第六章 下谷広徳寺①
「以来拙者は、さよを取り返そうと手を尽くしておる…」
市之進は兵助たちにそう呟いた。
兵助と清三郎は、市之進の過去を知って、かけるべき言葉が見つからなかった。
身分が固定されているこの時代、それぞれの階級間では基本的に大きな接点はない。
市之進の武士としての生き様や、大和屋の豪商としての狡猾さは、単なる素町人に過ぎない兵助たちにとって、不意に垣間見た遠い世界の出来事である。
「それで、あっしらに何をしてほしいってんで?」
兵助たちがここに招かれたのには何か理由があるはずだが、二人にはまだそれが分からない。
芝居や戯作の中でしか見たことがないような出来事が、今眼前に展開されているが、本心を言えば、面倒なことに巻き込まれるのは御免被りたい。
市之進は清三郎の表情を察して、少し遠慮気味に言った。
「さよを助けるために、力を貸してほしい———」
市之進は下谷に越してきてからも、ずっと腑抜けのような暮らしをしていた。
毎日酒をあおり、一日中部屋に閉じこもったままで、そんな自堕落な生活を見かねた長屋の者が、毎朝下谷稲荷で願掛けでもしたらどうかと勧めたが、「神や仏なぞはこの世におらぬ」と切って捨て、態度を改めることはなかった。
そんな或る日、どこで市之進の居場所を突き止めたか分からぬが、吉原は中万字屋の主勘兵衛から、一通の便りが届いた。
妓楼の主人は俗に忘八と呼ばれ、儒教における八種の徳、仁・義・礼・忠・信・孝・悌を忘れた人物とされていた。
江戸末期に書かれた随筆『世事見聞録』には次のように書かれている。
「売女は悪むべきものにあらず。只悪むべきものは、かの忘八と唱ふる売女業体のものなり。天道に背き、人道に背きたる業体にて、およそ人に非ず。畜生同前の仕業、悪むに余りあるものなり。その所業、先づ人の愛子なるものを、わづかの代金にて買い取り、一家の内に飼鳥の如く籠め置き、情根限りの実情を尽くさせ云々」
そんな勘兵衛から届いた便りの内容は、さよは見世にて息災で働いており、年季証文は勘兵衛が所持している。百両の金ができたならば、それと引き換えにさよを返すから心配無用、というものだった。
これは市之進にとっては想像もしていない出来事であった。
尋常に考えれば、忘八である勘兵衛が、さよや市之進に対し僅かな同情さえ持つ気遣いはない。
だがさよが連れ去られたあの日、勘兵衛の態度はどこか市之進に対して同情的であったようにも見える。
忘八もまた人の子であれば、完全に人の心を失った者だとは言えないのかも知れない。
或いは市之進への心情とは無関係に、勘兵衛自身の利害で、さよを返そうと画策しているのかも知れない。
そしてまた大和屋の罠である可能性も否定はできない。
いずれにしても、勘兵衛の言葉を真に受けるならば、さよを助ける公算は無ではないことになる。市之進の心には、微かに希望の炎が灯った。
併し、ひとつ重大な問題がある。
さよを助けるためには、百両の金が必要だということだ。
市之進は生粋の武士で金を稼ぐ術を知らぬ。
内職をしてはいるものの、日銭を稼ぐのが精一杯で、纏まった金を手に入れることは不可能である。
もし大きく金を稼ぐ方法があるとしたら、それは印将棋の世界へ踏み入ることしかなかった。
これまで潔癖に生きてきた市之進ではあったが、その為に浪人をし、さよを失った。
これからは修羅の道を往く覚悟はあった。
だが現実は厳しいもので、如何に印将棋が盛んな世の中とは雖も、そうそう大金の賭けられる勝負など存在しない。
公には印将棋は禁じられているから、やるとなれば細々と小さい勝負で勝ちを重ねるしかない。
だが武士である市之進は、博奕打ちが集まる賭場へ大っぴらに出入りすることも憚られる。
他に考え得るものとして、再び大和屋へと勝負を挑み、一時に百両の金を取り戻す方法がある。
だがあの盲人棋士に、市之進が勝てるという保証はどこにもない。
そして闇雲に勝負を挑んだとしても、大和屋が受けるはずもないのである。
万事休した様に見えた。
そんな時、風の噂で、両国広小路に立つ奇妙な少年棋士の話を聞いた。
棋力は噂通り折り紙付きであり、上手くすれば彼の盲人棋士にも勝てる光明が見つかるかも知れぬと、藁をも掴む思いでここまで漕ぎつけたという。
即ち、いつか大和屋と対戦する機会が訪れたら、兵助に助太刀を頼もうという腹積もりである。
兵助と清三郎は顔を見合わせて考え込んだ。
事情は分かるものの、兵助たちにとって、危険はあれど何一つ利得がない。
「浦上様、事情は分かりますがね、こいつが大和屋と戦って勝てるかどうかは分かりゃしませんし、まだ相手にしてくれると決まった話じゃねえんでしょう?」
「そもじの言う通り、大和屋と戦うには才覚せねばならん…。そこは拙者が何とかするつもりだ。何とか力を貸しては貰えぬか?」
市之進は両手をついて二人に頭を下げた。
こうまでされると、清三郎には返す言葉がない。
沈黙に耐えかねて、兵助へと話を振った。
「おい兵助、お前はどうなんだ?」
「おれは…」
兵助は応えに窮している。
普段の兵助であれば、二つ返事で引き受けているように思えるが、今回は違った。
多くの江戸っ子と同様、兵助は本来義理人情に厚い性格である。
市之進の苦しみは理解できるし、何より自分と同年代のさよが、親子離れ離れで暮らしているというのが、兵助の心に響くものがあった。
