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第四章 両国広小路②

 そんなある日のこと、この日も二人が広小路に即席の店を出していると、清三郎が声を潜めて言った。


「おい兵助。おめえあの野郎に気がついているか?何日か前から来てて、ずっとこっちを見てる。あいつ侍だぜ。なんだか気味が悪くてしょうがねえや」

 男は年の頃なら四十くらい。

 色の褪せた着流し一枚に大小を差し、じっとこちらを見ている。

 月代さかやきは伸び放題で、どうやら浪人らしかった。

 顎に一筋の刀傷があるのが、一層不気味だ。


 日頃も武士の見物客がいないわけではないが、参勤交代で江戸詰めになった勤番武士が、江戸観光で回向院に参詣した折に立ち寄るような場合が多く、その時には兵助たちもさして警戒するほどではなかった。


 諸大名に改易や減封の多かった江戸初期に比べ、泰平の世になって久しいこの時代、浪人の数自体は減少傾向にあったが、一度浪人に身をやつしてしまえば、平和なだけに再仕官も難しく、主取りをすることが叶わずにそのまま浪人として生涯を終える者も少なくなかった。

 そのような者の中には、武士としての矜持や意地も失い、乱暴狼藉を働いたり、用心棒と称して町民から金を巻き上げる無頼の徒もいたという。


 だから兵助たちも、浪人姿の侍には警戒を怠らなかった。

 詰将棋を解かせるのはできるだけ町人相手にし、侍がその場にいれば、大げさな煽りは控えてきたつもりだ。

 だが今兵助たちを見据える浪人は、詰将棋を解くのでもなく、ただ遠巻きに見ているだけで意図が分からない。

 二人は不気味ではあるが、無視を決め込むことにした。


 夏の日差しは、まだ午前中だというのにジリジリと熱い。あまりの暑さからか、客足がぱったりと一瞬止んだ。

 隣では水茶屋の看板娘が空を見上げてぼやいている。

 この機に乗じて兵助と清三郎は、仮初かりそめの休息を取ろうと将棋盤をどかして床几に腰を下ろした。


 すると、おもむろにかの侍が近づいてきて、

「拙者にも一つ解かせてもらえるかな」

 存外に穏やかな口ぶりであった。


 胆が据わってるように見えて、兵助には意外と繊細なところがある。

 突然のことで困惑していると、体を入れ替えるように清三郎が、

「へいいらっしゃい」

 と平静を装って対応に出てきたが、その声は裏返っていた。


 覚束おぼつかない手つきで清三郎が駒袋を差し出すと、浪人は黙って駒を握り、それから手を開いて兵助に見せた。


 清三郎はそれとなく浪人の手指を観察してみたが、節くれた様子や掌のマメなどは見えず、どちらかというとしなやかな印象であった。

 即ちこれは、武芸の鍛錬を重ねて武威ぶいを誇るような浪人ではないということを意味している。


 兵助は浪人が無作為に選んだ駒を使って、即興で詰将棋を作った。

 あまり難解なものは拙いと判断し、短手数の平易なものにしてみたが、浪人はそれを一瞥すると、

「もそっとむつかしいものを所望いたす」

 と、落ち着いた口調で言った。


 直ぐに詰みを読み切ったのだとしても、そこは特段驚くに当たらない。

 修業を積んだ将棋指しならば、短手数の詰将棋などは朝飯前だからだ。


 不可解なのは、より難解なものを求める点だが、兵助には何かピンとくるものがあったのか、言われた通り再び駒を並べ始めて、

「じゃあこれはどうですか。握り詰じゃなくておれが前に考えたやつだけど」

 兵助はこれまでに作ってきたとっておきの詰将棋の中から、比較的長手数で難解な手順と思われるものを並べた。それを見た瞬間、浪人の眼は俄かに真剣味を帯び、瞳が縦横に忙しなく動き始めた。

