第五章 浦上市之進②
市之進が浪人となって、六年の月日が流れた。
享保十三年、兵助たちと出会う一年前のことだ。
浪人当時はおかっぱ姿でまだ幼かった娘のさよも、今では髪を結ってすっかり娘らしい雰囲気になってきた。
恙なく続いていくと思われた生活であったが、実は市之進は、前年に妻の里香を病により亡くしていた。
市之進が浪人してからも、里香は一言も愚痴をこぼすことはなかったが、慣れない町方での暮らしが祟って患ったのかと思うと、市之進は後悔の念に苛まれる。
妻を失った今となっては、何とか再仕官を果たし、一人娘のさよを立派に育て上げることが何よりの望みであった。
家族三人の時には、現状に甘んじている気持ちがないではなかったが、いざ父娘二人きりになってみると、仕官への思いはより一層強くなった。
だが非情なことに、急遽新藩主となった前田出雲守利隆は、権力固めのために自身に近い家臣を重用し、先代の利興に近い家臣を遠ざけていたため、市之進が再仕官できる望みは、益々小さくなっていた。
そんなある日、突然、深川で材木商を営む大和屋という店の番頭が、浅草阿部川町の市之進宅を訪れた。
材木商の大和屋といえば、江戸で知らぬ者は居ない当世きっての豪商である。
その大和屋が何用かと問えば、
「手前は深川で材木を商っております大和屋の番頭で、徳兵衛と申します。存じて居るかは分かりませぬが、我が主人茂右衛門は、大の将棋好きでございまして、このお長屋に大層将棋のお強いお侍様がいらっしゃるという噂を聞きつけて参りました。どうか是非一度お手合わせを願えませんでしょうか。もちろん、只でお越しいただこうとはゆめゆめ思いません。聞けば浦上様は、元は富山前田様の御家中にいらしたということではありませんか。ご存知の通り手前どもは、富山前田様へ多額の大名貸をしております。事と次第によっては便宜を図り、浦上様の帰参の後押しをしたいと、茂右衛門は申しております」
番頭は立て板に水の如くまくしたてた。
市之進は初め、「大家がまたいらぬことを言いふらしたのだな」と思いながら聞いていた。
だがその中で出てきた、復帰の便宜を図るという言葉は、全く思いがけないものであった。
大和屋は、先代の時に幕府の御用商人となり、その一代で莫大な富を築き上げ、今では多額の大名貸で法外な金利を得ているという。
あの紀文も、全盛期には老中阿部豊後守正武に、五十万両もの大名貸を行い、年二百両もの金利を得ていたとされているから、当時の豪商にとってはごく当たり前の行動だったのだろう。
天下の諸大名が大名貸の返済で四苦八苦している現状を鑑みれば、市之進一人の仕官など、貸金を盾にすればどうにでもなりそうに思える。
もし本当に市之進の仕官が叶い、尚且つ前田家の借財が減るのであれば、それは主家への大いなる忠義立てになるに相違ない。
だが一つ不審な点がある。それは、当代の大和屋茂右衛門、放蕩の限りを尽くし、大和大尽として世に聞こえた商人ではあるが、将棋を愛好しているとは市之進は露ほどにも聞いたことはない。
聞こえてくるのは、吉原で傾城買いに精を出しているという遊蕩ぶりばかり。
大和屋ほどの寵児が、何故一介の浪人である市之進へ声をかけてくるのかが不思議だった。
しかも相手は損得勘定でしか動かぬ商人である。
何か裏があると思わなくはない。
但し、今の市之進には財産などはなく、これ以上失うものがないのも事実である。
例え何か裏があったとしても、手痛い被害を受けることはない。
もし事が上手く運ぶならば、本当に再仕官の望みが叶うかもしれない。
市之進は、娘のさよのことを想うと、直ぐにでも応諾したい気持ちではあった。
併し、金の力で己の望みを叶えるような真似は、果たして武士として正しい行いなのか、心の内では葛藤がある。
市之進は黙したままでいた。番頭は早く結論を出すように急かしたが、市之進は、
「一晩考えさせてほしい」
とだけ言ってこれ以上語ることはなかった。番頭は表面上は無念の思いを滲ませたが、どうしてもと懇願するわけでもなく、案外あっさりと引き下がった。
その夜遅くなってから、ホトホトと長屋の戸を叩く者があった。
町は既に寝静まっている。市之進は訝しんでゆっくりと戸を開けて応対すると、長屋の大家がぼーっと暗闇の中に立っていた。
大家の名は柏木屋伝兵衛といい、家守ではなく長屋の地主でもある。
市之進の住む棟割長屋の表店で古着屋を営んでいた。
いつもは軽薄な調子の伝兵衛だが、今日は何やら深刻な表情をしている。
