていたが、実はそうではなかったのだと、今では分かる。
七郎は紛うことなき天才だが、兵助の将棋には、七郎とは異なる魅力が備わっているのである。
「童子の頃を思い出してみよ。あの頃はきっと、負けても負けても何度でもぶつかっていく気持ちがあったはずじゃ。そしてその負けん気のままに、どんどん強くなっていったろう。負けることを怖れてはならん。『身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ』じゃよ」
老師は元の優しい眼つきへと戻って笑った。
老師の説教を聞いて、幼少の頃に湯屋の二階で出会った女の子のことを、兵助は思い出していた。
兵助がここまで強くなれたのは、あの少女に出会い、負けたからだ。
あの負けがなければ、今の自分はなかったかも知れない。
そう思うと、七郎に負けたことも、自分を成長させてくれる糧であるような気がしてきた。
憑き物が落ちたように、兵助の表情が活き活きとしてくると、老師もそれを感じ取ってか、これまでとは少し趣旨の違うことを言った。
「心の修業ばかりに専念して、技の修業を疎かにしてはならんぞ。時に兵助よ、お主誰か師匠を持っておるのか?」
兵助はこれまで、誰か特定の師匠に付いて将棋の修業をしたことはなかった。
ほぼ実戦のみで将棋の腕を磨いてきた。
実戦以外にやることと言えば、詰将棋を自作することくらいだが、それでも充分に終盤の斬れ味を保つことはできていたのである。
併し、七郎と指してみて、我流の限界を感じたのもまた事実である。
七郎の将棋は、これまで町で指したことのある棋客達とは比べ物にならないほど洗練されていた。
「おれには師匠はありません」
兵助が力なく言うと、
「ふむ。師匠がなくては将棋が指せないということではないが、将棋家では日々研鑽を重ね、門外不出の秘技を既に生み出しておると聞くからの。お主がより高みを目指すのであれば、良き師に巡り合うこともまた肝要であろう。案じなくともよい。お主にツキがあれば、自ずからその機は訪れるものじゃ」
将棋家とは一体何のことか分からなかったが、老師の言葉は兵助の気持ちを楽にした。
この時もう兵助は、市之進の願いを聞き入れ、さよを助けようという気持ちになっていた。
結果はどうなるか分からない。
だが将棋に全力を尽くして、さよを救うことをできるならば、兵助は「人を活かす将棋」を指せたことになる。
それに、さっきまでは知らない棋士と戦うことが怖かったはずのに、今では彼の盲人棋士と戦いたくてうずうずしている。
「和尚、有難うございました!和尚のお陰で、悩みがすっかり晴れました。これからはまた新しい気持ちで将棋に励んでいきます。浦上様のお話も受けようと思います。本当にありがとうございました」
「お主の力になれたのであれば、わしも喜ばしい限りじゃ。また困ったことがあったらいつでも来なさい。モクもお前さんと遊んでほしがっているようだからの。今日はもう遅い。寺の者に深川まで送らすから、一緒に帰りなさい」
老師は山門まで兵助を見送ってくれた。別れ際に、
「心が乱れたら将棋も乱れる。思わぬ悪手を指すぞ。『道者の胸の内は、鏡の如くにして、何もなくして明らかなる故に、無心にして一切の事一つも欠く事なし。是只平常心なり。此の平常心を以て一切の事をなす人、是を名人と云うなり』この言葉、よく覚えておくのじゃぞ」
と念を押した。