 稍あって浪人は、見事詰手順を見つけ出した。


「やあお侍様、見事な腕前でございますね。あっしらも長いことこちらで店を出しておりますが、お侍様ほどのお方はまだ出会ったことはありませんよ」

 清三郎がお世辞とも本音ともつかぬことを言う。

 その陰で兵助は、浪人の棋力に驚愕していた。


 以前七郎から試されたように、実は兵助も、浪人の棋力を詰将棋を解く速さで測ろうとしていたのだ。

 浪人の棋力は、間違いなくそこいらの素人とは格が違っていた。

 どういうわけか、兵助の顔は心なし曇って見えた。


 浪人は清三郎の言葉には何の反応も示さず、

卒爾そつじながらお手前ら、拙者と一局お手合わせを願えぬか?」

 無表情に言った。

 無表情ではあるが、居丈高いたけだかな物言いではない。

 だが浪人の発言は、二人にとっては予期せぬことで、兵助と清三郎は思わずお互いに顔を見合わせた。


「訝しむのも無理はない。ただ拙者も将棋を多少(たしな)むゆえ、お手前らの腕を見込んで一局手合わせを願いたいのだ」

「将棋を指すだけでいいんですかい?」

 清三郎が恐る恐る聞くと浪人は、

「む、それは…」

 案の定何かを言い及んでいる。

 無表情を装ってはいるが、どうやら隠し事は苦手のようだ。


「それはさる事情があり未だ委細申すわけにはいかぬが、まずは将棋を指すだけで構わぬ」

 人の往来が途切れた時を見計らって現れたことからも、ただ将棋の誘いに来たのではないことは明らかだった。

 相手は浪人で、何か隠し事をしているのだとすると、簡単に受けられる話ではない。


「おい兵助どうする?なんだかいわくありげだぜ…」

 清三郎は浪人に背を向け、そっと兵助に耳打ちした。

「おれは指し将棋はちょっとやりたくないな…」

 なぜか兵助は急に元気がない。


「なんでえおめえらしくねえな。前まで強い奴を見たそばから、直ぐ指そうって言ってたじゃねえか。どうかしたのか?」

「べ、別にどうってことはないけど、今は知らない人とは指したくないんだよ。印の誘いかもしれないし、おれは印将棋はしたくないんだから」

「それもそうだな。銭を巻き上げられたんじゃたまらねえから、その辺もう一度探ってみるか」


 清三郎は侍のほうを振り返って作り笑いをしてから、

「お侍様、あっしらはこの通り善良な素町人でして、将棋の勝負をするにしても一切銭のやり取りはしていません。ましてやこの兵助はまだ小僧っ子。勝った負けたも餓鬼の遊びでございます。そいつを得心いただけるんでしたら、一局謹んでお受けしますが」

「無論、銭のやり取りなぞ一切無用———」

 浪人は間を開けることもなく、毅然として言い切った。

 その態度には、嘘はないように見えた。


「おい兵助ああ言ってるぜ。近頃握り詰ばっかりで飽きちまったから、たまには指し将棋もいいじゃねえか。おめえの指し将棋も久しぶりに見てえしな」

 だが兵助のほうは、何となく煮え切らない態度で、首を縦に振ろうとしない。

 一方の浪人は、少し不安そうに二人のやり取りを眺めている。

「心配いらねえよ。あの浪人もどうやら悪い奴じゃなさそうだ。何かあったら俺が何とかするからよ」


 兵助も、浪人が悪い人間ではないであろうことは同意できる。

 だがどうしても、気が進まない理由が、兵助にはあった。

 それを言い淀んでるうちに、気づくと清三郎が勝手に話を進めてしまっていた。


       *


 浪人の語ったところによると、名は浦上市之進といい、とある大名の江戸定府の藩士だったという。

 故あって主家を浪人し、最初は浅草阿部川町に住んでいたが、今は転居して下谷の裏長屋に逼塞しているらしい。

 主君は誰であったのか、何故浪人したのか、核心と思われる部分には一切触れなかった。


 全体的に口数は少なく、それが意識してのことなのか、或いは根っからの性質たちなのかは、兵助や清三郎にはまだ判断がつかない。


 対局は、どういうわけか市之進の浪宅ですることになった。

 両国から下谷までは、約一里も離れている。

 それに相手の根城で指すとなっては、何が起こる分からないと、さすがに清三郎も反対したが、市之進たっての願いということで、従わざるを得なかった。


 川風の抜ける両国橋を渡り、青々とした木々が生い茂った上野の山を目指して、三人は夏の日差しの中をぞろぞろと歩いた。

 市之進の住む裏長屋は、下谷稲荷のすぐ裏手にあるらしい。


 下谷の名の由来は、上野山に対して低地の土地を谷に見立てて下谷と称したとされている。

 この辺りにも両国広小路と同じく、火除け地として広小路が設けられていて、『大江戸志』には、「上野山下は元来幽閑の火除地なりしが、何日かの頃よりか両国広小路と等しく綱渡り、放下、操り、踊、狂言等を専にして雑民市を成す」とあり、やはり賑わいを見せていたようである。


