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第五章 浦上市之進⑤

「まずはひとつ。浦上様は大聖寺だいしょうじ候の棋力、いかほどのものか存じておられますか?」

 茂右衛門の問いは意外なものであった。

 大聖寺候とは、加賀大聖寺藩主前田備後守利章(としあきら)のことである。


 利章は愛棋家として世に知られた大名であるから、茂右衛門はやはり、将棋に対して何かしら強い関心を持っているらしい。

 それが一体何に起因するのか、今の市之進には分かりようもない。


 大聖寺前田家と越中富山前田家は、共に将棋が奨励されている藩であり、将棋を通しての交流は常にあった。

 利章が江戸在府の折、大聖寺家の江戸勤番武士に適当な相手がいなければ、利章はわざわざ市之進を指名して将棋の相手をさせていたほどだ。


「相当な腕前と伺っておるが、身共は指したことがない故、確かなことは分かりかねる」

 市之進は嘘をついた。

 そもそも主君と同格にある大名の腕前を、平士に過ぎぬ者がどうこう言うわけにはいかない。


 茂右衛門はピクリと眉を震わせたように見えたが、平静を装って、

「なるほど。では浦上様は富山前田家御家中にて、留守居役をされていたと聞きましたが、大聖寺家御家中にどなたか所縁ゆかりのあるお方はおられますか?」


 越中富山藩と加賀大聖寺藩は、加賀本藩より分化した支藩であるから、言わば兄弟のような間柄である。

 お互いに独立した藩であるとの意地はあったが、上屋敷は同じ本郷にあるなど、実質的には加賀藩の一部とする見方も強かった。

 特に市之進の役である留守居役業務に於いては、幕府及び諸藩との交流・情報収集がその重要な役務の一つであるから、大聖寺藩と頻繁に情報交換をし、一体となって行動することが多い。

 当然、市之進にも大聖寺藩には旧知の仲間が大勢いた。


 市之進は併し、茂右衛門の問いに何か不審なものを感じた。

 茂右衛門は大聖寺前田家について何事か知りたがっているのが透けて見えるが、それを分かって家中のことを漏らす武士は居まい。

 茂右衛門が何を意図しているのかは分からないが、不用意な発言をするほど、市之進は愚かではなかった。


 或いは、ここで何かしらの情報を茂右衛門に与えていれば、その見返りを市之進も得られたのかも知れない。

 だが浪人はしていても、まだ武士としての誇りを、市之進は捨てていなかった。

 市之進は一寸ちょっと思案するふりをして、

「すまぬが思い当たらぬ」

 と、とぼけた。


 すると、茂右衛門の顔はみるみるうちに紅潮し、怒りの色をありありと見せ、

「質問はこれだけにございます。それならばこちらにも考えがあります故———」

 何やら含みのある言い方をした。


 市之進の感じた嫌な予感は、どうやら的中したようだった。

 市之進がここに呼ばれた理由は、大聖寺候について何かしらの情報を得るためであり、その情報が得られた場合にのみ、市之進の望みが叶えられる手筈だったのだろう。


 或いは初めから、全ては市之進をあざむくために仕組まれた罠だったのかも知れない。

 そうであれば、見抜けずに甘い口車に乗った自分が馬鹿であったと、諦めはついた。

 娘のさよにはまだ苦労を掛けるが、地道にゆるしが出るのを待つほかないと、市之進は気持ちを新たにしていた。


「もうここには用が無いようであるな」と言おうとした瞬間、

「ところで———」

 茂右衛門が低い調子で言った。その顔は能面のように冷たい。


「柏木屋は百両の件、どこまで浦上様へお話されましたか?」

「身共がその方と将棋を指せば、柏木屋の百両の借金は帳消しになると聞いておる」

 百両の件も、市之進の同情を誘ってここへおびき出すための才覚だったのだろう。

 それはご破算になったと、茂右衛門は理由を付けて言うに違いない。

 柏木屋には気の毒なことだが、諦めてもらうよりほかないと、市之進は思っていた。


 だが茂右衛門の吐いた言葉は、予想とは違うものであった。

「ハテ、そいつはおかしいですな。柏木屋は手前どもに、浦上様が百両を肩代わりすると申しておりましたが」


「な、何を申す。身共は知っての通り一介の浪人に過ぎぬ。百両もの大金を用意することなどできぬことは、その方も分かっておろう」

「併し柏木屋があまりに真剣に言うもので、手前もすっかり信じ込んでしまいました。手前どもとしましても、将棋を指すだけで百両もの大金を免ずるというのはあり得ないお話で。そうなると、柏木屋が我らをたばかったのでございましょうか?」