「こんな夜更けに何事ですかな?」
傍らではさよが寝ているから、起こさぬように市之進は声を潜めて言った。
「市之進様、今日大和屋がこちらへ参りませんでしたか?」
伝兵衛の声は力なく、市之進よりも一層小さい。
「参りましたが、それがどうかしましたかな?」
「市之進様、どうか大和屋の願いを聞き入れてくださいませんでしょうか」
伝兵衛の言い方には、どこか切羽詰まったような様子が見える。
両手をついて、市之進に懇願するような態度を見せた。
「どこでその話をお知りになりましたか?なぜ大家さんがそのようなことを申される?」
一瞬、緊張した空気が流れた。市之進の声は低いが、その口調には棘がある。その態度に困惑しつつも、「実は…」と伝兵衛は声を震わせながら告白を始めた。
「ここのところふた月の間、どうにも商売がうまくいっておりません。古着を仕入れようにも、どの仲買に当たっても既に全部買い占められていまして。どうやらどこか他の店が、手前どもより値良く買いあげているようなんです。手前どもの商いは、仕入れが出来なければどうにもなりません。掛けの支払にも窮して店はあっという間に傾きかけてしまいました。そんなところに大和屋がやってきて、利息はなしで金を融通してやってもいいと言うんです。後先考えず、その言葉に甘えて百両ほど借金を致しました。ですが仕入れの様子は変わらず、利息なしとはいっても元金すら返す当てもなく、どうしたらいいものか途方に暮れていたところ、今日番頭の徳兵衛があたしのところにやって来て、市之進様が大和屋と将棋を指すよう説得するならば、手前の借金百両をチャラにすると言うんです。市之進様が将棋を指すだけで百両もの借金がチャラになるんです。誠に身勝手な話ですが、どうにか大和屋と将棋を指して頂けないでしょうか。この通りでございます」
伝兵衛は平伏し、己が額を畳にこすりつけている。
そんな様子を、市之進は冷静な眼で見つめていた。
「面を上げてくだされ。話は分かりましたが、聞いてみると少し合点のいかぬところがあり申す。それがしが将棋を指すだけで、大家さんの百両もの借金が帳消しになるとは、理屈の合わぬ話のように思えますが?」
市之進は油断なく聞いた。
甘い話には何か裏があることを、聞番の頃の経験から身を以て知っている。
「それは何でも、将棋の名門前田家御家中の指し手と指す機会は滅多にないということで、どうしても一局教わりたいから、大家から説得してくれれば嫌とは言えないはずということで、それに報いて百両をチャラにすると言うことでございました。大和屋にとっては百両なぞは端金。大和大尽が吉原で一晩遊べば、それくらいすぐに吹き飛ぶと聞いております。だがあたしのような小商人にとっては大金でございます。大和屋から取り立てをされれば、今は返す当てがありません。家族共々首をくくらなくてはなりません。どうか市之進様、お願いいたします」
伝兵衛の必死に拝む姿を見て、市之進は同情を禁じ得なかった。
日頃から伝兵衛には何かと世話になっている恩義もある。
もしこの話を受けなければ、伝兵衛の家族は離散し、自分と同じような苦痛を味わうことになるかも知れぬ。
それに大和屋が本当に善意で言ってきていることならば、それを無下に断るのは却って義理に背くようにも思える。
市之進は頭の中で、様々な理屈をこねくり回してみたが、実は他に、心を突き動かすものがあるということを、自分自身で理解していた。
伝兵衛が大和屋との話を切り出した際、市之進は明らかな不愉快の色を見せた。
大名貸を帳消しにするという話が外に漏れたら拙い、と咄嗟に思ったからだ。
それは即ち、心の底では大和屋の力を借りての復帰を望んでいるということの証左である。
清貧な武士を気取ってみても、人間とは我欲には勝てぬものよ、と市之進は思わずひとり苦笑が出た。
ここで伝兵衛に恩を着せる形で承諾するのは、自分に嘘をつく卑怯なやり口であろう。
市之進は、己の欲望を肯定せざるを得なかった。
それは、武士として私利私欲を捨てて生きてきた市之進にとって、大きな決断であったことは想像に難くない。
だが武士としての誇りよりも、家族を想う気持ちのほうが、今の市之進にとっては勝ったのである。
「御事情よく分かり申した。それでは大家さん、番頭の徳兵衛に、この話お受けいたすとお伝えくだされ。浪人の身になって以来、故あって駒を握っておらなんだが、この市之進、大和屋どののご厚意に感謝し、謹んでお受けいたす」