 その広小路を過ぎてしまえば、そこには寺町が広がっており、重厚ないらかを頂いた寺社が、所狭しと軒を連ねている。

 下谷広小路の喧騒が嘘のように静かな地域だ。

 その静かな路地裏を、三人は黙々と歩いて、下谷稲荷の裏までやって来た。


 市之進が慣れた様子で木戸を開けて、長屋の路地へと入ろうとすると、大家らしき男とばったり鉢合わせになって、

「おや市之進様、今日はお連れ様とご一緒ですか。お珍しいことですね」

 愛想のよい笑顔を向けてきた。

 どうやら周囲との関係は悪くないらしく、市之進の第一印象からすれば、これは少し意外であった。


 市之進の住居は、兵助たちの住む長屋と大差ない、九尺二間の簡素な間取りである。

 室内にはこれといった家具はなく殺風景で、妻や子のいる気配もない。

 どうやら鰥夫やもめ暮らしのようだった。

 それでも炎天下を歩いてきた二人を気遣ってか、欠けた湯呑ではあるが、かめから水を汲んで出してくれた。

 町人の暮らしに馴染んでいるのか、武士がこのような気遣いをしてくれるのが兵助たちには意外だった。


 室内に家具は見当たらないが、部屋の隅には、裏長屋には似つかわしくない脚付きの立派な将棋盤がひっそりと置かれている。

 暫く使っていないらしく、埃を被っていた。長屋の一室ではあるが、壁にはきちんと刀掛けが誂えてあって、市之進は、腰の大小をそこへ掛けると、大事そうに将棋盤を抱え、部屋の中心に据えた。


「それでは一局お願いつかまつる」

 堅苦しい武家の言い回しをしながら駒を並べ始めた。

 だが兵助は、黙って俯いたままで駒を並べようとしない。


「おい何やってんだよ。さっさと並べろよ」

 清三郎が急かすと、気の抜けた返事をした後、弱々しい手つきで漸く並べ始めた。


「手合いは平手でよろしいかな?」

 市之進から問われると兵助は、

「市之進様の香落ちではいかがですか…」

 囁くような声で言った。


 それを聞くや否や、「えっ!」と清三郎が驚きの声を上げた。


 兵助のほうが駒を落とされることなど、未だかつて見たことがない。

 何があったか知らぬが、こんな弱気な兵助をこれまで目にしたことはなかった。


「何弱気なこと言ってやんでえ。おめえはいつだって、この江戸には敵無しだって威張ってたじゃねえか。それを駒落とされだなんて、逆に市之進様に失礼ってもんだ」

 思わず兵助を一喝した。

 市之進も無言でうなずいて、同調の意思を示しているようだ。

 兵助は一瞬何事か反論しようとしたが、ぐっと言葉を飲み込んで俯いた。

 ここまで言われては、兵助も平手での勝負を受けざるを得なかった。


 市之進の先手、兵助の後手、手合いは平手で対局は始まった。

 兵助は対局中も覇気がない。

 市之進は武士らしく気合の入った手つきで指している。

 背筋もピンと伸び、今は浪人といえども、その所作は若い頃から厳しく仕込まれたのであろうことが感じ取れる。

 一方の兵助は、背筋が丸まり、手つきも酷く力のないものだった。


 市之進の将棋は極めて筋の好いもので、経験も豊富であり、序盤に於いては兵助よりも一枚上手であった。

 積極的に動いて攻めの手を繰り出してくる。兵助は、市之進の勢いに飲まれ、後手に回ってしまっている。


 だが兵助が受けに回ってしまっているのは、何も市之進が攻め将棋だからというわけではなさそうだった。


 本来攻めっ気でいえば、兵助も負けておらず、普段の通りならば、強引に乱戦に持ち込むのも厭わないはずである。

 それなのに、今日はその鋭い攻めがほとんど見られない。

 中終盤になると、市之進もやや無理攻めの感があり、形勢にはほとんど差が見られなくなっていた。

 むしろ、兵助のほうが少し良くなったくらいである。

 やがて、一瞬の気の緩みからか、市之進のほうに思いがけない悪手が出た。


 兵助にとってはまたとない好機で、清三郎は脇で見ていて、ここで兵助が踏み込めば、きっと市之進玉をあっという間に寄せてしまうだろうと思っていた。


 だが、兵助は踏み込まなかった。自玉の安全を第一とし、寄せに出なかったのである。

 無論形勢はまだ兵助のほうがいい。

 市之進は必死に攻めを繋げようと試みるが、堅い兵助の守りの前に、攻め手が段々となくなってきた。

 兵助の受けは正確だった。

 最終的に市之進は、攻めを切らされて万事休した。

 弱気には見えても、地力では兵助が上回っていた。

 だが持ち味である寄せの鋭さや終盤の斬れ味は、最後まで見ることが出来なかった。


 結果だけ見れば、兵助が受け潰した形であり、完勝と言えるものかもしれない。

 事実、市之進は完敗だと感じていた。

 併し清三郎は、兵助の将棋に、これまでとは違う異変を感じ取っていた。


 兵助は勝ったにも拘らず喜びもしていない。

 太い溜息をついて、胸を撫で下ろしているようである。


 これも妙だが、市之進のほうも、負けたというのに、どこか嬉しそうな表情をしているのを、清三郎は見逃さなかった。


「旦那、将棋に負けたのにあまり悔しそうじゃねえですが、そいつはどういうわけで?ここまで旦那に付き合ったんだから、あっしらを誘ったわけを聞かせてもらおうじゃありませんか」

「お主の察する通り、それがしがお主らを将棋の誘ったには、深いわけがある———」

 市之進は淡々とした口調で語り始めた。

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