第五章 浦上市之進③
それから二、三日経った後、大和屋番頭の徳兵衛が突然現れた。
外には、迎えの三枚肩の駕籠が控えている。余りに丁重なもてなし振りに、市之進は面食らった。
「浦上様、主人茂右衛門がお待ちしております。乗物へどうぞお乗りくださいまし。手前どもがしっかりと案内させていただきます。ところで…浦上様には娘様がお一人いらっしゃいましたな。店の女中を呼んでありますので、浦上様が将棋を指している間、観音様にでもお参りに行ってはいかがでしょうか」
徳兵衛は大店の番頭らしく、万事そつがない。
一介の浪人の娘に対しても、下にも置かぬ扱いである。
市之進はその言葉に甘えようと考えたが、さよは、
「おばあさまのところにいるから結構です」
と徳兵衛の申し出を断った。
同じ長屋に懇意にしている老夫婦が住んでいるから、そこで市之進の帰りを待つつもりらしい。
徳兵衛は、
「お嬢様、観音様の門前には様々なお店が出ております。手前どもに言いつけてくだされば、美味しい食べ物綺麗なお着物、いかような物も進ぜましょう。是非いらして下さい」
と食い下がった。茂右衛門に言いつかっているのか、随分と必死な様子である。それでもさよは、武家の娘らしく、物に靡くようなことはせずに、
「私に斯様なものは不要でございます」
きっぱり言い放って取りつくしまがなかった。
こうなっては最早諦めるほかない。
この時徳兵衛、一瞬歯軋りをして、さよを睨みつけるような眼つきをした。
大和屋の屋敷が深川は霊厳島にあることは、江戸に住む者ならば誰もが知っている。
市之進も一路深川に行くものとばかり思っていたが、駕籠は浅草馬道へと一旦出て、そこから日本堤の土手八丁を悠々と進んだ。
まだ陽が高い内で、行き交う人々の姿は疎らだが、この道を通るということは、行き着く先は一つしかない。
吉原である。
潔癖な武士である市之進は、吉原には一見無縁のように思えるが、新規で江戸詰めとなる者が国許から出てくると、江戸定府である市之進が吉原を観光目的で案内することがよくあった。
単身赴任で兎角細かい出費の多い江戸勤番の武士たちは、見世に上がる金なぞはなく、いつも素見に行くばかりである。
当然市之進も見世どころか茶屋にすら上がったことはなかった。
この頃の吉原は、紀文や大和屋のような豪商が主役であった。
幕府の御用達商人たちは、歓楽街での官民接待が当たり前で、特に材木商の多くは深川で宴席を設けることが多かったというが、大和屋茂右衛門に限っては、商売とは無関係に、吉原での傾城買いで有名であった。
駕籠は吉原大門の前で止まった。
「医師之外何者によらず乗物一切無用たるべし」の高札があるから、いかに大和屋手配の駕籠と雖もこれは遵守せざるを得ない。
まだ昼時で人も多くはないが、乗物で乗り付けたお大尽の顔を拝もうと、足を止めている者がチラホラいる。
市之進が駕籠を降りると、すかさず徳兵衛がやってきて編笠を手渡した。
「人目が気になるようでしたらこちらを被りください」
周囲に目を配りながら、市之進に小声で囁いた。
市之進は、何もやましい行いをしているわけではないとして、編笠は手に持ったままでいた。
徳兵衛に促されるままに門を潜り廓内に入ると、不思議な感慨が胸を衝いた。
吉原に来ることなどいつぶりだろうか、と市之進は思った。
まだ聞番をしている時分、同輩と一緒に訪れ、見世を素見した帰りに浅草寺門前で団子を食べたことが、在りし日の思い出として甦ってくる。
今こうして駕籠に揺られ、お大尽のように吉原へ来てみても、何の喜びも感じない。
そんなことをぼんやり思いながら、徳兵衛の後について市之進は歩いていた。
廓内はまだ閑散としていて、地方から出てきたと思われる勤番武士たちが、三、四人の固まりでウロウロと歩きながら楽しそうに会話をしている。
そんな姿を横目に、徳兵衛一行は仲之町に面した最上格の揚屋である桔梗屋の前までやってきた。
揚屋というのは、遊客と遊女屋との間に介在して遊女を斡旋して座敷を貸す店のことで、客はそこで一通り宴席を設け遊興した後、遊女屋へと向かうのである。
徳兵衛は市之進のほうを振り返り、揉み手をしながら、
「こちらの座敷で主茂右衛門が待っております。料理と酒を用意させておりますので、ごゆっくりお楽しみください」
この話を受けたことを、市之進は今更ながら後悔していた。
将棋を指すだけならば、大和屋の屋敷内ですればいいのであり、このような過剰な歓待を受けるのは本意ではない。
何事もそつがなく、市之進の気性も心得ているであろう大和屋が、どういうつもりでこの場所に招いたのか、市之進には計りかねた。
併し、一度受けた話を反故にするわけにはいかない。
武士に二言はないのである。
市之進は不満をおくびにも出さず、促されるままに桔梗屋へと上がる。
桔梗屋の若い衆が、直ぐに市之進の元へとやって来て、二階へと案内してくれる。
二階には座敷がいくつかあるようだが、随分と静かで、どうやら大和屋が総揚げにしているようだった。
大和屋茂右衛門がいるという座敷の前に来ると、市之進は何となく嫌な予感がした。
襖一枚を隔てて座敷に茂右衛門がいるはずだが、そこには何か不気味な空気が満ちている気配がする。
得体の知れぬ緊張感が市之進を包んだ。
市之進が襖の前で佇立していると、徳兵衛が脇から襖をサッと引いた。