「馬鹿な。伝兵衛どのとは長い付き合いだ。身共を謀ることなぞあるはずはない」

「左様でございますか。ただ柏木屋が本当に我らを謀っていた時には、一体どうなされます?手前どもも百両の金が戻らないとなると、これは只では済みません」

「む、その時は…」

「ははは。斯様かようなことを浦上様へ申上げても、仕方のないことでございますな。ではここでひとつご趣向といたしましょう。浦上様がここにいる多川勾当(こうとう)と将棋を指し、浦上様が勝たれれば、柏木屋の百両は免じましょう。もし多川勾当が勝てば、百両はそのままと。そのほうが本気の勝負が見られますゆえ」

 茂右衛門の眼は少しも笑ってはいなかった。


 茂右衛門の言葉を真に受けるならば、柏木屋の借金が消える可能性はあるが、市之進にはこれといった悪目は見当たらない。


 併し、市之進は憤った。

 これは明らかに、賭け将棋への誘引だからだ。

「斯様な話は受けかねる」

 市之進の言葉が終わる前に、遮って茂右衛門が言った。

「まさか柏木屋を見捨てて逃げるような真似を、武士である浦上様がするはずはございますまい———」

 茂右衛門は冷酷な眼で、市之進をじっと見据えた。


 重々しい空気の中、多川勾当と市之進の戦いが始まった。

 多川は対局が始まる前も、始まってからも一言も発しない。

 ただ茂右衛門には全面的に恭順の意思を示しているようである。

 多川勾当がどのような経歴で、どのような将棋を指すのか、市之進には分からない。

 手探りの中平手での対局となったが、実力は多川のほうが一枚上手であった。


 序盤から独創的な指し回しで、久々の対局で勘が鈍っていた市之進は徐々に差を付けられてしまう。

 終盤になってもその差は埋められず、気がつくと、市之進の玉は一気に寄せられていた。


「これでは柏木屋の借金を免じることは叶いませぬが、浦上様が気にすることはございません。だが手前が気になるのは、柏木屋の言うことでございます。柏木屋ははっきりと、浦上様が借金の肩代わりをすると言っておりました。我らを謀っているのならば不届き千万。是非とも柏木屋本人に話を聞くが肝要かと存じます。さすれば柏木屋が嘘をついているのか、はたまた手前どもが嘘をついているのかお分かりになりましょう」

 茂右衛門は不敵な笑みを浮かべて言うのだった。


 市之進は虚ろな眼で桔梗屋を出た。

 陽はとうの前に落ちて、辺りはすっかり暗くなっている。

 見世の軒先に吊るされた提灯には火が灯り、通りを行く人々の顔を紅く照らしていた。


 彼らの表情は、得も言われぬ高揚感に満ちている。

 市之進は提灯の灯から目を背けるように、足元へと視線を落とした。

 丁度この日は満月の夜で、己の影が黒々と地面に形作られていた。

 煌々《こうこう》と輝く月明かりの下、市之進ばかりが、この吉原で暗く陰鬱な表情をしていた。


 やつれた表情の侍が、仲之町大通りの揚屋の前で呆然と佇んでいるのを、周囲の者は好奇の目で見てくる。

 市之進は思わず編笠で顔を隠し、足早に大門を出て、駕籠へと乗り込んだ。


 市之進は駕籠の中で、今日起きた出来事を思い返していた。

 柏木屋は今頃、百両の借金が消えたと思い込んで、高いびきで寝ているに違いない。

 伝兵衛のあの涙は、どう思い返してみても真実の涙であり、市之進を騙そうという風には少しも見えなかった。

 本当に将棋を指すだけで百両の借金が消えると、そう思っていたからこそあれまで必死だったのだ。


 茂右衛門が言いがかりを付けて、百両を帳消しにする約束を反故にしたのは、市之進から情報が手に入らなかったからであろう。

 そうだとしても、市之進が将棋に勝っていれば、まだ借金を帳消しにできる機はあったのである。

 それなのに己が力不足で、その機をみすみす逃してしまった。市之進は自責の念に駆られずにはいられなかった。


 長屋に駕籠が着いたのは、もう四ツ半を過ぎたあたりだった。大家の伝兵衛の部屋も、さよを預けた老夫婦の部屋も、どうやら閉まりをした後のようであった。


 市之進は誰も居ない居宅に戻り、水をぐいと一杯飲みほした。今日は大変な一日であったが、また明日から、これまでとは変わりない一日が繰り返されるものと、この時はまだそう思っていた。


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