兵助には苦界での生活が具体的にどんなものかは分からないが、両親と離れて暮らすということだけで、酷く耐え難いことのように思えた。
併し、そういう事情を斟酌しても、この時の兵助は、彼の盲人棋士と対戦したいという気持ちにはなれない理由があった。
市之進はさすがに落胆の色を見せたが、
「今直ぐに答えを出してくれとは言わぬ。充分に思案してくれ。拙者と将棋の相手をしてくれるだけでも構わぬからたまには顔を見せてくれよ」
と態度を切り替えた。
この辺りは聞番時代の役で培った交渉の巧さで、兵助たちをなんとか繋ぎ留めておこうという算段であろう。
市之進自身も、さよを救い出すにも今すぐに動ける状態ではないことを自覚していた。
結局兵助と清三郎は、一局の将棋を指しただけで、市之進の長屋を辞することになった。
それは僅かな時間ではあったが、市之進の語ったことが、兵助の心に重しの如く圧し掛かっている。
果たして自らの下した判断が正しかったのか、兵助は今でも引っかかっていた。
長屋から出ると、陽はもう傾きかけていた。
下谷から深川までは一里以上もあり、急がねば日が暮れてしまう。
二人は重い足取りで歩き始めた。
二人とも暫く黙って歩いていたが、不意に清三郎が口を開いた。
「そういやおめえ、今日の将棋どこかおかしかったな。何かあったのか?」
「……」
兵助の様子は、市之進との対局の時から明らかにおかしかった。
今も清三郎の問いかけに対して何かを隠しているようである。
「お互いに隠し事はなしにしようぜ。おめえが受けたくねえってんならそれで構わねえんだ」
清三郎が兵助のことを心底心配してくれているのは分かっている。
ただそんな清三郎にだからこそ、正直に胸の内を打ち明けられない事情がある。
今は自分の気持ちをどう表現していいか分からなくて、
「そんなんじゃないよ。もうおれのことはほっといてくれ!」
と強い口調で怒鳴ってしまった。
予想外の反応に、清三郎は呆気にとられているが、直ぐにムッとした表情になって、
「なんでえ人が心配してやってるってのに偉そうにしやがって。じゃあもうおめえのことなんざ構ってやらねえよ。俺は今からちょいと吉原へ行って、さよって娘のことを探って来るからよ。じゃあな」
言い残してさっさとどこかへ行ってしまった。
その場に独り残された兵助は、急に不安な心持になった。
一人で深川まで帰るのは心細いし、清三郎を怒らせてしまった後悔もある。
トボトボと力ない足取りで帰路につこうとすると、不意に足元へ白い毬が、どこからともなくコロコロと転がってきた。
蹴とばそうと足で振り払ってみたものの、毬は兵助の足を巧みに躱し、さらにまとわりついて離れようとしない。
不思議なことがあるものだとよくよく見てみると、毬だと思われたその白い塊は、どうやら仔犬のようであった。
「やあ真っ白な犬だ。かわいいなあ」
抱き上げてみると、小さな尻尾を思い切り振って、兵助の手をペロペロと舐め始める。
今まで落ち込んでいた気持ちが、少しだけ軽くなったような気がした。
するとその時、二丁ほど離れた道の先で、一人の老人が大きな声を張り上げているのが見えた。
「モクやーい。どこへ行ったー?」
どうやらこの仔犬を探しているようである。
老人は白衣一枚に竹箒を手にしており、直綴や袈裟は身に着けていなかったが、剃髪なので僧なのであろうことは察しがついた。
兵助は老人に向かって大きく手を振った。
「おおこんなところにおったか。作務をしておったが、ちょっと目を離した隙に駆け出しおって」
老人は息を切らせて駆け寄ってきた。
「これは和尚様の犬ですか?」
「左様。わしの犬で名をモクという。黙念のモクじゃ。つい先だって飼いだしたばかりじゃが、中々かわいいもんじゃ。おぬしが見つけてくれなんだら探すのに難儀するところであったわ。何か礼をせねばならんの。寺で茶でもご馳走するからちょっと来なさい」
老僧は半ば強引に、兵助の手を引いて歩き出した。
上野の山には寛永寺が鎮座しているため、その周辺の下谷辺りは寺町となっており、大小無数に寺が林立している。
老僧はそのうちの一つ、下谷広徳寺の僧だと言った。
小柄で鶴のように痩せており、口の周りに山羊髭を長く生やしている。
七十は過ぎているだろうが、背筋はスッと伸びており、その歩みは年齢を感じさせなかった。
老僧と共にその広徳寺の参道を往くと、やがて兵助の眼に、左甚五郎の作とされる立派な瓦屋根の山門が見えてきた。
そしてそこには「拝観謝絶」と墨痕鮮やかに、荒々しい字で揮毫された立札が掲げられている。
兵助は思わず身構えたが、老僧は立札に目もくれず、ずんずんと寺領へ入っていった。
兵助も緊張しながら門を潜ると、正面には同じく瓦葺きの本堂が鎮座し、その玄関は破風造りで威風堂々たる趣きである。
敷地内には梅林が生い茂り、広々とした枯山水の庭も設けられていた。
遥か奥には途轍もなく大きな、大名家の物らしき石塔の墓標が何基も立っており、荘厳な雰囲気を醸し出している。
境内には馬場や廓が作られ、ここが大名の菩提寺だということが一目で分かった。
老僧は本堂ではなく、寺域の片隅にある塔頭と思われる小庵に兵助を通した。
十畳ほどのこじんまりした書院と、方丈の庫裏が併設され、どうやらここに独居しているようだった。
兵助に抱かれていたモクは、庫裏に放たれて勢いよく室内を駆け回った。




