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第五章 浦上市之進④

 座敷の奥で、床の間を背にして胡坐をかいている一人の男の姿が、市之進の眼に飛び込んできた。


 幅広に仕立てた黒羽二重の紋付を裾短すそみじかに着て、帯は薄鼠のまがい織、羽織は呉絽服連ごろふくれんに八丈紬の裏を付け、正しく通人粋人とされる風貌である。

 手には銀無垢の煙管きせるを持って煙を吐きながら、客を待つとは思えぬ横着な態度でいた。


 市之進が眉を吊り上げて見据えると、男は直ぐに居住まいを正して深く頭を下げて言った。

「大和屋茂右衛門でございます」


 二十畳ほどの広さの座敷には、芸妓も幇間たいこもちも誰一人いない。

 茂右衛門は日頃から取り巻きを多く抱えて廓内を闊歩かっぽしていると聞くが、この日はそのような様子は見られない。


 ただ市之進と茂右衛門だけが、広々とした空間で無言で対峙している。


 市之進は茂右衛門のことを、遊び人風の優男と勝手に想像していたが、目の前にいる現実の茂右衛門は、背が高く、頬はこけているが眼つきは鋭く、意外にも野性的な感じを受ける偉丈夫であった。

 歳はまだ三十そこそこのように見える。


「本日はお越しいただき、まことにありがとうございます」

 落ち着いた声色で再び丁重に頭を下げた。

「お誘いいただきかたじけない」

 市之進は儀礼的に応えた。そして茂右衛門同様、落ち着き払った様子で座敷内をぐるりと見回して、

「この座敷には、拙者と貴殿の二人しか居らぬようだが、斯様なところにて将棋を指されますかな?」


 この質問は想定していたとばかりに、茂右衛門は表情一つ変えずに、

「いかにもここは揚屋ですが、何もここから妓楼ぎろうに上がろうということではございません。料理を頂きながら将棋でも指そうという趣向でございまして、手前どもの屋敷でもよかったのですが、こちらの方が浦上様のお宅から近かったもので、馴染みの揚屋に席を用意させていただきました。人払いもしてありますので、大事なお話も出来ようかと存じます」


 なるほど茂右衛門の言い分は理に適っている。

 常人には理解できない金の使い方をする大和屋だけに不安が先に立ったが、どんちゃん騒ぎの中で将棋を指すようなことはないと知って、市之進はまず安心した。


 そして次に、大事な話という言葉を思い出して、それは大名貸の件を意味するのだろうと直ぐに察した。

 茂右衛門は市之進の表情を読み取ってか、

「前田様へのお話、徳兵衛より伺っておられますか?」

 遠回しに尋ねてきた。市之進は黙って頷いた。

「では柏木屋の件も?」

「それは柏木屋より聞き申した」

 今度ははっきりと声に出して答えた。

「ならば話は早うございます。今料理と対局の用意をさせますので暫しお待ち下さい」


 茂右衛門が手を打つと、直ぐに徳兵衛がやって来た。

 茂右衛門は徳兵衛の耳元で何やら囁いている。

 料理の打ち合わせでもしたのか、徳兵衛はまた直ぐに退室したが、今度は徳兵衛と入れ替わる形で一人の男が座敷内へと入って来て、茂右衛門の傍らに静かに座した。


 男は塗杖を手にしており、どうやら盲人らしかった。

 真っ白でボサボサの蓬髪ほうはつで、顔には深い皺が刻まれている。

 眉は伸び放題で、歯は何本も抜け落ちていた。

 歳はどう見ても七十を過ぎている様な老人である。

 一見すると、上級の按摩のような身なりをしているが、市之進はこの老人が将棋指しであることを、直ぐに見抜いていた。


 石田流の開祖である石田検校(けんぎょう)を始めとして、盲人の強豪棋士は江戸時代を通じて数多く居た。

 将棋史研究の第一人者である菅谷要は、『将棋名匠逸話』の中で「盲人棋客は、将棋が盛んであっただけに享保時代には、この特別な畑に育った人達もかなり沢山居た。石田検校は享保時代に入れるには少々前の人だが、山崎勾当、岩村検校なぞは、盲人棋士として残された棋譜とともに、今に聞こえている人達である」と記している。

 この老人の纏う空気は、歴戦の強者のそれと同じであった。


「この御仁ごじんも将棋を指されるようですな」

 市之進はさり気なく聞いた。

「ほう…さすがは浦上様。お察しの通りでございます。手前は将棋を愛好しておりますが、腕のほうは到底浦上様と指せるようではございません。手前が浦上様のお相手をしたのでは失礼かと思い、この度は浦上様に相応しい者を連れて参りました。この者が手前の代指しを致しますがよろしいでしょうか」


 市之進はチラと老人の顔を見たが、老人はさっきから眉一つ動かさず木石のように微動だにしない。

 言葉も一言も発することはない。

 市之進に対しても、全くの無関心ですらあるように見えた。


 老人の様子も不気味だが、市之進は、代指しと聞いてまず不審に思った。

 本当に将棋を愛好するならば、駒落ちであっても強豪とじかに指して教えを乞いたいと思うのが筋である。

 先程から市之進へ敬意のある素振りを見せておきながら、自分では指さずに代指しを使うのは道理に合わない。


 市之進は茂右衛門の問いかけには答えずに、

「その方何か企んで居られるか?今や一介の素浪人に過ぎぬ拙者との対局で大名貸を帳消しにするとの儀、考えてみると不審なところがあり申す」

 と逆に問うた。


「浦上様は何もかもお見通しでございますな」

 茂右衛門は薄っすら笑みを浮かべて、

「御不審に思われるのも無理はありません。お察しの通り、手前どもには少し浦上様にお伺いしたいことがございます」

「申してみよ。事と次第によっては、身共みどもこの話受けるわけにはいかぬ」

 市之進の口調は厳しかった。

「何も大それたことではございません————」

 これまでと変わらぬ声の調子ではあったが、茂右衛門の眼光は、一層鋭さを増したように見えた。

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